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第五章 崩れる偽幸
第14話
しおりを挟む「うん、値も安定してるね。今のところ心配なさそうだ」
――診察室の中。血液検査の結果をディスプレイで確認しながら秀一が言う。心電計のコードを外して服を着た晶が、彼の後ろからその画面を覗き込んだ。
「だから言ってんだろ? そう簡単にくたばりゃしねぇって」
言いながら大きく伸びをする。秀一は机上の冊子に目を落として、困ったような顔をした。
「晶君。血圧、毎日記録するように言ってるのに、ここ一ヶ月忘れてる日が多いね」
「えー? そう?」
「うん。朝は測ってるけど、夜がね。私が測れば確実なんだろうけど、帰りが遅いから無理だし……。でも、今まではちゃんとやってたよね。どうして急に? それに、忘れた翌朝の血圧、結構上がってるんだよ。何か心当たりあるかい?」
秀一が手にした冊子のそのページには、先月から今月にかけてのカレンダーのようなものが印刷されている。その日その日に計測した血圧を日付の横に書き込むようになっているのだ。記入欄は朝・晩二回分。その晩方の欄に空白が目立つ。約一ヶ月の間に七、八回ほどが未記入になっていた。
晶は顔を逸らして頭を掻く。
「そりゃ…まぁ、いろいろと」
「いろいろって……あっ!」
眉間に皺を寄せて怪訝な表情を浮かべていた秀一は、あることに思い当たって思わず大声を出した。
「まさか、また――」
「しーっ! 病院の中で騒ぐなよ、秀兄ぃ。うるせぇって」
口の前に人差し指を立てて制する晶に、秀一は出し掛けた言葉を一旦引っ込める。大きく息を吐いて椅子から浮き上がっていた腰を元に戻し、小さな声で続きを口にした。
「…また誰かとセックスしたの? あれほど控えるように言ったじゃないか。それも、こんなに――。そういえば母さんが『最近また帰りが遅くなった』って溢してたけど、それだったのか……」
呆れ気味の秀一を見て、晶は悪びれた様子も無く答える。
「心配し過ぎだって、秀兄ぃは。俺、何ともねぇじゃん。それに、前みてぇに何人もとヤってるわけじゃねぇし」
「…? 複数じゃないって……相手は一人? …一体、誰…」
そこでピタリと秀一の動きが止まる。
「…ひょっとして……直人君…?」
「ああ。なんか文句でも?」
盛大に溜息をつく秀一。が、その目の色は真剣そのもの。
「いや…。もうとやかく言う気はないけど、あまり無茶すると、君も直人君も後がつらくなるんだよ。分かるだろう…?」
その言葉に、晶は僅かに沈んだ表情を見せる。秀一は、退院以来明るい顔しか見せなかった彼の変化に戸惑った。
「……そうだよ。自分で決めたんだもんな、何にも執着しねぇって。…けどさ、なんて言うんだろ。あいつ見てると、自分のやってることがおかしく見えてくるって言うか、情けなくなるって言うか…。マジに、俺って馬鹿なんじゃねぇかって思ったりして……」
「晶君……」
顔を伏せた晶の口からまるで独り言のように漏れ出す呟きを、秀一は静かに聴いていた。
「あいつさ、俺が好きだって…愛してるって……言ってくれたんだよ。こんな…ふざけた俺なんかをさ…。俺が本気じゃねぇの分かってて、それでもいいって。煩わしくなったら言ってくれなんて言うんだ……」
言葉を切って、晶は秀一に顔を向ける。そこには憂いを含んだ笑みが浮かんでいた。
「……まったく…モテる男はつれぇよな、秀兄ぃ……」
およそ普段の彼からは想像も出来ないような重い表情で憎まれ口をたたく。
じゃぁなと診察室を出て行く背中を見送って、秀一は項垂れた。
「…だから…言ったのに……」
幼い頃から傍で見守ってきた。だからこそ分かる。本当の晶がどれほど情熱的な心の持ち主であるか。一つのことに打ち込んだら周りさえ目に入らなくなるほどの、灼熱色の眼差しに見合う熱き魂。
その熱を強引に冷まさせたのは、他でもないこの自分。医者としてやるべきことをやってやれないその不甲斐なさが、一人の少年の生き方を冷めたものへと変えてしまった。注がれる愛情に「応えてやれ」と背中を押せない自分が、途轍も無く卑怯者に見えてくる。
「…情けないのは…私だ……」
肩を落としてデスク横の書棚を見る。整頓され、綺麗に並んだ分厚い医学書の上に置かれた書類を手に取った。今月の医師会会合で発表する筈の病理報告書。さして際立った進展があるわけでもないのに、ただただ定例事項として要求されるその報告書をグシャグシャに丸めると、壁際のダストシュートへと投げ込んだ。
九月の空は、雲が少しばかり高くなったように感じる。それでも時折吹く風はまだ熱を孕んでいて、晶はこめかみを伝う一筋の汗を手の甲で拭った。
病院から家へと向かう大通りの歩道。散歩がてらにバスなら十五分ほどの距離をゆっくりと歩きながら、診察室で秀一に漏らした言葉を思い返す。堰を切ったように口走ってしまった本音。それまで秀一にすら見せたことの無かった心の弱さ。
「なんで…?」
自分で自分をどうしたらいいのか分からなかった。
――直人とはあれから幾度も身体を重ねた。彼の喘ぎを耳にする度、自身に纏い付き縋り付くような熱を感じる度に、ズキリと走る感覚が痛かった。
胸を衝く痛みは病から来るそれではなく、己の内より発せられる感情の痛み、心の慟哭。無理に奥底へと沈ませた本心が、少しずつ頭をもたげる。
――綻びが出た――と思った。
完璧な筈の鉄の蓋が抉じ開けられようとしている。あと少しの衝撃でも加われば、粉々に砕けてしまいそうに。
自分の生き様が滑稽に見えるほどの、純粋で一途な直人の想い。遠くない未来に必ず失うと分かっているそれを、自分は受け入れてやることが出来るのか。
傷付くことを、そして傷付けることを何よりも恐れるこの臆病な自分に。
「どう…すっかな……」
青く晴れ渡った空を見上げて、晶は深く溜息をついた。
★★★次回予告★★★
第六章は晶の誕生日を三部構成で。
二人だけのパーティー。直人が作ってくれたケーキは…?
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