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第12部

第七章 父、家に帰る④

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 その頃。
 ムラサメ邸の門前にて。
 ライガ=ムラサメは一人、立っていた。

(ようやくか)

 息を吐く。
 部下とは、里に到着するなり別行動をしている。部下も含め、まずは一息をつき、それから本殿に帰還を報告する予定だった。
 部下が、自分を気遣ってくれたこともある。
 いずれにせよ、遂に到着した我が家。
 ライガにとっては生まれた時から住む屋敷なのだが、今日ばかりは緊張もする。
 この門戸をくぐった先には、妻と我が子がおり、御子さまが御座すのだ。

(よし)

 ライガは緊張しつつも、門戸をくぐった。
 庭園を進み、入り口の引き戸に手をかける。
 鍵はかかっていないようだ。そのまま開けた。
 すると、偶然だろうが、玄関先には一人の使用人がいた。
 六十代の男性。
 父の代からムラサメ家に仕えている人物だ。

「これは、旦那さま」

 使用人の男性は、両膝をついた。

「お帰りなさいませ」

「ああ。今、戻った」

 ライガは頷いて答える。
 それから、長い廊下を進む。使用人は立ち上がり、ライガに続いた。

「御子さまはおられるのか?」

 前を向きつつ、使用人にそう尋ねる。

「御子さまは、ただ今、アヤメさまと共に外出されております」

「そうか」

 少し残念に思いつつ、ライガは続けて尋ねる。

「フウカはどうしている?」

「奥さまは自室におられます」

 使用人は、少しだけ優し気に目を細めた。

坊ちゃま・・・・と共に」

「そうか」

 ライガは、淡々と答える。
 しかし、長年仕えている使用人には分かった。
 主人の足取りが少し早くなったことに。
 そもそも、先程から真っ直ぐ奥さまの私室に向かっていることに。

「御子さまがお戻りになられたら、ご連絡いたします」

「うむ。頼む」

 ライガがそう告げると、使用人は足を止めて、頭を下げた。
 再び一人になったライガは、さらに足を速める。
 そうして、幾つかの角を曲がり、ようやく妻の私室に辿り着いた。
 襖の奥からは、子供の明るい声が聞こえてきた。
 鉄面皮のようなライガの顔が、少し緊張する。
 そして、

「フウカ。俺だ」

 襖の奥に声を掛けた。
 すると、
 ――パシンっと。
 襖が勢いよく開かれた。
 ライガが微かに目を瞠ると、そこには片腕で赤ん坊を抱える妻の姿があった。

「あなたっ!」

 フウカは、驚いた顔を見せた。
 ライガは双眸を細める。久しぶりに会う妻。少し痩せたような気がする。
 が、それと同じほどに気になるのは――。

「あう?」

 パチパチ、と目を瞬かせる妻の腕の中にいる赤ん坊だった。
 ライガは軽く息を呑んだ。

(この子が……)

 愛らしい顔立ち。額に小さな角を持つ赤ん坊。
 妻が抱いているのだ。間違いなく、この子こそが……。

(俺の子なのか)

 心からの震えが来る。
 同時に、妻への深い感謝の気持ちが湧き上がってきた。

「……フウカ」

 妻の頬に、片手を当てる。
 まだ若いフウカは、少しドギマギしながら頬を染めた。

「苦労をかけてしまったな」

「い、いえ。私はあなたの妻ですから」

 言って、微笑む。
 ライガは、優しい眼差しを見せた。
 それから、赤ん坊へと目をやり、

「その子が……」

「ええ。そうよ」

 赤ん坊を両手で抱え直して、フウカは言う。

「私とあなたの子供よ」

「そうか……」

 ライガは赤ん坊を見つめた。
 そんな夫に、フウカは赤ん坊を両手で差し出して。

「ふふ。タツマ。あなたのお父さんよ。抱っこしてもらいなさい」

 そう言った。

「だあ?」

 赤ん坊――タツマは、よく分かっていない顔でライガを見つめた。
 ライガは緊張した面持ちを見せるが、

「……タツマ」

 恐る恐る息子へと手を伸ばした。
 母は優しい顔だ。だが、

「だ」

 ――ぺち。
 差し伸べられた父の手は、息子の紅葉のような小さな手で叩かれた。
 当然、痛くはないが、父は、ピシリと固まってしまった。

「タ、タツマ?」

 母が引きつった顔で息子の名を呼ぶ。
 すると、息子は「だあっ!」と元気そうな声を上げた。

「う、うん。機嫌は良いのね。あなた。もう一度」

「う、うむ」

 妻に促されて、ライガは再び息子に手を伸ばしたが、

「だ」

 ――ぺち。
 再び手を叩かれた。
 ライガは、再び硬直する。
 妻も固まる中、息子の顔に目をやる。
 息子の目は真剣だった。

 ――おっさんが触れるな。
 生後、半年過ぎほどでありながら、目でそう訴えていた。

「え、えっと、タツマは、人見知りが激しいの」

 妻がそうフォローを入れてくれるが、ライガとしては気が重い。
 そうして、タツマが抱っこをさせてくれるまで、十分もかかってしまった。
 何度も手を払い、嫌がり、泣きじゃくって、ようやく抱っこさせてくれたのだ。
 タツマは、目尻に涙の跡を残した顔でムスッとし、父の腕の中にいた。
 息子の激しい拒絶には、いささか以上にショックではあったが、こうして我が子を腕に抱くと、やはり喜びを実感する。

「フウカ」

 妻の名を呼ぶ。
 ライガの腕の中のタツマの顔を覗いていたフウカが「はい」と顔を上げた。

「感謝する。この子を産んでくれて」

「……いえ」

 フウカは、かぶりを振った。

「私はあなたの妻だから」

 そう告げて、ライガの袖を掴み、トスンと頭を腕に置いた。

「ただ、少し甘えさせて欲しいかな?」

「……分かっている」

 ライガは頷いた。
 妻の心労を考えれば、当然だ。
 まだ年若いフウカに、どれほどの苦労をかけたことか。
 ライガは、タツマを片腕で抱えて、左手でフウカの髪に手をやった。
 フウカは夫の手に、自分の手をそっと置いた。
 とても幸せそうに目を細める。

「感謝する。お前の望むことなら何でも聞こう。そして」

 ライガは、息子に目をやった。

「タツマよ」

 一拍おいて、

「お前は俺以上の戦士になれ。御子さまをお守りする最強の戦士となるのだ」

 万感の想いを乗せて、そう告げる。

 こうして。
 父は家に帰ったのである。
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