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ロジーナの苦しみと新しい道

王太子は再度跪く

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 無意識なままロジーナの両腕はシャファルアリーンベルドを抱き締め返す。そしてシャファルアリーンベルドは腕を緩めロジーナの頬を両手で包み込むとそっとロジーナの唇を塞いだ。聞こえているのは湖面を渡る微風がざわざわと木々を揺らす音と小鳥達の囀ずりだけ。

 ーーこのまま時が止まってしまえば良い

 そう思うほどにロジーナは幸せで、そしてその幸せを手放さなければならないことが切なかった。

 ハラハラと涙を流すロジーナを再び抱き締めて、シャファルアリーンベルドは縋るように声を絞り出した。

 「すぐさまローズを追いたい気持ちを抑え君が言い残した通りわたしはどうすべきなのかと考えた。でもどれだけ考えても気持ちが変わる事など無かった。愛している、わたしはローズの全てを愛している。だからもう過去に苦しむローズの背中を見送るのではなく共に受け止めさせて欲しい。新たな苦難が襲いかかって来たならばわたしが必ずローズを守りぬく。そしてローズが隣にいてくれたらわたしはどんな困難にも立ち向かえる。ローズはわたしに力を与え、わたしを癒やしてくれる唯一無二の人だ」
 
 シャファルアリーンベルドはロジーナの額に唇を寄せ腕を解いてロジーナの前に跪き、そして胸元から再びあの小さな箱を取り出した。

 「ローズ、君を愛している。わたしの妻になって欲しい」

 真っ直ぐに見つめているシャファルアリーンベルドにロジーナは黙ったままただ静かにふるりと首を振った。

 「何故?わたしが王太子だからか?」

 ロジーナはもう一度首を振った。

 「……シャーリー様が私を望んで下さるのなら、私の手を取り導いて下さるのなら、そして私を愛して下さるのなら、私はシャーリー様を信じて共に歩いて行きたい……。でも、私は……母を死に追いやった娘なのです。そんな私が、私だけが幸せになるなんて……」

 背中を向けて震わせたロジーナの肩をシャファルアリーンベルドは優しく抱いた。

 「君は母君が産後鬱を患った、そう考えたんだね。そして自分を産んだ事がその原因になってしまったと心を痛め責任を感じている……」

 ロジーナはしゃくり上げながらこくんと頷いた。

 「母が赦してくれたとしても私だけが幸せにはなれないのです。母は私を憎んではいなかった。けれども母を壊し死なせてしまったのは私です。恐らく母は正常な判断ができなかったのでしょう。冷静に考えることができたなら、あんな最後を迎えたりはしなかった。母はかなり錯乱していて……」

 シャファルアリーンベルドはロジーナの肩を抱く腕に力を込め銀色の髪に頬を押し当てながら静かに話しだした。

 「母上はローズをサティフォール伯爵夫人に託す為に全ての事情をしたためた手紙を送ったそうだ。それを読んだ夫人がわたしに手紙を寄越してくれた。君の母君の出産に関わった医師や助産師がシルセウスに縁のある者ではないか調べて欲しいと」
 「え?」

 ロジーナは無表情なまま目を見開いて光の揺れる水面を見つめた。

 「ニアトに立ち寄り調べてみると、助産師の母親がシルセウスの出身だと言うことが判った。辛い日々を過ごしていた母君は元々不眠に悩まされていたらしい。助産師は産後の肥立ちが悪かった母君を先ずはぐっすり眠らせなければと考え、安眠の効果があると母親に聞いたハーブティをシルセウスから取り寄せて飲ませていた。ハーブならば産後の身体にも優しいだろうと……クリム茶と言うそうだ」

 それはシルセウスでは誰もが口にしていた寝付きの良くなるハーブティだった。だがクリムは本来毒性の強い植物で、地下茎に蓄えた澱粉は強い中毒症状を起こす依存性の高い恐ろしい薬物の原料となり今では栽培は原則禁止とされている。その乾燥させた花弁を煎じたクリム茶も代々飲み慣れたシルセウスの人々には耐性があり体質にもあっていた為に単なる安眠促進の効果でしかなかったが、場合によっては強い副作用を引き起こす事が判った。

