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第14話 小さな礼拝堂の赤字帳簿と、ミラの決意
しおりを挟むろうそくの火に照らされた帳簿は、穴だらけの祈りの記録だった。
その隣に並べられた私の書類が、“穴を埋める道具”になれるかどうか——それが、今日の話し合いのすべてだった。
◇◇◇
「……なるほど。
“怪我をする前に少しずつ払っておき、いざというときに治療と薬代をまとめて引き受ける”わけですか」
エドワルドが、ゆっくりと言葉をなぞる。
テーブルの上には、私が作った簡易版の契約書と、ユリウスが用意した試算表が広げられていた。
「はい。
“祈れば救われる”と言いながら、お金がない人を切り捨てる世界が嫌で……。
だから、祈る人たちが、少しでも“お金の不安”から解放されるようにしたかったんです」
自分で言いながら、胸の奥がきゅっと痛む。
「もちろん、万能じゃありません。
大きな戦争が起きて、契約者全員が一度に重傷を負ったら、この仕組みは破綻します」
「素直だな」
ユリウスが小さく咳払いをした。
「ただ、“全部を救えないから何もしない”というのも、私は違うと思っていて。
せめて、“治療費のせいで祈りを諦める人”を減らしたいんです」
ミラが、ぎゅっと膝の上で手を握った。
「……うちの礼拝堂にも、います。
足を引きずりながら来て、“せめて祈りだけでも”って言う人が。
祈りを捧げて、帰って、そのあとどうなったか——怖くて考えないようにしていました」
その声は震えていたが、目はまっすぐだった。
「“お金がないから”って理由で、救えない人がいるたびに。
“神様は本当に、こんな計算を望んでるのかな”って」
エドワルドが、静かに頷く。
「我々も、ずっと同じ問いに悩まされてきました。
大神殿のように、潤沢な寄進があるわけではない。
それでも、“祈りの場であり続けろ”と言われる」
彼は、ユリウスの試算表をじっと見つめる。
「この“平準化制度”とやらを導入したら、たとえば、うちの礼拝堂ではどうなるのでしょう?」
「ごく簡単に言えば——」
ユリウスが、静かに口を開いた。
「礼拝堂の信徒のうち、希望者から毎月少額の掛け金を預かる。
その代わり、“重い怪我や病気になったときに、一定額まで治療費を免除する”ことを約束する。
掛け金の一部はリゼルのような“保険聖職者”が請け負う治療費に回し、残りを緊急用の積立金とする」
「つまり、“その場その場で寄進を募る”のではなく、“普段から少しずつ積み立てておく”と」
「そうです。
もちろん、“普段から寄進なんてとても無理だ”という人は出てくるでしょう。
ですが、“払える人が少しずつ支え合う”ことで、結果として“払えない人”も守れるように設計することは可能です」
ミラが、食い入るように表を見つめた。
「……これ、本当に成り立つんですか?」
「簡単にはいきません」
ユリウスは、きっぱりと言う。
「契約者の数、怪我や病の頻度、治療の単価……。
すべてを慎重に見積もり、少しずつ調整しながら走る必要がある。
ただ、王都の兵士と冒険者三十人に試験導入した結果、“まったく希望がないわけではない”ことはわかってきました」
エドワルドの目が細められる。
「“希望がないわけではない”」
「ええ。
楽観的すぎる数字は出したくないので、その程度の言い方にとどめておきます」
その慎重さが、かえって現実味を帯びて聞こえた。
◇◇◇
「問題は——」
エドワルドが、両手を組み直す。
「大神殿の目がある、という点ですね」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ重くなった。
「我々祈祷師ギルドは、大神殿の“下部組織”ではありませんが、“勝手なことをするな”と睨まれれば、存続に関わる」
「はい……」
