アガダ 齋藤さんのこと

高橋松園

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「終わりの始まりは始まり。どうなっちゃうの、わたし・・・」

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  二千十九年六月九日、午前九時三十分。
白金総合病院本館の救急処置室隣の部屋で一晩を過ごした彗神子は、今だ目覚めずにいた。
部屋の外には、新潟港警察署の警官が二人待機している。伊藤警部補は、昨夜、新潟港警察署に戻り、署で一夜を過ごしたが、今朝、再び彗神子の様子を見に病院に訪れた。

「何か、変わりはあったか」と伊藤が訊いた。

「いいえ、昨夜から何の変化もなく、目覚めません。」と一人の警官が返事した。

(う~ん。困った。どうにか目覚めて貰わないと・・・。拘留期間は延ばせたから、このまま目覚めないようなら、ヘリで警察病院に搬送した方が、逃げられる心配も無くて良いのかもしれない。ここは人の出入りが多すぎる。これではまた逃げられるぞ。)と伊藤は思った。

救急処置室は便宜上、一階の西棟側にある。そして、病院正面口の脇に救急専用口と通路があり救急処置室に繋がっているが、東棟側に精神科病棟がある関係で、病院の物流品の搬入搬出は全て西棟側の後ろにある関係者専用の出入り口から行われていた。つまり、前後に出入り口かあり安易に逃げ出せるような場所に彗神子は居た。伊藤が、今後、どうするか思いめぐらしていると、右手奥にある、関係者専用のドアが開いた。そして、二人の男たちが銀色に輝くアルミの大きな業務用冷蔵庫を運び込んで来た。関係者専用ドアの前には警備員室もあり受付窓口もあった。普段、病院関係者も出入りしているようだったが、一般の出入りは記録されていた。冷蔵庫を搬入して来た男の内、一人が警備員が差し出したノートに何かを書いている。たぶん、名前を書いているのだろうと伊藤は思った。伊藤は冷蔵庫を運び込んで来た男たちをなんとなく見ていた。二人の男は台車に乗った冷蔵庫を押しながら北棟に抜ける通路に向かって行った。伊藤は二人の姿を見送ると警備員の所に行き、名前と何を運んで来たのかどこに納めるのか念のため確認した。警備員はノートを見せると「北棟にある職員専用食堂の業務用冷蔵庫が夕べ壊れましてね。新しいものと交換するのだそうです。」と言った。と、その時、緊急ライトが点滅し、通路に館内放送が流れた。「救急の患者が一名、搬送。至急受け入れ態勢をお願いします。患者の性別は男性。所持していた免許書に記載の名前は、安倍 昇(アベ ノボル)さん。病院向いのお寺の駐車場で倒れていたそうです。」

あたりには一気に緊張が走った。看護師たちが廊下を急ぎ足で行き来し、救急処置室の受け入れ態勢が整えられた時、救急車が到着した。患者は救急車から降ろされると、そのまま、救急処置室に入れられた。そして、部屋のドアが閉められた。ドア越しに処置室の音が聞こえてくる。中からはせわしなく、看護師や医者の声が聞こえている。心肺停止しているのか、心肺蘇生の胸骨圧迫の心臓マッサージをする掛け声も聞こえる。「みんな、離れて・・・」という掛け声がした。AEDによる電気ショックを与えているようである。繰り返し、心肺蘇生が続けられた。



そのころ、隣の部屋に居た齋藤 彗神子は深い深い夢の中に居た。 
彗神子はホームセンターでバトミントンをしている夢を見ていた。(やぁ~だぁもぉ~。面白すぎ~。ムニャムニャムニャ・・・。)隣には、懐かしい知った顔が居た。アテルイである。それは、彗神子が征夷大将軍、坂上田村麻呂だった時代の愛する人だった。アテルイは陸奥国の蝦夷軍の族長だった。八百一年、桓武天皇の命により蝦夷軍を打つために、当時、坂上田村麻呂だった彗神子は陸奥国に向かった。しかし、坂上田村麻呂であった彗神子はアテルイに恋をしアテルイを打つことができなかった。坂上田村麻呂はアテルイと和解し天皇に陸奥国を責めないことを願いに二人で奈良に行ったが、アテルイは無残にも蝦夷を嫌う大臣たちによって殺されてしまった。これは、彗神子の心に深く残っている負の思い出であった。(今度こそ、私が彼を救ってあげるの、そうよ、今度こそ・・・むにゃむにゃむにゃ。一緒に、ラーメン食べましょう。美味しいのよ~。)彗神子はアテルイと過ごす楽しい夢を見ていた。


