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第一部
第7話 風呂場の出来事 2
浴槽から立ち上る白い気体。室内に充満したそれを流動させる、透明の飛沫。足元のタイルに次々とぶつかっては弾ける雫が、軽快な音を立てる。パステルブルーを基調にした浴室の湯煙の中に、二つの影があった。
「恵。濡れねぇように、腕上げとけよ」
「うん」
恵の左手が湯の掛からない所まで移動したのを確認して、丞はシャワーで兄の髪を覆う細かい泡を洗い流す。滑り落ちていく白の下から、綺麗な薄茶が覗き出した。
一般的な家庭のものとしては少し広い、1.5坪の浴室。家族皆でゆっくり入れるようにと、永が生まれた直後に家を改築した時広げたものだ。幼い頃いつも一緒に入っていた四兄弟にとって、ここは恰好の遊び場であった。母の制止も聞かずに走り回り、滑って頭を打つ事もしょっちゅうだったのだ。転んだ回数が一番多かったのは誰なのか、それは敢えて伏せておくが――。
洗い場に置いた腰掛に兄を座らせ髪を洗ってやった丞は、シャワーを止めて壁のフックに掛ける。コンディショナーを使う必要の無いほどしなやかで細いその髪を、タオルで軽く拭いてやった。
恵の背後に膝立ちになる。二人の腰に巻いたタオルが、水気を吸って腿に貼り付いていた。
「体洗うけど、本当に背中だけでいいんだな?」
「うん、自分で出来るところはやるから。――そうだ、右腕もお願い」
「ん、分かった」
黄色いスポンジにボディソープを付ける。数回手で揉むと、ブクブクと泡立ったそれから柑橘系の香りがした。目の前の背にあてがって、ゆっくりと擦る――。
次第に白い泡に包まれていく肌。それは、とても肌理細やかでなめらかだった。そしてその色は、ボディソープの泡に負けぬほど白く。自分も結構色白だと言われるが、この兄と比べるとまだ男性の標準枠内に納まっている方だと、丞はいつも思う。女性のように透き通る、だが決して病的では無いその華奢な身体は、湯に温められてほんのりと上気していた。
肩甲骨の下辺りでスポンジを動かしながら、丞はチラリと前に視線を投げる。正面に嵌め込まれた鏡に映るその顔に、暫し見惚れた。
――背中を流され、気持ち良さそうに緩く閉じられた両の瞼。その縁で長い睫毛が影を作っている。前髪から垂れた水滴が頬を伝い、薄桃色の唇の端を濡らしていた。
――分からないこともない――
覓の気持ちが。
熱し易い覓が、こんなに綺麗な恵に焦がれるのも無理ないことだと思える。だが同時に、極めて短気な筈の彼が、なかなか答えを出さない相手を一年以上も想い続けるという信じ難い事実に、心底驚いているのも確かだった。
それほどまでに三男の心を虜にする長兄。その本心は、一体何処にあるのだろう。
「恵はさ――」
「ん?」
「――覓のこと、どう思ってんの?」
右腕を擦り始めた丞の唐突な問い掛けに、恵は目を見開いて肩越しに振り返る。
「どうして急にそんなこと…」
「いや、ちょっと気になってさ」
言いたくないなら別にいいけどと付け足して、丞は恵の指を洗う。それを見ながら小さく嘆息すると、兄は柔らかく微笑んだ。
「…好きだよ…」
呟かれた声に丞の手が止まる。顔を上げて見詰め返すと、恵の笑顔がふっと翳った。
「…ただ――」
続けて紡がれるであろう言葉を聴き漏らすまいと、丞が恵の口元に耳を寄せたその時。
「俺の恵に何してんだよっ、丞!」
怒声と共にガラリと開く引き戸。その向こうに立っていたのは、身の毛もよだつほどの憤怒の形相をした――何故か全裸の――覓。と、その後ろに――これまた全裸の――永。
前も隠さずズカズカと入ってくる二人に、多少及び腰になりながら丞が立ち上がった。
「な、なんだよっ。俺は、恵が片手使えねぇから、背中流してやってただけだぜ」
「余計なマネすんじゃねぇ! そんなことは俺がやる!!」
鋭く言い放って、覓は丞の手からスポンジをひったくる。恵の横に跪くと、途端に怒りの面相が拗ねた子供のような表情に変わった。
「恵ー、なんで俺に言ってくんなかったんだよ」
「あ…、ごめん。でも、もういいよ。あとは自分で――」
「駄目。俺がちゃんと洗ってやるから」
言うが早いか、恵の両脇に腕を入れ背後から抱き締める。左手を兄の腹に廻し、右手に持ったスポンジで胸の辺りをゴシゴシと擦った。
「ちょ、ちょっと、覓。ホントにもういいってば。お願いだから離して……」
「嫌だ。丞には頼んどいて、俺にはやらせてくんねぇの?」
「だから、それは…」
困っている恵を助けようと覓の肩に手を伸ばし掛けた丞の前に、永が立ちはだかった。
「恵は覓に任せてさ、俺達も流しっこしようぜ? 一緒に入るなんて久し振りだし」
ニヤニヤと笑って近付く永から距離を置こうと、丞は僅かに後退る。
「冗談じゃねぇ。お前に流して貰ったりしたら、何されっか分かんねぇからな」
「ひっでぇなー。ただのスキンシップじゃん♪」
幾ら通常より広いとはいえ、大の男が四人も洗い場にいれば狭苦しいことこの上無い。他に逃げ場も無く、ひたすら後ろへ下がる丞。腰のタオルに伸びてくる手に焦って、己のすぐ背後に迫っていたものの存在を忘れた彼は、哀れだった。
「永! ふざけんのもいい加減に――あぇ?」
グルリと視界が回る。
浴槽の縁に膝裏がぶつかったのだと、気付いた時には遅かった。
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