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徒花

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 まず私は狼だ。
 狼と言っても四足の獣ではなく、二つの足で地を踏む獣人だ。
 親や兄弟は居ない。
 兄弟は最初から居らず、両親は私が生まれて間もない頃に病死したのだ。
 幼くしてこの世界を一人で生きていく事となった私の苦労は、ここでは語らない。
 私の生活圏内には同じような獣人は居なかったので、群れを作る事も出来なかった。
 所謂一匹狼だったのだが、幸いにも狩りの才能があったおかげで生きていく事が出来た。
 流星の如く野を駆け、私が目をつけた獲物は皆等しく牙に貫かれた。
 見つけた小動物に一歩一歩近づき、気づかれるか否かのぎりぎりの所まで近づき、一気に飛び出して仕留める。
 そんな狩猟生活は楽しかったし、人間の知能と狼の身体能力を合わせ持つ自分に、誇りを感じていたと言える。
 だが私は、常に何かが足りない感覚がした。
 見事捕らえた鹿の、弾力のある皮膚に牙を突き立てその生温かい肉を味わっても、遥かまで続く高原を夕暮れまで駆け抜け、住んでいる洞穴で昼まで眠っても、その感覚を拭う事は出来なかった。
 それが何なのか、私はつい最近思い知らされる事になった。

 葉の落ちた木々が、天を覆った鉛色の雲を掴み取ろうとしているように、幾本もの枝を伸ばしているのが見えた。
 時折頭上を鳥が飛び去り、その鳴き声が私の寂しさを掻きたてる。
 林は既に闇に埋もれかけ、林立する木が私に影を投げかけた。
 私は再び、手に力を込めた。
 私の左脚にはトラバサミが喰らいつき、肉に食い込み離れようとしない。
 鉄の歯の間からは血が滲み、皮膚を覆う薄茶の毛皮を静かに濡らす。
 悲しい事に、この忌々しい罠を外すような力を、私は持ち合わせていなかった。
 罠を踏みつけたのは、私が不注意だった為だ。
 これを仕掛けたのは人間なのだろう。
 人間は身体能力こそ劣等な生き物だが、時に私のような獣人をも上回る知能を発揮出来ると言う。
 かつて私は、茂みの影から人間を見た事がある。
 体格こそ私に近いが、しっぽが生えていない上に、毛と呼べそうな物が頭部にしか見当たらない。
 その人間はどんな原理なのかは分からないが、炸裂音のする長い筒を使って遠くの狐を仕留めていた。
 今私を呪縛するこの罠の名前がトラバサミと言う事は、人間の会話などで知っていた。
 なる程、これなら素早いうさぎをわざわざ追い掛け回さなくても良いわけだ。
 痛みと惨めさで涙が零れる。
 今まで仕留めたうさぎやねずみも、今の私と同じ気持ちで死んでいったのだろうか。
 一旦力を入れるのを止め、深呼吸してから再び腕に力を込めた。
 一瞬ギギギと耳障りな音を立てて僅かに私の脚を離したが、すぐまた戻りその勢いで更に肉に食い込む。
「ぐあっ……! ぐっ」
 既に息は絶え絶えで、お腹も空いて気を失いそうになる。
 例えもしこの罠を外すことに成功したとして、無事に住処まで帰り着くことが出来るだろうか。
 空を再び見上げると、月を覆い隠す雲が漆黒の闇を演出していた。
「……!」
 突然近くで、木の葉を踏みしめる音がした。
 この夕暮れの林で誰だろう。
 何処かに小動物でも居て、私が息絶えるのを待っているのだろうか。
 脚の苦痛に耐えつつ、耳を澄ませると、がさっと再び音がする。
 うさぎが枯葉を踏みしめる音とは違う。もっと大きかった。体重が重い為にこんな音が立つのだ。
 鹿や熊ではない。だとすればなんだろう。
 正体は風下に居るためか、残念な事に私の鼻には匂わなかった。
 今この状況で襲われれば私は負けるだろう。
 脚を封じられ、衰弱しきった狼を殺すなど容易い事だ。
 野垂れ死ぬのと、得体の知れぬ敵に殺されるのではどちらがマシなのだろうか。
 ふとそんな事を考えたが、余計なことだと頭から振り払う。
 命の危機にある中こんな青臭い事を思うなんて、どうかしている。
 手で長いマズルを必死に押さえ、漏れ出る喘ぎを止めようとする。
 早く何処かへ行ってくれ。
 だが私の願いは届かず、足音は更に近づく。がさり、がさりと少しずつ距離が詰められ、見つかるのはもはや時間の問題だった。
 そして、その正体が藪の中から姿を見せる。
 毛の無い身体。顔の横に付いた耳。
 人間。
 私の前に姿を現したのは、人間の若い男だった。
 右手には明かりを持ち、その光が濡れたように彼の顔を照らしている。
「や……」
 目の前の人間から逃げようとするが、私を捕えるこの罠がそれを許さない。
 尻餅を付いて、この男をかっと見据える。
「こ、来ないで……!」
 僅かに残った力を振り絞って私は叫んだ。
 私はどうなるのだろう。そもそも、今放った獣人の扱う言語をこの人間は理解できたのだろうか。
 いや、理解したとしてどうなると言うのだろう。
 狙いを定めた獲物が命乞いをしたとして、私なら可哀想だからと見逃すだろうか。
 そんな事を考えている間に、落ち葉を踏みしめ人間はゆっくりと私に近づく。
 もう駄目だ。
 人間からすれば害獣である狼を生かしておく理由など無い。それが普通の狼よりも知能の高い獣人なら尚更だ。
 毛皮を剥ぎ取られるのがいい所だろう。どこかで見世物にされた挙句殺されるかも知れない。
 遅かれ早かれ、私は死ぬ。
 もはやこれまでかと覚悟を決め、私は目を硬く瞑った。
「大丈夫だ。酷い事なんてしないよ」
 低い声。続いて脚に何かの感触がする。
 静かに目を開いてみると、私の足元で人間が、私の脚に食いついた罠に両手を掛けて力を込めているのが見えた。