私も、それは痛いほどわかる。
「しかし」
エドワルドは、一度目を閉じてから続けた。
「“現場の信徒たちを守るために、なにもしないでいる”こともまた、違うと感じているのです」
その横顔には、長年積み重なった迷いと疲れと、それでも消えなかった意地のようなものが宿っていた。
「そこで、ひとつ提案があります」
「提案?」
ユリウスが、わずかに身を乗り出す。
「王都の中心部ではなく——街外れの、うちのような“半ば見落とされている礼拝堂”で、試験的に導入してみるのはどうでしょう」
思わず息を呑んだ。
「もちろん、表向きには“保険”などとは呼びません。
“治療費の積立制度”とでもしておきましょう。
契約書も、“信徒間の互助契約”という形を取る」
「……それなら、大神殿の通達とは、ぎりぎりで引っかからないかもしれません」
ユリウスが、書類を指先でとん、と叩いた。
「“癒やしを保険として売買するな”とは書かれていますが、“互助のための積立”までは否定していない」
そこに、ほんの僅かな抜け道が見えた気がした。
「ただし」
エドワルドの声が、少しだけ強くなる。
「この道は、私ではなく——若い者に任せたいのです」
そう言って、彼は自分の隣に座るミラを見た。
「ミラ」
「……はい」
呼ばれた彼女は、ビクリと肩を震わせた。
「君は、ここ数年、ずっと迷っていたね。
“祈りだけでいいのか”“お金の話から目を逸らしていていいのか”と」
ミラの手が、膝の上でぎゅっと握られる。
「君のような人間こそ、“保険聖職者”に向いているのではないかと、私は思う」
突然向けられた言葉に、ミラは目を見開いた。
「わ、私が……?」
「もちろん、すぐに礼拝堂を離れろと言うつもりはない。
ただ、“外にもう一つの役目があるかもしれない”と知っておいてほしい。
——その役目を、“神を裏切ること”だと思ってほしくないのです」
エドワルドの目が、私に向けられる。
「アルマリア嬢。
君は、自分の仕事を“冒涜”だと思ったことはありますか」
静かな問いだった。
だけど、その重さは、大神殿の広間で浴びせられた非難の言葉よりも、ずっと鋭かった。
「……あります」
私は、逃げずに答えた。
「神殿を追放された日、“祈りを金に変えようとした”って言われました。
エレナにも、“そんなことをして大丈夫なの”って心配されました」
ミラが、少しだけ息を呑む。
「でも、外で人たちと向き合っているうちに、少しずつ考えが変わってきました。
“祈りを金に変えている”んじゃなくて、“金のせいで祈りを諦める人を減らしたい”んだって」
胸の中の光の束が、じん、と震える。
「だから、いまはもう、自分の仕事を“冒涜”だと思ってはいません。
むしろ——神様が本当にいるなら、“もっと早くやれ”って怒られるんじゃないかってくらいです」
思わず出た言葉に、エドワルドが目を丸くし、それからふっと笑った。
「……なるほど。
“信仰心が足りない”と言われた聖女のほうが、ずいぶん真っ直ぐな言葉を言う」
「す、すみません」
「謝らなくていい」
エドワルドは、穏やかな目でミラを見た。
「どうだね、ミラ。
“神様が本当にいるなら、もっと早くやれと言うかもしれない”——君は、この言葉をどう感じる?」
ミラは、しばらく沈黙した。
膝の上で握った手が、かすかに震えている。
「……羨ましいです」
絞り出すような声だった。
「私には、そんなふうに考える勇気がなくて。
ずっと、“神様が怒るかもしれない”って怖がってました。
でも、“もっと早くやれって言われるかもしれない”って——」
そこで言葉が途切れ、彼女は目元を指先で押さえた。
「それ、すごく……救われます」
その一言に、私のほうこそ救われる。
「ミラ」
エドワルドが、そっと彼女の肩に手を置いた。
「君がここに縛られているのは、信仰ではなく“恐怖”だと、私は前から感じていた。
