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第8章
辺境の冬は、人の心まで試してくる。
窓の外が真っ白にかき消されていくその日、わたしは初めて「ここを守りたい」とはっきり思った。
◇ ◇ ◇
朝から雪は降っていたけれど、昼前にはそれが「降る」というより「叩きつける」に近い勢いに変わった。
窓硝子を揺らす風の音に、館じゅうがわずかに軋む。
「……ひどい吹雪ですね」
廊下の窓から外を見下ろしながらつぶやくと、隣に立っていたハンナさんが、眉を寄せた。
「ええ。ここ数年でも、なかなか見ないほどです。
こうなる前に、兵士たちが家々の見回りに出てくれたのですが……」
「辺境伯様も?」
問いかけると、ハンナさんは小さく頷いた。
「はい。午前中に、村はずれの老夫婦の様子を見に行かれました。
雪に閉じ込められると困る、と」
胸の奥がざわつく。
この吹雪の中を、外に。
「……王都なら、“そんな危険なことは部下に任せればいい”と諫められるところでしょうね」
思わずそう漏らすと、ハンナさんは苦笑した。
「こちらでは、“領主が行くからこそ周りも動く”のだそうですよ。
若い頃から、ずっとそうしてこられました」
分かっている。
分かっているけれど――心配なものは心配だ。
「戻ってこられる頃には、もう少し収まっているといいのですが」
「そうですね。……わたしたちも、館の中でできることをしておきましょう」
そう言いながらも、わたしの視線は何度も窓の外へ向かってしまう。
白い世界は、全てをのみ込んでしまいそうなくらい深くて、遠い。
◇ ◇ ◇
午後は、暖炉のある小広間に使用人たちを集めて、毛布や予備の衣類の点検をした。
外で作業をする兵士たちのために、乾いたものをいつでも出せるようにしておく必要がある。
「子どもたちの部屋の暖房は、最後まで落とさないようにして。
他の客間の火は、必要な分だけにしましょう」
「はい、リディア様」
いつのまにか、わたしの指示に皆が頷いてくれるようになっていた。
王都でなら、口を出す前に「お父様の許しは?」と聞かれていたはずなのに。
「厨房の火は絶やせませんが、スープを多めに作っておきます。
温かいものがあれば、戻ってきた方々の体をすぐに温められますから」
料理長の言葉に、わたしは頷く。
「お願いします。塩分もちゃんと入れてくださいね。
冷えた体には、大事ですから」
こうして誰かのために動いていると、不安が少しだけ薄らぐ。
それでも、胸の奥のざわめきは消えない。
夕方になっても、エドガー様は戻らなかった。
外の白さは増すばかりで、風の音も強くなる。
「……お父さま、遅い」
暖炉の前で膝を抱えながら、エリス様がぽつりと呟く。
その声には、聞き覚えのある震えが混じっていた。
「いつもなら、この時間までには戻ってくるのに」
「今日は、吹雪だからね」
わたしも暖炉の前に腰を下ろし、彼女の隣に座る。
クッションをひとつ押し出すと、エリス様はぴたりと張り付くように寄りかかってきた。
「……お母さまのときも、こんな日だったの」
小さな声に、心臓がひゅっと縮む。
「雪がひどくて、馬車がひっくり返って、
それで、もう帰ってこなかったの」
あの優しい歌声の人を思い出しているのだろう。
エリス様は、暖炉の火をじっと見つめていた。
「だから、雪の日はきらい。
お父さまも、雪の日は、きらい」
わたしは、そっと彼女の手を握った。
冷たくはないけれど、不安で少しだけ汗ばんでいる。
「怖いのね」
「……うん」
「わたしも、怖いわ」
正直に言うと、エリス様が驚いたように顔を上げた。
「クッキーのお姉さんも?」
「ええ。
だって、大事な人が吹雪の中にいるんですもの。
心配しない方が、きっとおかしいわ」
そう言って微笑むと、彼女は少しだけ力を抜いた。