 罠を外すと言う事は、何処かへ連れて行かれるのだなと一瞬考えたが、それにしては直前に発せられた言葉に違和感があった。
 私をどうにかするのなら「暴れるな」「大人しくしろ」などと言うのが普通だろう。
 だがこの青年の調子は何処か穏やかで、私の事を怯えさせないように気を使っているようにも感じられる。
 もちろんそれは油断させる為である可能性も考えられるが、不思議とそのような印象は感じなかった。
「よし、外れた」
 ここで初めて、彼が獣人の言葉を扱っていることに気がつく。
 何故と思う間も無く、私は彼に抱きかかえられた。
 驚き、逃れようと彼の腕の中でもがいたり、肩に噛み付いたりするが、碌に力が入らない。
「ごめん、少しの間我慢して」
 人間は言う。それからしゃがみ、地面に置いてあった照明具を器用に拾うと立ち上がる。
 そして私を抱いたまま何処かへと歩き始めた。
 私はしばらくの間抵抗していたが既に疲弊しきっており、何時しかまどろみに誘われ眠っていた。

 暗闇の底から私の意識は静かに浮かび上がっていった。
 目を開けると、夕闇に包まれた木立の景色は何処かの部屋にすり替わっている。
 私はベッドに寝かされていた。身体を起こそうとすると、脚に激痛が走る。
「起きたかい。動かないで大人しくしていたほうが良い」
 声がする。あの男だ。
 首を動かし声の聞こえた方を向くと、そこには木の椅子に座りこちらを見ているあの人間が居る。
「そうだった、僕の言葉は分かるかい」
 警戒しつつも首を縦に振ると、人間は少し嬉しそうな表情を見せた。
「そうか、良かった。勉強したのも無意味じゃなかったな」
 呟き、ほっとしたように笑った。
 私は聞きたいことが山ほどあったが、今一番知るべき事を問う。
「あなたは誰なの?」
 その質問は既に予想していたようで、彼はすぐに答える。
「僕はロイルと言うんだ。ここは君が死に掛けていた林の近くにある小屋だ」
 彼の名を口の中で転がす。
 不思議と胸が温かくなる様な気がした。
 そういえば、私は名前と言う概念を忘れていた気がする。
 もちろん、木や土、うさぎ、人間、狼と言った基本的な言葉は、在りし頃の両親やその後の生活の中で習得していき、それなりに意識している。
 だが、誰か個人名、第二者の事を考えた事は、あまり無かった。
 そもそも、私は自分自身の名前も知らなかった。自分を意識する時は「私」とか「自分」という一人称しか使わない。
 誰かと私を結ぶ線はどこにも無い。
 人間の世界の言葉を使わせてもらえば、一匹狼である私の中の外交官が働く機会など、どこにも存在しなかった。
「そう。……良い名前ね」
 自分の世界から戻ってきた私は、彼にそう言う。
 ロイルと名乗る若い男は少し微笑むと、ちょっと待っててと言い扉を開けて部屋を出て行った。
 私は改めて自分の身の回りを確認する。
 掛けられている毛布を捲って覗き込むと、出血していた傷に包帯が巻きつけられているのが見えた。
 それ以外には特に何もされていない。
 酷い目に遭わされるのかと思ったが、それは杞憂で済みそうだった。今の所は、だが。
 部屋は木製で、私の寝かされているベッドの他には滑らかな木の机に椅子が置いてある。
 物珍しさを感じていると、足音と共にロイルが戻ってきた。
 彼は手に盆を持っており、その上には白い陶器の器が一つ乗っている。
 絶えず湯気を吐き、なにやら美味しそうな匂いがした。
「お腹が空いただろう。口に合うか分からないけど、これを食べて」
 そう言って、彼はベッドの傍にある机に盆を置き、私の頭のすぐ隣にある椅子に腰掛けた。
「それは何……」
「クリームシチューだ。分かるかい」
 一応は知っていた。時々捨てられた新聞を拾うことが出来、洞穴の中で退屈凌ぎに読み解いていたからだ。
 未知の文字の連なりを私の言葉として出力するのは決して容易ではなかったが、時間が解決してくれた。
 だからある程度なら人間の言葉や文化、その意味を理解出来たが、喋る事は出来なかった。
 このクリームシチューと言う料理もそんな経緯で知ったのだが、実物を見るのは初めてだ。
「ええ、知ってる」
「栄養をつけたほうが良い。口に合うかは自信が無いけど」
 器を使って何かを食べたことが無いのだと告げると、食べさせてあげるよと彼は言った。
 銀のスプーンでシチューを掬い、少し冷ましてから私の口まで持ってくる。
 人間の作った物を信用しても良いのかと一瞬思ったが、私の鼻は目の前の食事に異物が入っていないことを認め、それを食した。
「どう? 美味しいかな」
 自分が作ったものを他人がどう感じるかは、気になるものなのだろうか。
 初めて食べる味だが、口に合わない事は無い。私が空腹である事を差し置いても、十分合格だった。
「美味しいわ。ありがとう」
 咀嚼し、再び口に運ぶ事を繰り返す。
 時間は掛かったが、最後の一口まで食べ終わり私は満足した。
「ごちそうさま。……ありがとう、私の為に……」
 素直に感謝の言葉を伝える。ロイルは「どう致しまして」と私に返した。
「ねえ、どうして私を助けたの。あなたには何の得も無いわよ」
 返り討ちを恐れて私はしなかったが、狼の獣人は人を攫うこともある。
 怪我が治った途端にそれまでの恩など忘れられ、食い殺されるかもしれないのに。
「僕は見返りとか、損得で君を助けたんじゃないよ。単に一人暮らしが寂しかったからさ。それ以外に、理由なんて無い」
「怪我が治ったら貴方を食い殺そうと考えているかもしれないわよ」
「その時はその辺の本でも振り回して抵抗するさ」
 私の少しどぎつい言葉を、彼は軽く流す。
