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第3部

幕間二 まどろみの中で

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「いやはや、派手にやられましたね」

 草木も眠る深夜。月と星の光しか届かない深い森の中で。
 黒いスーツに身を包んだボルド=グレッグは、ただただ感嘆するようにそう呟いた。
 彼の視線の先。遥か崖の下。
 そこには、先程まで自分達がいた施設が煌々と燃え上がる光景があった。

「――支部長! お急ぎを!」

 と、その時、同行する部下の一人がそう告げた。
 現在森の中を逃走するボルドは一人ではなかった。黒いスーツと丸眼鏡を身に付けた二十名ほどの男女。それから五機の鎧機兵。それが彼らの一団の構成だった。

「お前達!」

 別の部下が鎧機兵達に叫ぶ。

「このままではじきに追いつかれる! すまん。ここで殿を頼めるか?」

 今、彼らを追跡している敵の数は恐らく数十機。それも一流の操手ばかりだ。
 ここで殿を担うことは事実上、「死ね」と言っているのと同じだった。
 五機の鎧機兵は互いの顔を見合わせた。
 そして五機の内、三機がズシンと前に出る。

『二機は護衛に残す。お前達は支部長を頼む』

『私達は何としてでも時間を稼ぐわ』

『――我らが《黒き太陽の御旗》に誓って』

 三機が自機の肩当てに刻まれている、黒い太陽と逆十字の紋章をガンと叩く。
 殿を頼んだ黒服の男は小さく「すまん」と呟くと、

「では支部長! 早く――」

 組織の要と言っても過言ではない上司に撤退を促す――が、

「いけませんねえ。それは」

 ボルドはやれやれとかぶりを振った。
 そんな上司の仕草に、黒服の男は眉根を寄せた。

「し、支部長? 何を仰って……」

「殿なら私が務めましょう」

 それはあまりにも唐突な言葉だった。
 黒服達全員が唖然とした。しかし、それも当然だ。
 この切羽詰まった状況で長たる者が言う台詞ではない。
 誰もが言葉も発せない中、ボルドは三機の鎧機兵を見据えた。

「残念ですが、あなた方が命をかけても十分程度の時間稼ぎが限界でしょう。あなた方は確実に死にます」

 ボルドの宣告に、三機は何も答えない。
 死の宣告に怖気づいたのではない。「何を今更」という意志を示す沈黙だ。
 ボルドは部下達の態度に苦笑を浮かべる。

「あなた方の忠誠は嬉しく思います。ですが、だからこそ死なせたくないのですよ。あなた方では恐らく十分が限界。しかし、私なら二時間は稼げます」

 そこでふっと笑い、

「それに、私一人ならどうとでもなります。これでも《九妖星》の一人ですし」

 普段ならば滅多に使わない称号まで持ち出した。
 これには周囲の黒服達もざわついた。
 《九妖星》とは《黒陽社》の九大幹部――最高戦士のみに与えられる称号だ。これを名乗る以上、彼らの長は本気なのだろう。
 もしかしたら、ここで追手を殲滅する気でいるのかもしれない。

「さあ、時間がありませんよ。早くお逃げなさい」

 ボルドがそう急かす。しかし、黒服達は戸惑うばかりで動こうとしない。
 そして黒服達のリーダー格が進言する。

「支部長。何と仰られようと、やはり支部長お一人を残す訳には……」

「すみませんが反論は聞きませんよ。それに――もう来てしまったようですし」

「は? 来た、とは――」

 と、黒服が困惑した声を上げかけた、その時だった。
 ズズウゥン――

「え? な、何だ!」

「う、うわあああ――ッ!」

 黒服達が動揺する。
 突如、森の奥から巨大な何かが落下してきたような轟音が響いたのだ。
 そして、何やら近付いてくる足音に、全員が息を呑んだ。

「ま、まさか、もう追手が……?」

 黒服の一人が唖然とした声で呟く。
 いくらなんでも早すぎる。ここまで来るにはまだ二十分は――。
 と、考えた時、木々の間の中からそいつは現れた。
 漆黒の異形の鎧。大蛇のような尾。四本の角を持ち鬼の如き貌をした鎧機兵。
 あまりにも有名すぎる機体を前にして、全員が言葉を失った。
 が、そんな中でボルドだけは親しげに笑う。

「これはこれはクラインさん。やはりあなたが一番乗りでしたか」

 その台詞を聞くことで、ようやく黒服達の思考は動きだした。

「そ、《双金葬守》だとッ!」

「くッ、最悪だ! 闘神《朱天》だなんて……」

 と、動揺する黒服や鎧機兵達には、漆黒の鬼は見向きもしない。
 見据えるのは一人。ボルドの姿だけだ。

『お前の悪運もここまでだ。ボルド=グレッグ』

 ズシンと一歩踏み出して、漆黒の鬼が淡々と告げる。
 それは、思わず黒服達が動きを止めてしまうほどの圧を持つ声だった。
 しかし、ボルドだけは一切動じず、

「ふふ、そうはいきませんよ。私はしぶといですから」

 不敵に笑みを浮かべた後、パンと手を叩く。
 それだけで黒服達の硬直は解けた。

「ささ、お行きなさい! クラインさん相手に足止めできる自信などないでしょう」

「――くッ! 支部長、申し訳ありません!」

 言って、黒服達は次々と駆け出した。五機の鎧機兵も同じく逃走する。
 その光景を《朱天》は黙って見逃した。
 下手に追って、目の前の男に隙を見せる訳にはいかなかったからだ。
 そうして、しばらくしてから――。