「もう、駄目ですね。止めましょう。」と看護師の一人が心肺蘇生措置をしていた先生に声を掛けた。先生は「六月九日十時十七分。心肺停止。死因については改めて検証。ご家族に連絡して引き取りに来てもらって下さい。」と言った。そして、安倍 昇(あべ のぼる)の遺体は一時的に救急処置室の隣の部屋に移された。齋藤 彗神子が眠っている部屋である。

看護師達が引き上げ、部屋には安倍 昇と彗神子の二人だけになった。
その時、彗神子のベッドの傍に近づく人が居た。その者は、素早く彗神子に付けられた点滴管を外した。彗神子の上に他のベッドの布団を積み上げると、彗神子をすっぽりと覆い隠し部屋からベッドごと運び出そうとした。その時、布団の重さと、顔に布団がかぶった息苦しさで彗神子が目を覚ました。

「ぷぅはぁあー。うーいきぐるしかった。」彗神子は上半身を起こし息を吹き返しながら言った。起き上がった瞬間、彗神子が動いた勢いで隣に居る、安倍 昇の顔にかけられていた布が飛んだ。そして、彗神子は隣に居る、安倍 昇の顔を見た。「ア! アテルイ!!」と彗神子が声を発した直後、首に何かが突き刺さる衝撃が走った。何者かが彗神子の首に睡眠導入剤を打ったのである。そして、彗神子は再び気を失った。布団にすっぽりと覆われた彗神子は、その者によって救急処置室から病院の外に運び出された。この処置室は死亡後に遺体が廊下を通らず、直接、病院の外に出られるようになっていた。部屋を出る時、その者は安倍 昇の顔に布を掛け直すと、彗神子を運び出し連れ去った。看護師達が部屋を後にしてから彗神子が連れ去られるまでの間は、ほんの数分のことだった。

救急処置室の外では伊藤警部補が何も気付かず待機していた。出て行った看護師や医者の様子から、先ほど運ばれて来た男の命は助けられなかったということが伝わって来た。伊藤は彗神子を警察病院に移すことに決めた。ヘリで移送を考えたが、軍用のヘリでないと入らない大きさだと思い直し、トラックで運ぶことにした。その手配の為に、伊藤はあちらこちらに電話をした。一通り、電話が終わるった時、伊藤の前に前田が現れた。時計は十時半を過ぎていた。

「どうも。こんにちは。齋藤さんの様子を見に来ました。まだ、中に居るのですか」と前田は伊藤に訊いた。

「はい。でも、すぐに警察病院に移そうと思いまして。この病院にいつまでもお世話になるわけにもいきません。事件のことも解決していないですし逃げられたら困りますからね。」

「そうですか、とりあえず、今の様子を見て見ましょう。」

「そうですね。」と伊藤は答え、二人で救急処置室の隣の部屋に入った。目の前には台車に乗せられ、顔まですっぽりと布をかぶせられた人の姿が見えた。前田は「布をかぶせるのは早いです。齋藤さんの悪戯かな・・・」と言い、その布を取った。

「違いますね。齋藤さんじゃない。」前田が言った。

「部屋はここだけですか。奥に別に部屋があるとか・・・」と状況を飲み込めない伊藤が辺りを見回しながら言った。

「救急搬送された方で処置が終わった人の一時滞在部屋はここだけですよ。居ませんね。齋藤さん・・・」と前田。

伊藤は慌てた。「逃げられた! でも、どうやって・・・」と伊藤は言い、すぐに署に連絡し再度、警官の緊急配備を手配した。前田は今日の救急担当の看護師を呼び出した。看護師はすぐに現れた。

「どうしましたか。」と看護師が訊くと「ここに居たはずの齋藤 彗神子さんという患者さんが居ません。何か知っていることはありますか」と前田。

「本当ですね。まだ、意識は戻っていなかったはずです。この後に、病室に移すか、どうするか警察の方と話し合いをすると山中先生は言っていましたけど、どこかに移すなら話はあるはずです。でも、何も聞いていません。」と看護師は慌てて答えた。病院は再び、大騒ぎになった。


その頃、彗神子は聖篭せいろうにある新潟東港のコンテナに納められた木彫りの仏像の中で深い眠りについていた。東港に来るまで入れられていた大きな業務用冷蔵庫は、言葉の分からない中国人が運転するトラックに乗せられカモフラージュの為に北海道に向け走り続けていた。こうして、彗神子は行くへ不明になり、新潟県警により全国指名手配されることになった。そして、人類が生き残る為のカギを握る齋藤 彗神子は全ての人々から追われる存在になったのである。これが#齋藤 彗神子さいとう えみこの話である。


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