「とにかく、何かあったら遠慮無く言って。この部屋で作業をするから」
 ロイルは椅子から立ち上がり、空っぽの器が載った盆を手に取り部屋の外へと向かう。食器を片付けるのだろう。
 しばらくして戻ってきた彼は、私の顔を見るなり少し笑った。
「何がおかしいの?」
「いや、ごめん。狼がベッドで寝ているなんて、何だか赤ずきんみたいだなって思ったんだ」
 赤ずきんとは何のことか知らなかったが、彼が笑顔を作ると、私の胸が不思議と温かくなる様な気がした。

 次の日、脚の痛みで私は目を覚ました。
 手で片目を擦りつつ、今いる部屋を見渡すと、隅に置かれた机に突っ伏して眠る彼の姿を見つける。
 人間の文化の全てを知っているわけでは無いが、人は一般的にこのベッドという器具に寝るという。
 私がここを占領しているがために、ロイルがふかふかのベッドに横になることが出来なかったとしたら、私が怪我人とはいえ彼に悪いことをしてしまったのだろう。
 ベッドを使うのは、私は初めてだな。
 思えば私が寝床としている洞窟は、地面がごつごつとしていてお世辞にも寝心地がよいとは言えなかった。
 落ち葉や藁を敷くのが関の山で、ある程度は快適さを妥協しなくてはならなかった。
 そういえば、これがロイルのベッドなら、彼は何時もはここで眠っている事になる。
 自分に掛けられている毛布に鼻を当て、彼の残り香がしないかを確かめた。
 はっと気がつく。何をしているのだ私は。
 命の恩人が使っているベッドなど、私には関係の無いことなのに。
 胸の奥に、何か熱した物が詰まっているような感覚がする。
 今誰かが私の顔を覗き込めば、瞳に戸惑いを浮かばせ、頬を紅潮させた狼を見ることが出来るだろう。
 しばらくは、怪我の痛みなど忘れてぼうっとしていた。
「おはよう。よく眠れた?」
 はっとし、声のした方を振り向く。
 見るとそこには彼が居て、先ほどの私のように眠そうに目を擦っている。
「ええ、おはよう。私は眠れたけど、貴方の寝場所を取ってしまったわね。ごめんなさい」
「いや、いいんだよ。疲れてそのまま机で寝てしまうなんて、良くあることだから。怪我が治るまで使って良いさ」
 怪我が治るまで。
 そうだったな。私と彼は本来、何の接点も無かったはずだったのだ。
 怪我をした獣人とその命の恩人というだけ。
 私が完治すればそれで関係が終わる。それ以上、何かが開拓されることは無いはずなのに。
 なのに、何故彼との別れを考えると、心がざわつくのだろう。
「身体は大丈夫かい。かなり痛むなら、遠慮無く言って」
「ううん。痛むことは痛むけど、大丈夫。獣人は人間よりも治癒能力が高いから、安静にしていればすぐに治るはずよ」
「良かった」
「あなたが助けてくれたおかげだわ。ありがとう」
 染み付いた血が乾き始めた包帯を解き、彼が軟膏を塗ってくれる。
 傷口は突然の異物に猛反発したが、私はそれを我慢した。
 塗り終わると、何か食べようかと彼が聞いてきたので、それに頷き朝食をとることにした。
 肉と野菜を挟んだ簡単なサンドイッチを彼が作り、それを頂くことにする。
 出来上がったそれを二人で齧りついていると、食事が終わったら水を汲んでくると彼が言った。
「実は昨日水を汲みに行く途中で、君を見つけたんだ」
 聞けば彼は薬の調合をし、精製したそれを売って生活しているという。
 水桶は私を抱きかかえるのに邪魔だったため、あの場所に置いてきたままと言った。
「あの罠を仕掛けたのは、あなたじゃないでしょうね」
 少し不安になり、私は問う。
 もしかしたら聞かない方が良かったかもしれないなと、言った直後に少し後悔したが「いや、違うよ」と彼は返した。
「あの類の罠は猟師が仕掛けるんだ。君が踏みつけた物は放置されていて、だいぶバネが弱くなっていたみたいだ。骨が折れなかったのはそのおかげかな」
 湧き水は私の居た地点から更に先にあると教えてくれた。
 そこまで長くは掛からないから、安心してよとロイルは言ってくれる。
 そういう訳で、私は負傷の治癒の為に一人留守番をすることとなった。
 いってらっしゃいと彼を見送り、私は起こしていた身体をベッドに横たえる。
 既に眠気は覚め、脚もまだ痛むのですることが無い。
 もう一眠りでもしようかと少し思ったが、もう一度自分と彼の事を考えてみることにした。
 まず、彼の事だ。
 彼は獣人の言葉を話すことが出来る。
 私の読んだ記事が何時の時点なのかはよく分からないが、獣人の言葉を解し、扱うことが出来る人間はそう多くは無いらしい。
 勉強したと言っていたが、それが単に学術的な興味から学んだのか、それとも何か必要だったためか。
 そして、彼は寂しいから私を助けたと言っていた。
 寂しいなら、同じ人間の住んでいる町に居ればいいような気がした。
 もちろん、市街を離れてこのような場所に住んでいるのには、それなりの事情があるのだろう。
 事情ってなんだろうな。
 私ったら、どうしたんだろう。
 ロイルの事ばかり考えて。
 彼がいないこの時間が、酷く乾いて悲しい気持ちに私をさせる。
 岩壁に冷たい水が伝う、灰色の洞穴に一人眠っていた時でも、こんな感情は沸かなかった。
 狼は内に獰猛さを秘めていなければならない。
 少なくとも、そうでなければ自然界で生きていくことなど出来ない。
 だがこの気持ちは、感情は。
 ロイルとの出会いが、私の中から何かを剥奪していた。
 彼と別れたくなかった。
 ここにいれば食料が貰えるとか、洞穴よりも快適だとか、そんな意地汚い理由ではない。
 世界にこんな感情があるなんて、誰も教えてくれなかった。

「ねえ、あなたはどうして獣人の言葉を話せるの」