「さて。大分静かになりましたし、そろそろ始めましょうか」

 ボルドはそう告げると、懐から短剣を取り出した。
 華美な装飾を施された儀礼剣。彼の愛機の召喚器だ。

「それではクラインさん。我が愛機、《地妖星》にてお相手しましょう」

 月光が注ぐ森の中。
 ボルドは鞘から、スラリと刀身を引き抜いて――笑った。



 そこで、ぱちりとボルドは目を開いた。
 安楽椅子に座って、うたたねしていたところに人の気配を感じたのだ。
 案の定、目の前には人の顔があった。彼の秘書、カテリーナの顔だ。
 彼女はボルドが起きていることにまだ気付いていないようだ。

(カテリーナさん?)

 ボルドは眉根を寄せる。何故か、彼の優秀な秘書は瞳を閉じた状態で顔を近付けていた。両手を組み、まるで頬にキスでもしようとしていたかのような姿勢だ。
 ボルドは不思議そうに首を傾げて、彼女に声をかける。

「あの、カテリーナさん?」

「――ッ!? ボ、ボルド様!?」

「ボ、ボルド様? 随分と面映ゆい呼び方を……生まれて初めて呼ばれましたよ」

 安楽椅子をギシギシ鳴らして、ボルドは気恥ずかしそうに頬をかく。
 すると、カテリーナはカアアァと顔を赤く染めて、

「そ、それは、え、演技です! その、ここでは『新婚夫婦』で通すと仰ったのはボル――い、いえ、支部長ではありませんか!」

「は、はあ……? まあ、確かにそう言いましたが」

 何か腑に落ちない顔をするボルド。
 対して、カテリーナはごまかすように話題を変える。

「そ、それより支部長。例の少女ですが……」

「ああ、彼女ですか。どうです? 様子は?」

「まだ部屋で眠っています。ですが、じきに起きるでしょう」

「そうですか……」

 どこか安堵したような顔をする上司の姿を、カテリーナは少し躊躇うような眼差しで見つめた。そして意を決し、ずっと抱いていた疑問を口にする。

「あの、支部長。一つよろしいでしょうか?」

「ん? 何ですか? カテリーナさん」

 お気に入りなのか、安楽椅子をギシギシ鳴らしながら訊き返すボルド。
 カテリーナは言葉を続ける。

「……何故、わざわざ《双金葬守》に会いに行かれたのですか? あの少女の拉致を目的にしたのなら、あの男に接触するのはデメリットであるとしか思えません」

 部下の的確な指摘に、ボルドは苦笑を浮かべた。
 全くもってその通りだ。

「我々の存在を知れば、あの男は必ずここを突き止め、襲撃してくるでしょう。それを支部長が予測されないなど考えられません」

 自分の愛する男はそんな間抜けではない。
 言外にそう語りつつ、カテリーナはボルドに問う。

「何か別の狙いがおありでは? 教えて頂けませんか」

「……まあ、狙いというほどの大層なものではありませんが」

 と、前置きしてから、ボルドは語る。

「元々クラインさんにご挨拶するのは、この旅行の目的でしたし。何より今回は仕事ではありません。バカンスなんです。ですから、少しばかり刺激が欲しくなりまして」

「……刺激、ですか?」

 反芻して小首を傾げるカテリーナ。
 ボルドは「はい」と頷く。

「人間とは欲望の化身なんです。楽がしたい。お金が欲しい。女を抱きたい……っと女性の前でこれは失礼。まあ、そんな俗物的なものから、愛したい。愛されたい。といった高尚的なものまで。三大欲求を始め、あらゆる感情の根源には欲望があり、常に何かを求め続けないと死んでしまう生き物なんですよ」

 それが《黒陽社》の教義。ボルドの信念だった。
 だからこそ、彼は欲望を感じた時、それを否定しない。
 安楽椅子を揺らして、ボルドは言葉を続ける。

「頑張ってくれたカテリーナさんには申し訳なく思うのですが、今回、私にとってあの少女の拉致はおまけ……はっきり言えば、ただの餌です」

「……ああ、なるほど。そういうことでしたか」

 ボルドの事を誰よりも知るカテリーナは最後まで聞かずとも分かってしまった。
 そして、不意にクスクスと笑いだす。

「む。何ですかカテリーナさん。やぶから棒に」

「ふふっ、いえ、支部長はそのお歳でもまだ『男の子』なんですね」

 愛しげに目を細めてカテリーナは言う。
 一方、ボルドは苦笑いするだけだ。

「まあ、私も《九妖星》の一人ですから、やはり腕っ節にはこだわるんですよ」

 言って、ボルドは天井を見上げて笑みをこぼした。

「本気のクラインさんと手合わせしたい。それも私の欲望なのでしょうね」
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