 「言われてみれば母君の訴えた異常はクリムの中毒症状と一致していた。長く勤める屋敷の使用人に聞いたところ、母君はクリム茶がないと落ち着きを無くし眠れないと訴えるようになり、クリム茶が手離せなくなっていたそうだ。ローズ、君の母君は産後鬱ではない。知らずに飲んでいたクリムによる薬物中毒だったんだ。残念ながらクリムの毒性が公になったのは母君が亡くなった直ぐ後だった」
 「それでは……」
 「あぁ、母君が壊れてしまったのはローズのせいじゃない。命懸けで君を守ろうとした母君が君の幸せを願わない筈はないだろう?母君の為にもローズは幸せにならなくてはならないし、わたしはローズと幸せになりたいと考えている。だからわたしに任せては貰えないだろうか?」

 ロジーナはシャファルアリーンベルドの腕を振り解いて振り向いた。透き通るような碧紫色の美しい瞳には泣きじゃくるロジーナが映っている。泣くことだけしか赦されず何千何万と涙を流してきたロジーナが、初めて流す幸せの涙に頬を濡らしながら。

 シャファルアリーンベルドはロジーナに微笑みかけると濡れた両頬に口付をした。そして大切な宝物のようにしっかりと両腕で包み込みロジーナはその胸に頬を寄せて涙を流し続けていた

 のだが……。
 
 ーー………………どうしてかしら?……大事なナニかを忘れている気がするんだけれど?

 ふとそんな事がロジーナの頭を過ぎった丁度その時、『パキン』という微かな音と『ヒュッ!』と息を呑む小さな声がした。

 「サティフォール伯爵夫人!」

 シャファルアリーンベルドが声を掛けると立ち上がったピピルが手摺の向こう側にひょっこりと顔だけを出し、ほんの一瞬気まずそうな顔をしたものの見事な淑女の微笑みを浮かべた。

 「シャファルアリーンベルド殿下、お久しぶりでございます。我がシルセウスにようこそお越し下さいました。心より歓迎いたしますわ」
 「感謝します…………それで?」
 「湖しか見ておりませんのよ。耳だってしっかり塞いでおりましたの。それはもう一生懸命ジーっと水鳥を観察していたんですけれど、でもちょっと退屈になってしまったのでお先に失礼しようかと思いましたらうっかり小枝を踏んでしまいました。お邪魔をして申し訳ございません」
 
 『そうじゃない!』と叫んだシャファルアリーンベルドをロジーナは訝しげに見上げた。何をそんなに苛立っているのかと。

 「気を利かせて姿を消したのは理解しています。貴女の事だ、覗き見などするはずが無いのもわかっています。ですが何も手摺を飛び越えなくても良いでしょう!こっちは大事な大一番なんだ!ここで貴女が転んで怪我でもしたら我々はそれどころではなくなるではありませんか!」
 「まさか同席する訳には参りませんし殿下ったら凄い勢いで突進していらしたんです、でしたら他にどんな方法がありまして?」
 「……まぁ、そうですが……でもそういう突拍子もない行動はいい加減慎まれたらいかがです」
 「えぇ、ご忠告に従います。あの11歳の可愛らしい坊やがこんなに麗しい立派な青年になられたんですものね。わたくしも年相応の振る舞いを心掛けますわ。ではわたくしはこれで」
 
 『サティフォール伯爵夫人!』とシャファルアリーンベルドは再び叫び立ち去ろうと歩き出したピピルを呼び止めた。

 「まぁ……貴女のお心遣いには感謝しますが」

 ピピルは結局バツが悪そうになったシャファルアリーンベルドに、それ見たことかと言わんばかりの堂々たる美しいカーテシーで応えにこやに笑い掛けた。

 「ここはね、夫との思い出の場所なんです。わたくし達ここで結婚式を挙げましたのよ。ですからね……」

 そこまで言うとピピルは踵を返して背中を向け

 「若いお二人も、良い思い出を残して下さいませ」

 と言ってうふんと笑い、ぴゅんと逃げるように森の中に消えて行った。



  「お知り合い、でしたの?」

 ポカンとしたままロジーナが聞くとシャファルアリーンベルドは苦々しい顔をした。

 「八年前にセティルストリアの王弟殿下の婚礼に参列したわたしは初めて見たウェディングベールの美しさに目を奪われて、どんな人が作り出したのかと気になった。わたしが11歳の時だ」
 「ピピル先生の作品だったのですね」

