Heart ~比翼の鳥~

いっぺい

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第十三章 懊悩

第43話 後編

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「…ぐっ、あ…っぅ…!」


 片手で布団を跳ね飛ばす。心臓が握り潰されるような激痛に、ベッドの上でのた打つ身体が痙攣を起こした。左手で胸元を押さえ、伸ばした右手が空を掴む。かすむ視界でなんとか捉えたキャビネットへ、ガクガクと震える手を必死に誘導した。天板の上に置かれた薬入れから小さな舌下錠を取り出す。何度も取り落としそうになりながら外装を破ると、食い縛った歯を僅かに開いて口中へ押し込んだ。


 ――数十分にも感じられた長い数分間を耐え、晶は漸く全身の力を抜く。不規則に肩を上下させながら、朦朧とした意識のまま窓の外へ目を向けた。

 月が替わり、秋の気配が濃くなった高い空が、自分を見下ろしているように思える。強い力で押さえ付けられるような圧迫感を覚え、晶は目を閉じて外の明るさから顔を背けた。
 ナースコールのボタンを押す。頭上のスピーカーから聞こえてきた声に秀一を呼んでくれるよう頼んで、汗塗れの顔を枕に埋めるのだった。





「…また酷いのが来たんだね…。鎮静剤を打っておこうか…?」

 尋ねる秀一。


 ――実質的に、発作を予防する薬は無い。今処方している舌下錠や強心薬で痛みと症状を抑える以外、肉体的苦痛を緩和する方法は無いのだ。あと自分に出来ることと言えば、鎮静剤で精神的苦痛を和らげてやることくらいのものだった――。


 だが、秀一の問いに晶は力無く首を横に振る。

「じゃ、私を呼んだのはどうして?」

「…頼みがあるんだ…」

 弱弱しい呟き。目で「何?」と返すと、とんでもない言葉が戻ってきた。


「…外出させてくんねぇか…?」


「!? 何を言ってるんだ。こんな体で、外へなんて行けるわけないだろうっ」

 無謀としか思えない願い事に、秀一は少しばかり声を荒げた。が、思い直したように首を振って嘆息する。ボンヤリと濁った瞳を向ける晶に顔を近付けると、静かに問い掛けた。

「何故、そんなことを…?」

 途端、脱力状態だった晶の面が歪む。

「…会いてぇんだよ、あいつに…。電話したって繋がんねぇし、知らねぇうちに仕事もやめちまってるし……」


 ピクリと秀一の肩が震える。それに気付かず、晶は続けた。

「仕事してねぇんなら、なんで会いに来てくれない…。なんで嘘なんかつくんだよっ。会って確かめたいことが山ほどあるんだ。……いや、そんなことどうだっていい。とにかく会いてぇんだっ、今すぐ!」

「晶君…!」


 晶の表情が次第に険しく苦しげなものへと変わる。息遣い共々荒くなっていく言葉に、秀一は危ういものを感じた。上体を起こした晶の肩に手を置いて、どうにか宥めようと声を掛ける。

「落ち着いて、晶君。発作の所為で気が立ってるだけだよ、落ち着くんだ。――直人君とは、先月電話で話した。確かに請け負いの仕事はやめたのかも知れないけど、彼は今、本当に大切な仕事に掛かってるんだ。だから分かってあげて欲しい。終わったら、きっと会いに来てくれるから」

 そのセリフを聴いた瞬間、灼熱色の瞳が怪しい光を放った。

「…なんで…、なんで秀兄ぃに電話なんか…? 俺には掛けてこねぇのにっ、なんでなんだよっ!」

 秀一はハッとする。余計なことを言ってしまったと悔やんだが、一度放たれた言葉は元には戻らない。
 とにかく晶の気を静めなければ、最悪の事態に為り兼ねなかった。


「晶君。お願いだから、もう少しだけ我慢して――」

 力を籠めて彼の肩を揺さぶったその手を、晶は思い切り撥ね除けて叫ぶ。

「うるせぇっ!! 邪魔すんな! 俺は直人に会うんだよっ。…声が聞きたい、姿が見たいっ、あいつに触れたい! 近くに感じていたいだけなのにっ! ずっと、ずっと傍にいるって約束したじゃねぇか! ちくしょうっっ!!」

 もはや誰に向けた怒声なのか分からない。裸足で床に降り立とうとする晶に、秀一の焦りが頂点に達した。


(駄目だ、これ以上はいけない!)