 水を汲んで帰った彼が今日の昼食を用意した後、私は聞いてみた。
 サラダを持って来たところに唐突に掛けられたその質問に、ロイルは口に軽く手を当てて考える仕草を見せたが、やがて話すことがまとまったようで私の傍の椅子へと腰をおろす。
「勉強したことは、前に言ったよね?」
「うん、けどもっと深い部分が知りたいの。もちろん、無理にとは言わないわ」
 今まで一人で生きてきた私にだって、他人の内面にずけずけと踏み込んではいけないこと位分かる。
 でも、彼の事が知りたかった。
「いや、話すよ。まあ、愚痴みたいなものだから、聞いてもつまらないかもよ」
「ううん。聞くわ」
 分かった。そう言って、彼は語り始める。
「僕は医者を目指していたんだ。医者は知っているかい」
 私は文明から離れて生きていたが、そのような身分があることは知っていた。
「子供の頃から憧れていたんだ。動機は大したこと無い。医師になれば皆が尊敬してくれるという、不純なものさ」
 サラダの入った器の中に、フォークを突っ込み、突き刺さったレタスを彼は口に運ぶ。
「獣人の言葉も、その過程で学んだ。実は近年、人間と獣人の共存化が始まっているんだ」
 知らなかった。
 少なくとも、私の見た新聞記事の範囲ではそのような記述は無く、人間と獣人の間に立つ壁は、もっと高いものだと認識していた。
「四年くらい前からだね。僕は時々買い出しや薬を売りに町に行くけど、今は獣人も普通に歩いているのを見かけるよ」
「そうなんだ。私は取り残されているのかな」
「確かに、文明から離れて狩りをしている獣人は今はあまり居ないかもね。獣人の数ももともと少なかったし、情報の伝達が遅れて知る機会が無かったのかも。でも、今からでも遅くないよ」
「ありがとう。話がずれちゃったわね。続けて」
「ああ。獣人の言葉は、実際は医師になるのに必要ないことだった。でも、分かっていて学んだんだ。人間の環境に獣人が適応するのを待つんじゃなく、僕が先に適応しようとした。
 獣人の中には人間の言葉が話せないひともいる。主に子供とかだね。そういった場合のトラブルを回避出来るようにしたんだ」
 彼の優しさが表れているなと、感じた。
 きっと良い医師になれる。いや、でも。
「でも、あなたは今……」
「そう。駄目だったよ」
 そう言って、彼は手に持つ器の中のレタスやトマトへと、悲しそうな目を向けた。
「人に騙されてね。財産の大半を失った。然るべき機関に頼んだけど、全てを回収するには至らなかったよ。当然通っていた医学校を辞めることになった。今老人の隠居生活みたいなことをしているのは、そのためさ。
 要するに疲れたんだ。情けないな。医師になって、誰かを助けることも出来なかった」
 そう言って、自嘲気味に笑う。乾いた、悲しい笑い声だ。
「でも、あなたは私を助けてくれた」
 俯いた顔を彼は上げ、私を見つめる。少しして、ふっと笑った。
「そうだね。僕は医者じゃないけど、君の命を助けた」
「あまり悪いほうに考えない方が良いわ」
 彼はある面の窓に首を向けた。
 私も同じように窓の外を見る。白みがかった空を、数羽の小鳥が何処かへと飛び去っていくのが見えた。
「人から離れて住んでいるのは、騙されて、人間が嫌になったからかもな。でも、完全に人間との交流を絶たずに町へ行くと言う事は、やっぱり一人では生きていけないとか、寂しさを認めているのかも知れない」
「……」
「変な空気にさせてしまったね。さあ、食べようか」
 一笑して彼は言った。

 獣人の治癒能力は高い。
 同じ骨折でも、完治するまでの期間が人間の半分以下で済むと言えば、その凄さが伝わるだろうか。
 以前私は、見つけた鹿を目掛けて崖の上から飛び掛ったことがある。
 勇敢と言うよりは愚かなことをしたものだと今になっては思うが、とにかく私はあの斑の背中目掛けて飛び込んだ。
 重力という単純な物理法則に身を任せた私は、草を食べていたその雄鹿の背中から少し逸れた地点へと、したたかに身体を打ち付けることとなった。
 受身は取ったつもりだったのだが、高度が高すぎた。
 顎を砕くような怪我をしたのだが、私の身体はそれを三週間程度で治すだけの能力を持っている。
 その為、しばらくは食事に難儀したが、捕り貯めた食料を食べつつ洞窟で大人しく寝ている事で完治した。
 そう言うわけで、彼の適切な処置と私の治癒能力のおかげで、数日後には立って歩ける程度まで回復していた。
 ロイルによると、まだ過度な運動は控えたほうが良いらしい。
 私は何日かぶりに外に出ることにした。
 小屋を出ると、この小屋は小高い丘の上に建っていたことが分かった。
 なだらかな斜面を成し、表面を覆う草花は、皆どこからか吹く風に身を躍らせている。
 遠くには私が死に掛けたあの林が見えた。そこから西に目を向けると、私の暮らしていた洞窟のある山が見えた。
「バケツを逆さにしたようなあの山に、私は住んでいたの」
「どれだい」
「ほら、あそこ」
 私がそれを指差す。そうするとロイルは「なる程あそこか」と言って笑った。
「僕が住んでいた町は北の方角にあるんだ。ここからじゃ、よく見えないけどね」
 私は久々の外気を肺一杯吸い込み、思いっきり背伸びした。
 しばらく動かしていなかった為か、身体の衰えがはっきりと感じられる。
 本能だろうか。この高原を勢い良く駆け回り、鈍った身体に鞭入れたかった。
 だがまだ運動は控えたほうが良いというロイルの言葉を思い出し、踏みとどまる。
 それに、突然走りだして地を転げまわるなんて、彼を前にして子供らしすぎる。
「ねえ。怪我が治ったら、君はどうするんだい」
 遠くの空を往く鳥の鳴き声に耳を傾けていた私に、彼は声を掛ける。
