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第一部
第9話 風呂場の出来事 4
いつもと違うその雰囲気に、丞はパチッと目を開ける。思ってもみないほど近くにあった覓の顔に驚いて、眠気もすっかり飛んでしまった。
「も、覓…?」
兄弟の中でただ一人、幾分父似の面立ち。切れ長の眼瞼に縁取られた瞳が薄く色付いている。頬に手を当てこちらの目を覗き込む眼差しは、どう見てもふざけているようには思えなかった。見入られて、丞は思わず息を呑む。
「今まで意識して見たことなかったから、気付かなかったけどさ……」
「…ちょ、ちょっと待て、覓。何のつもりだよ…っ」
あたふたしながら手を払おうと身じろぐが、打ち身が痛んで思うように動けない。焦る丞を見て、覓は緩く口角を引き上げた。冷水で冷えた指先が、熱を持つ丞の唇をゆっくりとなぞる。
「睫毛だって長いし、唇も小さくて可愛い。それに、何より目が綺麗だ……」
発熱で潤んだ鳶色の瞳。それに見惚れる双眸もまた、しっとりと濡れていた。これでは、まるで――
「冗談は止めろ。病人相手に何考えてんだっ」
異常接近している弟に危険を感じて逸らそうとした顔を、覓の左手が顎を掴んで固定する。少しずつ寄せられる唇に、丞の心臓が跳ね上がった。
(嘘だろ?! なんでこうなるんだよっ。だって覓は恵ひと筋の筈――)
今まで、覓が自分に対してこんな行動を起こしたことは無い。彼の頭の中はいつだって『恵』一色だった。故に、永とは違い覓には無防備で接してきたのだが、それが甘かったのだろうか。現に今、自分は覓に唇を奪われそうになっている。動かないこの身体では、逃げることも防ぐことも出来はしない。――まあ、動けたところで、15センチ以上身長差のある体格のいい三男に、細っこい自分が敵う筈も無いのだが。
熱い吐息が口元に掛かる。もう駄目だと覚悟を決めた丞は、ギュッと固く瞼を閉じた。と、その時――
「…本当に…よく似てる…」
耳に届いた微かな呟きに目を見開く。瞬時に冷静さを取り戻し、今にも己の唇に触れそうになっていたそれの主に冷ややかな声を放った。
「…一時凌ぎってわけか……」
ピタリと覓の動きが止まる。兄のものより少し濃い、雨上がりの土のような褐色の瞳が丞の顔を凝視した。
「俺が少し似てるから、恵の代わりにしようってのか? ふざけんなよ、覓」
なんとか動かした腕で覓の胸を押すと、放心状態の彼はされるがまま体を離した。
――確かに、四兄弟のうち恵と丞はとてもよく似た相貌を持つ。同じ母似であっても、永の顔立ちとはまた異なる印象を受けるのだ。瓜二つとまではいかないが、目元などは初対面の人間なら思わず見比べてしまうほどそっくりだった。
「…何の為に長い間想い続けてきたんだよ。恵の全部が好きだから……恵の心が欲しかったからじゃねぇのか? 少なくとも俺はそう思ってた。短気なお前が諦めもせずこんなに待ち続けるのを見てて、マジで凄いとも思った。内心、応援してたのにさ……」
「丞……」
呆気に取られるくらいに意外な言葉。時に口うるさく注意してきた次兄が、自分のことをそんなふうに思ってくれていたなど、覓は考えてもみなかった。
「――けど、お前は恵の『顔』が好きだったんだな。似てりゃ、誰でも良かったってわけだ。…見損なったぜ。そんないい加減な気持ちで付き纏われる恵も可哀相だよな」
兄の辛辣なセリフに、ぐっと詰まった覓が膝の上の拳を握り締める。浅はかな心を見透かされた恥ずかしさと、自分自身への情けなさで肩が小さく震えていた。
「…いい加減な気持ちなんかじゃ…っ」
ひと言だけでも言い返そうと絞り出された声を、しかし皆まで言わせず兄が遮る。
「もういい…。俺、疲れちまった。少し寝かせろよ」
そう言うと、薄い上掛けを首まで引き上げる。寝返りが打てない為、顔だけを壁の方へ向けて目を閉じた。
――背後で、小さな溜息と共に覓の立ち上がる気配がする。ドアが開く音を聞いて、ボソリと呟くような声を弟の背に投げた。
「…もう二度とこんなことすんなよ。…恵は、お前を――」
「…え…?」
戸口で振り返った彼が訊き返すが、ベッドからはそれ以上何も聞こえてこない。暫く立ち尽くしていた覓は、自嘲気味にもう一度溜息をついて静かに部屋を出て行った。
「……馬鹿野郎が……」
溜息をつきたいのはこっちだと言いたげに、丞は大きく息を吐く。
――昨夜恵に叱られた覓は、恐らくそれまでの我慢が不安に摩り替わったのだろう。碌に有りもしない忍耐力が途切れてしまいそうになるのを、何かで繋ぎ止めたかったのだ。愛しい長兄に似た次兄に手を出そうとしたのはその為だった――。
「俺はあいつのお守り役じゃねぇっつーの。…これじゃどっちが看てるんだか分かんねーじゃねぇか……」
吹き飛んでいた眠気が再び戻ってくる。考えることを放棄してまどろみ掛けた時、ベッドの下でニャーンと可愛い声がした。
「…ん? ミルキー、入ってきたのか…?」
どうやらドアが完全に閉まっていなかったらしい。部屋に入り込んだミルキーは、丞の枕元に飛び乗ってきた。粥の匂いが残っているのか、唇の辺りを頻りにクンクンと嗅いでいる。冷たい鼻がチョンチョン当たってくすぐったかった。
「…ミルキー。頼むから今日は咬むなよ。これでも病人なんだから……」
熱っぽい丞の様子が少しは分かったのだろう。いつもは傍若無人なミルキーが、大人しく丞の肩口に丸くなる。
ふわふわした白い毛を頬に感じながら、丞は漸く眠りに落ちた。
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