 『あぁ……まぁな』と頷きながらシャファルアリーンベルドは眉尻をへにゃりと下げたまま口ごもっていたが、何かを思い出したのか急に顔をしかめてロジーナを見下ろした。

 「彼らは結婚して十年になるそうだが伯爵の溺愛の噂が未だにサルーシュまで届くくらいだ。目の当たりにしたローズは居心地が悪かっただろう?」
 「ええと、まぁ、色々戸惑いはしました……だって私、仲睦まじい夫婦なんて本当は実在しないんじゃないかとすら思っていたんですもの」
 「それでいきなりあれでは……辛かっただろうな?」
 「それはもう……でもね、私、あのご夫妻に自分の気持ちを信じて良いと教えられた気がします」

 まっ直ぐに向けられたロジーナの瞳は光を捉え碧い輝きを湛えていた。

 「愛される事を知らずに育っだ私でも、シャーリー様を誰よりも愛する自信が持てたんです。私はエルクラストで愛されるとはどんな事かを知り強くなれました。そしてこれからはシャーリー様の為にもっと強くなれるんです。だって私は……」

 ロジーナは恥ずかしそうにすっと視線を反らし頬を赤らめながら聞こえるか聞こえないかというくらいの小さな声で呟いた。

 「シャーリー様が大好きなんですもの……」

 聞こえないか聞こえないかという小声だったにも関わらずシャファルアリーンベルドの耳はそれを完璧に捉えており、言い終わらぬうちにロジーナはシャファルアリーンベルドの腕に包まれていた。だがふと何かを思い出しはっと息を呑んだシャファルアリーンベルドは慌ててロジーナの前に跪き、間髪入れずに転がるような早口で言った。『わたしの妻になって欲しい』と。

 ロジーナは手を差し出さなかった。だってロジーナが差し出す間もなくシャファルアリーンベルドにその手を掴まれ引き寄せられ、さっさと指輪を押し込まれてしまったのだから。

 指輪は相変わらず少し大きくていとも容易くロジーナの白い指に収まり、反論などさせるものかとばかりにシャファルアリーンベルドはその指に口付けをした。

 「今ここに誓おう。わたしは絶対にサティフォール伯爵以上の愛妻家となってローズを溺愛し続ける!」
 「それだけはご遠慮申し上げます!!」

 ロジーナは即答した。

 それでもシャファルアリーンベルドは諦められないらしく不満そうな顔をしている。

 「しかしわたしはローズの母君の為にもローズを幸せにしなければならないではないか!だからこそやはり伯爵を呆れさせるほどの愛妻家となって伯を凌ぐ溺愛で」「それだけはお断りします!!」

 シャファルアリーンベルドの誓いは悲鳴のようなロジーナの声にかき消された。結局シャファルアリーンベルドの二度目プロポーズはやっぱりちょっと残念なものであり、対するロジーナは相変わらず風変わりで独特でいかにもロジーナらしい反応をしたのであった。



 助産師についての調べを終えたシャファルアリーンベルドは、ニアトを発つ前に王宮に向かい伯父である国王に会い自分の気持ちと決意を伝えた。それを聞いた国王はあっさりニアトキュラシアンブルーを諦めてくれた。彼も深く悔いていたのだ。そしてもうシャルロットのような犠牲者を生まぬためにも息子達の代からはニアトキュラシアンブルーに拘るのは止めにすると約束してくれた。

 「母はこの湖のように碧い美しく輝く瞳をしておりましたわ」
 「伯父上もそう言っていた。本当に欲しかったのはニアトキュラシアンブルーではない、あの澄んだ碧い瞳だったのだとね。でもニアトキュラシアンブルーがどんなものなのか、是非見てみたいそうだ」

 そして最愛の人の娘であるロジーナに一目会う事を希望するニアト国王の為に、もう一度ニアトに立ち寄ってからサルーシュに戻りたいと言うシャファルアリーンベルドに、ロジーナは微笑んで頷いた。ロジーナを思うあまり態度には出せずとも大切に思ってくれていた伯爵家の使用人達もロジーナに会いたがっているという。尚ロジーナの出生届けは後見人になったガルバ公爵によって届け出られ、助産師の証言も得られたので正式に受理された。母の墓のあるレーベンドルフ領を買い取ったのもガルバ公爵で、アオマルヤネの花々はそのままに、墓石を立派なものに造り変えてくれたそうだ。

 もう誰も草むらで墓を探すことのないように。

 
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