 分からなかった。
 正直な気持ちを言えば、彼と別れたくない。
 何の未練も残さずにさよならと言うには、私はあまりに彼に依存してしまっていた。
 恐らく私は、彼に恋をしているのだろう。
 ロイルも、私の事を好いてくれているのだろうか。
「まあ、焦らなくてもいいよ。ベッドもまだ使ってていい」
 ありがとう。とだけ私は言った。
 
 動けるようにはなっていたので、彼の家事を手伝うことにした。
 何か手伝いたいと提案した時、ロイルは少し遠慮したが、このままじゃ狼が廃ると粘ったところ、分かったと認めてくれたのだ。
 だが、今まで狩りをして来た私がまともに出来ることなど限られており、包丁を使ってタマネギを切るだけの作業に十分も掛かった。
 鍋の様子を見ていた彼が途中でコツを教えてくれなかったら二倍、いや二乗は苦闘していたかもしれない。
 そう言うわけで、タマネギの成分だか自分の不器用さだかに流れた涙をタオルで拭き終わった私は、出来上がったばかりのスープを器に盛るのだった。
「おいしい」
 彼の料理を食べながら、私は素直な感想を言う。
 思えば私はかつて、狩った後の肉を生で食べていた。
 それはそれで私にとっては美味だったのだが、ロイルの元に来てから初めて食べる調理されたものは、身体の芯が温かくなる様な気がするのだ。
「色々試しているからね。昔は森に行って取って来た食べられそうな植物を乾燥させて、スパイスの代わりに入れてみたりしていたんだ。一度毒にあたって死に掛けたことがあるけど」
 おいしいのは何か秘訣があるんでしょと聞くと、こんな答えを返してきた。
 何だか子供みたいだ。だが、それが彼の魅力だと私は感じた。
 食べ終わった後、少し早いが私たちは寝ることにした。
 今日はロイルが薬草や、乾燥させて粉末にする茸を採りに南方の森へと出かけた為、彼は疲れているはずだった。
 そんな彼に、私はもう何回目かになる包帯の取替えをしてもらう。
 ベッドに腰掛けた私の傍にロイルが屈み込み、包帯を解く。
 取り払った後に彼が軟膏を塗ってくれた。この薬も、彼が作ったものだ。
 透明なビンの中に入った、軽い刺激臭がする液体を私の傷口に塗ってくれる。
 傷はもう、ほぼ完全に塞がっていた。
「これで一晩眠れば、明日には治るよ」
 真新しい包帯を巻きつけながら、ロイルは言った。
 その言葉を聞いて、私はぼんやりと考える。
 完治する。それ自体は、喜ばしいことだ。
 野を駆け回り、水を掻き、岩肌を飛び上がる自由を再び得ることが出来た。
 だがしかし、それは私がこの場所に居る理由の消滅も意味していた。
 彼に頼めば、もう少しだけこの場所に居させてもらえるかもしれない。
 でも、怖かった。
 怪我の治癒や衣食住を、何の義理も無い私に対してしてくれた彼に、もっとここに居たいなど図々しすぎるのではと思う。
 別れたくない。もっとあなたと話していたい。
 飛んだお笑い草だ。狼たる者が、人間にその程度の事も言えないなんて。
 そこで初めて、私は自分が泣いていることに気が付く。
「ねえ、ロイル」
 名前を呼ばれた彼が私を仰ぐ。
 突然涙を流し始めた狼に彼は一瞬動揺したが、何も訊かずロイルはただ静かに私を見る。
 狼とは違う、穏やかさを宿した瞳だ。
「私、あなたに会う前は、自分に何か欠けている気が、した。それが何なのか、あなたに、会って、気がついた」
 途切れ途切れに、嗚咽交じりの声を絞り出す。
「私には、『大切な人』が欠けていた。居なくなった時、喪失感を味わうような存在が」
 幼い時に親を亡くし、共に生きていくような同種と出会うことも無かった。
 そんな私が、愛おしいと思える人を見つけられた。
「もっと、あなたと一緒にいたい。別れたくなんて、ない」
 そこまで言うと、もう駄目だった。
 私の中の感情が渦を巻き、今まで理性で抑え付けていたものが崩壊する。
 しゃくりあげる私の肩に、立ち上がった彼が手を添える。
 私はロイルの胸に泣き付いた。
 長いマズルが彼の胸板に軽く潰れるのにも構わず顔を埋めた。
 涙と鼻水で彼の服が汚れるのにも構わず泣いた。
 そんな私の背中を、ロイルは何も言わずに摩ってくれる。
 ごめんなさい。
 ありがとう。
 ころころという虫の音が、人間とは違う形をした私の耳に滑り込んでいった。

 明け方、目が覚めた。
 私は何時ものようにベッドに横になっていて、うずくまる様な姿勢をとっている。
 何時の間に眠っていたのだろう。目を擦ると、昨晩の事が思い出された。
 えらく回りくどい表現だったけど、早い話がロイルに好きだと言ったのだ。
 顔が熱を持つのを感じつつも、ロイルの姿を探す。
 彼は何時ものように、机に突っ伏して静かな寝息を立てていた。
 そういえばと思い、脚に巻きつけられている包帯を取り払ってみる。
 傷は完全に塞がり、突いても痛みは感じない。指が軽く触れたという、ただ当たり前の感触を知る。
 眠っている彼の肩に毛布を掛け、私は外に飛び出した。
 外は冷たい空気で満ち、世界は暁特有の薄明るさを纏っていた。
 小鳥の鳴き声も聞こえない。
 この世界には私しか居ないのだと、そう錯覚しそうだった。
「おはよう。早いね」
 振り返るとそこには彼がいて、朝の高原に一人立つ私を見ている。
「ごめんなさい。起こしてしまったわね」
「いや謝ることないさ。怪我、治ったみたいだね」
「うん。……ありがとう」
 人間である彼は、毛皮に身体を包んだ私に比べてこの朝の冷たさが堪えるようだった。
 吐く息が白くなり、溶けて何処かに消えていく。
「もうすぐ日の出だ」
 ロイルが呟いた。
 やがて東に見える山々の頭の先が赤く染まり、薄闇の空を光が貫く。