恐怖から離れるのは、けして神を裏切ることではないと、私は思う」
ミラは、ゆっくりと顔を上げた。
「……もし、私が“保険聖職者”になったら」
震えながらも、しっかりとした声。
「それでも、私は、祈っていていいんでしょうか」
胸を突かれるような問いだった。
私は、一度息を整え、言葉を選んだ。
「もちろんです」
迷いなく答える。
「保険の契約書を書いていても、数字とにらめっこしていても、
“この人が無事に帰ってこられますように”って祈ることは、きっと誰にも止められません」
ミラの瞳に、涙が浮かぶ。
「私は神殿を追い出されて、“祈り方”がわからなくなった時期もありました。
でも今は、“誰かの生活を守りたい”って願うことそのものが、私にとっての祈りになっています」
エドワルドが、そっと目を閉じた。
「……そうか。
“祈りの形”を、もう一つ増やせるかもしれないわけだ」
静かな独り言。
「ミラ」
「はい」
「今すぐ答えを出さなくていい。
だが、“保険聖職者見習いとして、リゼル嬢のもとで学ぶ”という選択肢を、自分の中に置いてみなさい」
ミラは、しばらく考え込んだ末、小さく頷いた。
「……考えさせてください。
でも、たぶん——」
そこで一度言葉を切り、彼女は私をまっすぐ見た。
「このまま何もしないでいるほうが、きっと怖いです」
その言葉は、まるで鏡のように、かつての自分の心に重なった。
「……はい。
私も、そう思います」
私の声も、かすかに震えていた。
◇◇◇
祈祷師ギルドの二人を見送って、応接室に静けさが戻る。
扉が閉まったあと、私は椅子に背中を預けて、大きく息を吐いた。
「……疲れました」
「よく喋ったからな」
ユリウスが、珍しくねぎらうような口調で言った。
「でも、いい顔をしていた」
「え?」
「“自分の仕事が冒涜かもしれない”と迷っていた頃の顔とは、だいぶ違う」
からかうようでもあり、どこか誇らしげでもある言い方だった。
「ミラと話している君を見て、確信した」
ユリウスは、机の上の契約書をぱらぱらとめくる。
「“保険聖職者”という肩書きは、やはり間違っていない」
「……まだ、(仮)ですけどね」
「そうだな。
正式に名乗れるようになるには、大神殿との会合を乗り越えないといけない」
現実に引き戻されて、胃のあたりがきゅっと縮む。
「怖いか」
「さっきからそればっかりですね」
「大事な指標だからな」
ユリウスは、淡々とした口調で続ける。
「怖さが消えたら、それは“数字で人を見なくなった”ときだ。
そうなったら、君も私も、この仕事から降りるべきだろう」
「……まだ、降りたくありません」
「なら、怖いままでいい」
短い言葉が、妙に心強く響いた。
◇◇◇
その夜。
ギルドの片隅に置かれた黒板の前で、私はチョークを握り直した。
大きく書かれた『保険聖職者(仮)見習い 説明会』の文字。
その下に、そっと一行を書き足す。
『——祈りをあきらめたくない人へ』
書き終えた瞬間、胸の奥で何かが静かに定位置にはまる感覚がした。
「“信仰心が足りない聖女”がそんなこと書いて大丈夫?」
背後からマリナの茶化す声が飛んでくる。
「大丈夫です。
信仰心が足りない分、しつこさで補いますから」
「しつこさで祈る新種の聖職者ね」
マリナが笑う。
黒板に残ったチョークの粉を指先で払いつつ、私は小さく息を吐いた。
——神殿の広間ではなく、
ギルドの黒板から始まった“保険聖職者”の肩書き。
いつか本当に、この言葉から(仮)が取れる日が来るのかどうかは、まだわからない。
それでも、今の私にははっきりと言える。
「祈りの形はひとつじゃない。
逃げ出した先でだって、人を想う気持ちは、ちゃんと祈りになる」
その確信だけは、もう誰にも奪われない——そう思えた夜だった。
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