 白衣のポケットを探る。用意してきていた鎮静剤のアンプル二本のうち、強力な方を取り出して手早く注射器で吸い上げた。
 今にも暴れ出しそうな晶を抱き竦める。以前なら秀一など軽く跳ね飛ばしていたであろうその身体は、痩せ衰えて力を失っていた。抵抗しようともがく彼をしっかりと抱え、その腕に針を刺し込む。

「離せよ! 秀兄ぃっ、はな…し…っ……」

 僅か数秒で、腕の中の温もりから力が抜ける。ガクリと寄り掛かった身体を支えて、ベッドの上へ横たえた。


 薬の作用で眠る晶の顔を見詰める。すっかり血色が失せ、青白くなった肌。張りのあった頬には影が差し、荒れた唇は乾き切ってカサカサになっていた。
 入院してから手を入れていない為、既にその半分が黒髪に戻ってしまったシェンナーを静かに梳く。面に辛苦の色を滲ませたまま寝息を立てる彼が、不憫で堪らなかった。



 ――追い詰められ、鬱積した思いをぶちまけた晶。掴もうとすればするほど擦り抜けていく支えを求める心は、そのバランスを崩し掛かっていた。

 ――もう、限界なのだろう――

 晶だけでなく、直人も、そして自分も。


 直人が示した期限は明日。それまでに心を決めねばならない。
 あの話を聴いてから十日余り、ずっと悩み続けてきた。取るべき道は一つしか無いと分かっていながら、一方では出来ることなら拒否したいと思っていた自分。だが、もうそんな甘いことは言っていられない。

 ――時間が、ないんです――


 一人で考えるのは苦しかった。誰かの言葉が欲しかった。

(やはり、あいつに話した方が……)

 そう思って電話に手を伸ばしたことも何度かある。
 しかし、その度に激しく首を振って考えを打ち消した。巻き込めない、こんな思いをするのは己一人で充分だと。



 強く閉じた瞼を徐に開く。もう一度晶の寝顔を見て、小さく呟いた。

「もう暫くの辛抱だよ、晶君。…必ず、君達を……」

 迷いを振り切った確固たる定心の言葉を残して、秀一は病室を後にした――。






 ――翌日の夜のことだった。
 静まり返った病室内に電話のベルが鳴り響く。キャビネットの上に移動させていたその受話器を、晶は横になったまま手に取った。
 呟くようにボソリと応答する。掛けてきたのが誰なのか、何となく分かっていた。


「……はい」

『…晶?』


 懐かしいその声。耳にするのは何日振りだろうか。
 だが、応える晶の声音は澱んだまま。

「…直人か…」

『うん…。こんなに長い間連絡もしないで、ごめんね。ずっと電話してくれてたんだろ…? 本当に、ごめん…』

「仕事は…終わったのか…?」


 知った事実は口にせず、敢えて投げ掛けてみた問い。自分が言わずとも、知ってしまったということは既に秀一から伝わったかも知れない。
 だがその問いに、やはり直人は『偽り』しか返してはこなかった。至極、曖昧な言い方で。


『…え? あ…、うん、もう少し……』



 沈黙が流れる。
 何か言葉を掛けようとしては、躊躇って黙り込む気配。先刻から噤んだ口を開こうとしない晶に小さく溜息をついて、つらそうな直人の声が言を紡いだ。

『――晶。凄く不安な時に、俺の都合で寂しい思いさせて……本当に悪かったと思ってる。…まだ行ってあげられないけど、15日には必ず会いに行くから…。それまで…待っててくれる…?』


 ピクリと眉を上げ、晶は電話機の横に置かれた卓上カレンダーに目を遣る。あと二週間足らずで訪れるその日は、自分の誕生日前日だった。


「…本当に…来るんだな?」

『夜には絶対行くよ。約束する』

「そうか…。なら、待ってる……」




 静かに受話器を置く。


 終始重苦しさを纏っていた己の声。それを耳にして、直人はどう思っただろう。恋人が意識の底を暗い流れに浸らせてしまうまで、それを顧みてやれなかった自身に、多少なりとも罪悪感を抱いたりしたのだろうか。

 ――いや、今更そんなことはどうでもよかった。嘘をついていたことも、もはや気に留めてすらいない。自分の望みの大きさに比べれば、そんなものは大した問題では無いのだから。


 左手首を見る。
 肌身離さず、ずっと身に着けてきた愛の証。その銀の光が晶の目を射る。

 ――そうだ、失いたくない。
 ただ傍にいて欲しい。共に在りたい。いつ何時なんどきも、そしていつまでも。
 手を伸ばせば触れられる場所で、常にその温もりを感じられるほど近くに、その身を縛り付けてしまいたい。もう決して、決して離れぬように――



 病に蝕まれる身体。喪失という恐怖に巣食われる心。それらが晶を、冷たい闇界へと引き摺り込む。
 一つの方向へと固まりつつある欲望が、病んだ心身に妙な力を与えていた。ある種の高揚感にも似たものを感じて、微かな興奮を覚える晶の顔が気色ばむ。


「…あと…少しだ……」


 口元に湛えた彼の笑みが、怪しく歪んでいたことを知る者は誰もいない。恐らく、晶本人さえも――。



 ★★★次回予告★★★

約束通り訪れた直人を、晶は貪るように――。
ほぼエロのみです。
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