 淡い桃色の雲がその空に浮かび、朝の高原に立つ私たちを見下ろしている。
 足元を覆う草花に付いた朝露が、きらきらと輝いていた。
「綺麗……」
 意識していないのに、言葉が零れる。
 私の住む洞窟は朝日から背を背ける位置にあった為、こんな光景は見られなかった。
 傍にいる彼に、私は軽くもたれ掛かる。
 思ったよりも筋肉が付いていて、がっちりとした肉体だった。
 ロイルは私の突然の行動を拒むことなく、肩に手を回してくれる。
 昇る朝日は、優しく私たちを照らしていた。

 居たいなら、まだ居てもいいよ。
 家に入り、冷えた手をストーブで暖めながらロイルは言った。
「元々は僕が勝手に連れてきたんだ。寂しいからってね。だから、例え君がずっとここに居ても、僕は構わないさ」
 何処か照れくささを顔に湛えていた。
 昨晩私が泣きついたから、という訳では無く、彼自身もそうなることを望んでいるかのよう。
「ロイル……」
 彼も、私が彼に対して持っているのと同じものを心付いているのだろうか。
 つまり、それは恋という奴である。
 でも私は狼だ。
 彼によれば獣人と人間の垣根は消えかけているらしいが、食肉目の種族は警戒される傾向にあるらしい。
 実際かつては、私と同じ狼の獣人が人間の子供を攫っていた事があるというのだから、人間が距離を置きたくなる気持ちは理解出来た。
 彼はどうだろう。
 単に話し相手が増えたとしか思っていないのかな。
 幼い恋心を持つ私は、滑稽なのかも。
 でも、まだこの家に居てもよいと言ってくれたのは、素直に嬉しかった。
 それから数日。
 私はロイルに料理を教えてもらったり、雑巾を手に床を磨いていた。
 料理のほうは焦がしてフライパンに貼り付ける事もあったけど、初めの頃に比べれば様になっているよとロイルは褒めてくれた。
「たまねぎを切るのに十分も掛かっていたのが信じられないよ」
「そんな事いちいち言わなくても良いわよ」
 お互いに言い合うが、その口調は冗談めいていて、まるで親しい友人のようだった。
 こんな時間が、無性に楽しかった。
 一人で生きていたら、絶対に知ることの出来なかった感覚だった。
 温かくて、くすぐったい。
 そして出来上がった食事を皿に盛り付け、二人で並んでそれを食べる。
 私は今、間違いなく幸せだった。何時かロイルが食べさせてくれた砂糖菓子のように甘く、心が安らぐ。
 例えもし、彼が私を単なる話相手と思っていても良い。ロイルの傍にいるだけで、私は幸福だった。
 食事が終わり、私たちは食器を片付ける。
 水を使って、共に皿や器に付着した汚れを洗い流し、水滴をよく拭き取ってから元あった戸棚に食器をしまい、外に出て昼寝をする。
 彼は二日に一度、水を汲みに行ったり薬草を摘みに行くので、今日は所謂休日だった。
 私たちが共に生活していく内に、自然と役割が分担されていた。
 ロイルが外へと出かけて行き、私が家で掃除や料理をする。
 料理の腕はまだ、彼には及ばないが。
 明日ロイルが居ない間、私は一人で腹を満たさなくてはいけない。
 おととい留守番をしていた時は、野うさぎを狩って昼ごはんにしていた。
 血の滴る生肉はやはり美味しかったが、ロイルの目の前では絶対に出来ない。
 誰かがあの食事の光景を見れば、その姿は化け物にしか映らないだろう。
 ロイルも肉なんだよなと、ふと思った。
 血が通い、軟骨を持ち、たんぱく質の塊だ。条件だけなら、私が今まで喰らってきた獲物と何ら変わらない。
 だが彼に飛びつき、喉笛と脚の動脈を切り裂き、腹を喰い開けて腸を食することが出来る自信が無かった。
 小動物は殺せても、情を掛けられた人間は殺せないとは何とも都合の良い話だ。
 青臭い事を考えたなと思いながら、私は静かに夢の世界へと落ちて行った。
 
 起きたのは、太陽がかなり西の空に傾いた時だった。
 少し寝すぎたなと思いながら立ち上がり、のそのそと歩き家に入る。
 既に彼は夕飯の支度を終えており、私は申し訳ないことをしたなと反省した。
「気にしないでよ。君は色々手伝ってくれたから疲れていただろう」
 謝る私にロイルはそう労わってくれる。
 食卓に着き、彼の用意したものを食べる。今夜はグラタンだった。
 焼けたチーズと火の通った肉と野菜の代物を口に運ぶ。
 グラタンには肉が多めに入っており、狼である私のためにそうしてくれたのだと理解した。
 私が彼を好きになったのは、そんな優しさの為なのだろう。
 まず彼は、私に馴れ馴れしく触れたりしなかった。
 それは汚らわしいからとか、噛み付かれないようにと言う保身のためではなく、私を怯えさせまいと思ったが為だった。
「……話があるんだ」
 唐突に途中までの会話の流れが断ち切られた。
 彼は私の目をはっきりと見つめる。怪我が完治する前日の、あの晩の穏やかな瞳では無い。
 何かを決意したような、静かな情熱の籠った目をしていた。
 一呼吸程度の間を置いてから、彼が続ける。
「聞いてくれ。……僕は君の事が好きだ」
 どくりと、心臓が一つ鳴った。
 良いの。私なんかで。
 私は狼よ。人間の女の子じゃ、駄目なの。
 あなたに迷惑を掛けているし、あなたを満足させられる様な事なんて、出来る自信が無い。
「君を手放したくない。種族なんて、僕には関係ない。君さえ良ければ、だけど」
 彼の言葉の一つ一つが、私の心を貫いた。
 頭の中が熱した様になり、胸がじりじりと焼き付く。
 本当に、その言葉を信じて良いの。
「……私も、ロイルとずっと一緒に居たい」
 私が自分の想いを告げると、彼は真面目そうな顔をふっと崩して、ただ一言「ありがとう」と答えた。
「さあ、食べようか。突然すまなかったね」
