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第12部

幕間二 四天の夢

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 ――その時。
 奉殿にて、黒い大刀が人知れず脈動した。
 まるで過去を振り返るかのように。

 ザアザアザア……。
 降り注ぐ雨の中。
 彼女は、屋敷の中を歩いていた。
 長い渡り廊下。
 そこを一人、進む。
 年の頃は二十歳を少し過ぎたほどか。
 長い黒髪を、頭頂部辺りで結いだ女性。
 凛々しく美しい顔立ちに高身長。腰には一振りの刀剣を差し、首元から軍章をひき違った隊服らしき衣装を纏う女性だ。
 名を、シイカ=クヌギと言った。

(ここも、いよいよ嗅ぎつかれたか)

 その隊服が示す通り、彼女は、元は軍人だった。
 アロン大陸における屈指の大国。
 その軍隊の部隊長を若くして務めていた。
 だが、それも二年前の話だ。
 今の彼女は違う。
 彼女は、とある部屋の前に立つと、襖を勢いよく開けた。
 そして開口一番に言う。

「厄介なことになったぞ。化け物」

 そこは、板張りの広い部屋だった。
 そしてその中央には、一人の人物がいる。
 彼女が『化け物』と呼んだ相手だ。
 確かに、それは、化け物と呼ぶに相応しい人物だった。
 その双眸は赤い魔眼。肌は浅黒く、総髪を揺らす頭部には三本の角。
 筋肉の鎧を纏ったその身は二セージル半を超す。和装の衣類こそ着ているが、とても人間には見えなかった。化け物は手酌酒を愉しんでいた。

「……む」

 酒の手を止めて、襖を開けた美女を見やる。
 精悍なのはともかく、端正な顔立ちをしていることが、少し意外だ。
 胡坐をかくその鬼の傍らには、巨大すぎる黒い直刀が突き立てられていた。

「……シイカか」

 鬼は、彼女の名を呼ぶ。
 一方、シイカは恐れることもなく、ツカツカと鬼の元へと近づいていく。

「エンマ」

 鬼の名を呼ぶ。

「ここも嗅ぎつかれた。軍が動き出したようだ」

「……そうか」

 鬼―エンマは酒を置き、太い腕を組んだ。

「思いの外、早かったな」

「……ふん」シイカは不快そうに呟いた。

「セラから入手した、あのおもちゃが余程気に入ったようだな」

「鎧機兵という奴であるな」

 セラ大陸から手に入れたという機械仕掛けの鎧。
 戦場を一変させた脅威の兵器である。

「セラも厄介なモノを生み出してくれたものだ」

 シイカが吐き捨てる。
 次いで、腰の刀剣の鞘をグッと握りしめて、

「いずれにせよ、国にとって我らはもはや用なしといったところだろう。数刻もせぬうちに鎧機兵の部隊が、この里を強襲するはずだ」

「……引き際であるな」

 エンマは膝に手を置き、立ち上がる。

「この里を捨てる。皆にはそう伝えよ」

「分かった」

 シイカは頷いた。

殿しんがりは私に任せろ」

 襲撃してくるのは、かつて彼女が所属していた軍だ。
 軍から離れても、その戦術は勝手知ったるものだ。

「里の者が撤退する時間ぐらいは稼いでみせる」

 自信を以て、そう告げるが、

「そうはいかぬ」

 エンマは、かぶりを振った。

殿しんがりを担うのは我だ。身重の妻に任せられぬ」

「―――な」

 シイカは目を剥いた。
 が、すぐに困惑したように頬を染めた。

「し、知っていたのか?」

「当然である」

 エンマは言う。

「自分の妻の変化ぐらい気付けずにいてどうするのだ」

「……むむ」

 シイカは、眉をひそめた。

「十八人も娶っておいて一人の変化によく気付くな」

「愛しておるからな」

 エンマは、当然のように言う。

「それに、子を――勇猛なる御方さま。そして、その御子さまをお守りする戦士を遺すことは、我が使命だ」

「……御方と御子か」

 シイカは、双眸を細めた。

「お前がよく口にする者たちだな」

「ああ」エンマは頷く。

「我らが偉大なる王だ。代行者たる御子さまを主君としてお迎えし、御方さまにご復活していただくことこそが、我ら四方天がこの世界に来た理由である」

 エンマは傍らの黒い大刀を引き抜き、肩に担いだ。

「北方天は、同志を募っておる。南方天は、国を造り始めた。西方天は、御方さまのために深淵へと潜っておる。そして――」

 そこで、エンマは太い左腕でシイカの腰を掴み抱き寄せた。
 高身長のシイカもこの男の前では、まるで小柄な少女のようだった。

「東方天たるわれがすべきことは、御子さまを傍らにてお守りする戦士を育てることだ」

「…………」

 シイカは、無言でエンマ――人外の夫を見据えた。

「……お前が……」

 唇を動かす。

「強い女ばかりを娶るのは、その御子とやらのために強い子を産ませるためか?」

「その通りだ」

 エンマは、はっきりと告げる。
 シイカは眉をひそめる。
 うすうす予感はしていたが、まるで道具のように言われ、流石に心が沈む。
 すると、

「だが、勘違いするでないぞ」

 エンマは、続けてこうも告げた。

「武才があればよいという訳ではない。それだけでお前たちを選んでなどおらぬ。愛を以て産まれなかった子が、強き戦士になれるものか」

「……エンマ」

 シイカは、エンマの顔を見つめた。
 それも事実だった。
 彼が、自分を道具扱いしたことは一度たりとてない。
 この愛しき人外の愛は、本物だった。
 だからこそ、彼に武とこの身を捧げたのだ。

が王もそうであった。万物を呑み干す破壊の王でありながら、その御心は誰よりも慈悲深い。その深き愛ゆえに、お怒りを抑えられなかったのだ……」

 そう呟き、エンマは遠い目をした。
 が、すぐに表情を鋭くして、

「愛しきお前たちは、誰一人とて死なせはせぬ」

 肩に担いだ大刀の柄を強く握った。

「無粋な機械人形どもに見せてくれよう。御方さまより授かりし牙。この大刀。焔魔の大太刀の威力をな」

 そう嘯き、エンマは不敵に笑った。


 ――ドクンッ、と。
 奉殿にて、黒き大刀は再び脈動する。
 魔王の牙より生まれし、焔魔の大太刀は静かに待つ。
 自分を振るう主の到来を――。
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