 それから食事が終わり、歯を磨く。ロイルは以前町で買った本を読んでいた。
 開けてある窓からは夜の風が入り込み、墨を溶かしたような宵の空には、月が寂々と浮かんでいる。
 虫の声一つしない、深閑とした夜だった。
 そんな静けさとは裏腹に、私の心は高揚を感じている。
 日暮れまで高原を駆けても、鹿の肉に牙を突きたてても満たされなかった感覚。
 私はそれを手に入れた。
 窓辺から外へ身を乗り出し、夜を肺一杯吸い込む。
 冷やされた空気を取り込んでも、私の身体は熱を出していた。
 振り返り、読書に励んでいる彼の背を見る。
 後ろから抱きしめたい衝動に駆られたが、邪魔してはいけないなとそれをぐっと堪えた。
 でも、後でちょっと甘えたい。
 これ以上何か考えても、仕方が無い気がした。
 ロイルに告白された私は、気持ちの整理が必要なのだろう。
 今日はこの辺にして、毛布に包まって寝てしまう事にした。
 窓を閉め、すぐ傍にあるベッドへと横になる。
 私がもう寝ることに気がついた彼は本を読むのを中断し、私のほうを向く。
「お休み」
「うん。お休みなさい」
 夜の挨拶を交わした後、私は目を閉じる。
 耳を澄ますと、ぱらり、ぱらりとページを捲る音が、闇を突き抜けて私の元へと届いた。
 息遣いが、身体を軽く動かしたときの服が擦れ合う音が、彼の匂いが。
 ロイルの存在が、すぐ傍に感じられる。
 と、私の頭にある考えが浮かぶ。それは些かわがままじみていたが、思い切って彼に声を掛けた。
「ねえ、ロイル」
 瞼を持ち上げると、私の顔を見つめる彼の姿があった。
「私と一緒に寝て欲しい。私が占領しているせいで、あなたは何時も机に寝ているから。一緒にベッドを使いましょ……」
 もう怪我が治ったのだから、私は床に寝るわ。
 そう言ってロイルにベッドで眠ることを勧めていたが、彼は必ず机に突っ伏した。
 習慣なんだ。と、ロイルは話していたが、恐らく私を気遣ってしているのだろう。
「お願い」
 嫌われるかもしれない。突然読書の邪魔をされて、子供でも無いのに添い寝をして欲しいと言われたら。
 やや間を置いて、彼の口が開かれる。
「君さえ良ければ」
 ロイルは読みかけの本をぱたりと閉じて、机の隅に置く。電灯からぶら下がっている紐を引くと、パチンと軽い音がして電気が消えた。
 遠慮がちに毛布へと入ってきた彼の腕にしがみ付く。
 彼の温もりを感じた。

 翌朝、私たちは目を覚まし、ベッドを共用していた事にお互い軽く笑った。
 そして朝食を摂り、彼は町へ森へと赴いていく。
 夕方頃、彼は日用品と食料を買って、私の所へ帰り着く。
 帰ってきた彼に、私はまた少し上達した料理を振る舞い、食後にカードで遊び、そして眠る。
 劇的な変化は無いが、楽しい生活だった。
 私たちの間には明確な信頼関係があった。
 ある日私は、彼の為に手料理を作り、家で待つ自分の姿を「まるで妻みたい」と思った。
 あながち間違っていないかもしれない。
 愛する人の為の帰りを待ち、愛し合っている私たちは、人間の一般的な夫婦像とそう変わらないだろう。
 お互い相手に遠慮しあっていたが、日に日に身体を触れ合う機会が増えていった。
 帰宅したロイルと抱きしめ合ったり、彼が私のしっぽを握ったりする程度の事だ。
 そんな単純だけど、幸福な日々を送って久しい、ある日の事だった。
 今日も私は、彼の為に料理を用意し、迎える準備をしていた。
 既に夕方で、太陽がほのかに世界を赤く染めている。
 白身魚の蒸し料理を乗せた皿をテーブルの上に置いていると、ドアを叩く音がした。
 駆け寄って鍵を開けると、ロイルだった。
「お帰りなさい」
「ただいま」
 ロイルが帰った時には欠かさず行っている挨拶を交わす。少し恥ずかしかったが、口付けも交わした。
 買ってきてくれた日用品の入った紙袋を受け取り、ベッドの傍にある机へとそれを置く。
 夕飯がもう出来ている事を彼に告げ、食事がある、隣の部屋へと移動した。
 ロイルは着ていた黒いコートを脱ぎ、夕飯が並ぶテーブルの傍の、椅子の背にそれを掛けた。
「いただきます」
 食卓に着いた私たちは、そんな文句を唱えて魚を食べ始める。
「おいしいよ」
 フォークを使って身を崩していると、ロイルが言う。
「この味付けがいいね」
 ロイルは優しげに微笑み、私を褒めた。
 何だかくすぐったい気持ちになり、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じる。
 彼の顔を急に直視できなくなり、食べかけの魚料理に視線を落とす。
「ありがとう。嬉しいわ」
 俯いたまま、ロイルへの感謝の言葉を口にした。
「君が居てくれて、良かったよ。何時もありがとう」
 ロイルに必要とされているという事実が、私の中の何かを疼かせた。
 耳の先が炭のように熱くなり、彼の事を愛しているのだと、改めて感じる。
 尾を振り、高ぶる喜びを全力で表現したかったが、見苦しいぞと自制心が呟いた。
 食事が終わり、皿についた汚れを水で流し、乾いたタオルでよく拭き取る。調理器具も、水に浸して汚れを浮かせた。
 作業が終わった後、私はベッドに座りぼんやりしていた。
 こうして惚けているのは、私が彼の事を好いているからに他ならない。
 人間と狼。その間にも愛は芽生えるのだ。
 姿は内面を規範しない。獰猛で、冷酷な印象がある狼を器とする私は、その実とても臆病だ。
 陳腐な言い方をすれば「人は見た目によらない」と言う所だろう。
 私は彼に、何を求めているのかな。
 私たちは事実上の夫婦だった。私とロイルは、愛の告白をしたあの晩以降、身体を触れ合う事が多くなった。
 今まで抑制していた物を捨て去り、私たちは互いを求めあった。
 だが「男女の営み」は一度もしていない。それは所謂交尾の事だ。
 私個人の意見を言えば、ロイルと繋がりたかった。
 ロイルはどうなんだろう。私を見て、その気になるのだろうか。
 当の本人は、薬の調合をするために作業机に向かっている。
 何時も十時には切り上げて、朝まで私と眠る。壁に掛かっている時計を見ると、九時五十分だった。もうすぐだろう。
 ベッドに腰掛け、脚をぶらぶらさせて待っていると、作業が終わったのか彼が椅子から立ち上がり、私の傍までやってくる。
 どうしよう。勇気を出して、彼に求めてみようか。
「ねえ、ちょっと隣に座って欲しいの……」
 緊張の為か、声が少し震える。ロイルはしばらくきょとんとしていたが、何となく意味を汲み取ったらしく、私の言う通りにしてくれた。
 すぐ傍にいる彼の手を握る。男性特有の、無骨な感触が私の手の平に伝わった。
 やがて口付けを交わす。今まで行っていたような軽いキスではなく、舌を絡ませる濃厚なものだ。
 お互いの唾液を混じりあわせ、私たちは身体を密着させる。私の舌が彼の歯にぶつかると、やっぱり鋭くないんだなと感じた。
 口付けを解くと、私はベッドへ横になる。本能の為か、自然と服従の体勢を取っていた。
 全てを流れに任せ、完全に無防備となった私にロイルは覆いかぶさる。
 私は彼の胴に腕を回し、彼は私の頬を静かに撫でる。彼の掌は毛並みに沿って触れられ、それが少しくすぐったい。
 はあはあとか細い息が私の口から漏れ、心臓が早鐘を打つ。それはロイルも同じで、心なしか額から汗が滲んでいるようにも見えた。
「服を脱がせて……」
 蕩けた表情になりつつ、ロイルに求める。頼まれたロイルは少し身体を起こしてから、私が身に纏う薄着のボタンを、一つづつ丁寧に外していく。
 途中で指が私の胸に触れて、彼の頬が更に色付く。
「恥ずかしがらないで……」
 もっと触れて欲しかった。私の中の何もかもをめちゃくちゃにして、ロイルの物にして欲しかった。
 そしてズボンも、下着も脱がされ、私は一糸纏わぬ姿で彼の目に晒される。
 生まれたままの姿をした私に、ロイルが触れてきた。彼の細い指が、私の毛を掻き分けて潜り込む。
 部屋には、私たちの荒い息遣いだけが聞こえた。
 ロイルの手を引き、自分の秘所へと誘導する。湿ったその部位に彼が触れると、快楽が一瞬駆け抜けて、私の肩がびくっと震えた。
 彼の指は私の中に入り込む。柔らかい肉を、ロイルの爪が僅かに引っかき、その度に私は嬌声をあげる。
 この指が、彼の性器だったら。そう考えると、腹の奥が急に締め付けられるように痛くなった。
 頭の奥底が熱し、霞みが掛かったようになる。今この状況が夢なのか現実なのか、上手く識別できない。
「挿れて……!」
 もう我慢できなかった。
 私が懇願すると、ロイルはジッパーを下ろし、硬くなった自分の物を私に宛がい、ゆっくりと優しく私の中に沈めていく。
「や、ああ……っ!」
 ロイルと繋がれた。一つになれた。
 やがて根元まで入ってくると、私は再び彼の胴に手を回す。しっかりと強く抱きしめ、無言で愛を伝える。
「動くよ……」
 ロイルが私の中で動き出す。熱を持ったものが内を刺激し、私の膣は彼の性器をきゅうきゅうと締め付ける。
 匂いを染みつけて欲しい。マーキングをするように、あなたの事を私の中に刻み付けて欲しい。
 互いに息は荒くなり、身体が汗ばむ。
「ああっ! んあ、やぁ!」
 彼が最奥を突く度に私は喘ぎ、もっと強く動いてと願う。
 性欲と言う原始的な感情に身を明け渡し、自分を乱す。
 だらしなく口を開き、その端からは涎が糸を引いて流れた。
「出すよ……」
 ロイルが言った。彼の精液。赤ちゃんの素。
「出して……! お願い……!」
 そう望んだ途端、私の最奥に灼熱が叩きつけられる。言葉では表せないような快楽と幸福。
 彼の子種が私の中に流れ、それは膣壁に刷り込まれるように思えた。
 より深くへと、彼と性器を繋ぎ合わせる。
 もう絶対に離さないと言うかのように、息苦しさを感じるほどに私たちは密着する。
 子種は尚も注ぎ込まれ、私の意識は暗転した。

 目を覚ますと、私は抱き合ったままだった。
 繋がりながら横になり、すぐ目の前にロイルの顔がある。
 互いに呼吸は乱れており、吐く息が顔にぶつかった。
 私たちは、ゆっくりと身体を離し、結合を解いた。
 引き抜くと、私の秘所から白い子種がこぷりと溢れる。
 ロイルはティッシュを箱から取り、液で塗れた自分の性器と、受け止めた私のものを拭いた。
 深呼吸をして、自分の座っている辺りを見ると、私たちが絡み合った為か、しわが付いている。
 彼もそれに気がついたのか、ふっと息を吐いて言った。
「明日、洗濯しないとね」
「私も手伝うわ」
「そうか、ありがとう」
「私、今度町に行ってみたい」
 断られるかなと思いつつ言ってみたが、何時か行こうと、承諾してくれた。
「もう寝なくちゃね」
 性行為をしたため、私たちは疲れていた。風邪を引かないように、脱いでいた服を着る。
 彼が電気を消し、部屋は闇に包まれた。
 毛布を掛け、寄り添い横になる。触れ合っている彼の熱を感じた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
 夜の挨拶を交わし、目を閉じる。
 やがて彼の、静かな寝息が聞こえてきた。
 彼の寝顔を、瞼の裏に浮かべる。
 私は彼に「好き」と呟き、そして夢の世界へと沈んでいった。
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