「じゃあ、こわい気持ちを半分こしようか」
「半分こ?」
「うん。
エリス様が“お父さまが帰ってこなかったらどうしよう”って思うたびに、わたしが“でも帰ってくるかもしれない”って思う。
わたしが“もし何かあったらどうしよう”って思うたびに、エリス様が“でも『必ず帰るって約束できない』って言う人だから、逆に帰ってくるかも”って思うの」
「……むずかしい」
言いながら、小さく笑ってくれる。
「でも、ひとりで怖がるよりは、二人で怖がった方が、少しだけ楽でしょう?」
「……うん」
そのとき、廊下の方から風とは違う音が聞こえた。
ぎぃ、と重い扉が開く音。
続いて、ざくざくと雪を踏む足音。
「お父さまだ!」
エリス様が跳ねるように立ち上がり、サロンを飛び出していく。
わたしも慌てて続いた。
玄関ホールに出ると、ちょうど大扉が閉じられるところだった。
雪と風を一緒に連れてきたような冷たい気配が、一瞬だけ館に流れ込む。
「お父さま!」
「エリス」
エドガー様は、厚手の外套を脱ぎながら、娘の方へ顔を向けた。
髪も肩も雪で白く染まっている。
そして――袖口から、赤いものがにじんでいた。
「――!」
息が止まる。
エリス様も、それに気づいたのか、顔色を変えた。
「お父さま、血!」
「大したことはない。枝に引っかけただけだ」
そう言う声は落ち着いていたが、その下にわずかな痛みが混じっている。
わたしは反射的に一歩前へ出た。
「ハンナさん、温かい水と清潔な布、それから薬箱を用意してください!
厨房には、すぐに熱いスープとパンを。
外にいた兵士の方々にも行き渡るよう、多めに用意を」
自分でも驚くほど、言葉ははっきりしていた。
ハンナさんたちは「はい!」と短く返事をし、慌ただしく動き始める。
「エリス様」
しゃがみ込んで目線を合わせる。
「お父さまは、ちゃんと帰ってきました。
あとは怪我の手当てをするだけ。……手伝ってくれる?」
「て、てつだう?」
「ええ。
お父さまが痛くないように、そばで手を握っていてあげてほしいの」
エリス様は、ごくりと唾を飲み込み、それから力強く頷いた。
「うん。やる!」
エドガー様は、そんな二人のやり取りを黙って見ていた。
やがて、少しだけ頬を緩める。
「……頼もしいな」
◇ ◇ ◇
応接室のソファにエドガー様を座らせ、上着を脱いでもらう。
左の前腕に、裂けたような傷が走っていた。
雪でだいぶ流されたのか、血は思ったほどではないが、それでも見るからに痛そうだ。
「森の枝に引っかけたのですか?」
「いや、倒木だ。
老夫婦を避難させた帰り道で、積もった雪の重みに耐えきれなくなった木が崩れた」
「……よく、その程度で済みましたね」
思わず本音が出る。
下手をすれば、骨折や、もっと大きな怪我になっていたかもしれない。
「運がよかったということだろう」
そう言いながらも、表情は少しだけきつくなる。
わたしは深呼吸をして、心を落ち着けた。
「傷を見てもよろしいですか?
少し痛みますが、我慢してくださいね」
「任せよう」
袖を少しまくると、裂け目から冷たい血と雪解け水が混ざったものが滲んでくる。
ハンナさんが持ってきてくれた温かい水で、そっと周囲を洗い流した。
「エリス」
エドガー様が呼びかけると、彼女はぎゅっと父の右手を握りしめた。
「痛い?」
「少しだけだ。……お前のおかげで、我慢できそうだ」
そのやり取りに、わたしの手元の緊張が少しだけ解ける。
傷口を確認し、薬草を練り込んだ軟膏を薄く塗ってから、清潔な布でしっかりと巻いた。
「……縫わずに済んでよかったです」
「上手いものだな」
感心したように言われて、思わず肩をすくめる。
「王都の若いご令嬢が、あまりやらないことばかり得意でして。
侍女さんが針で指を刺したときや、弟が木から落ちたときに、何度か手当てをしていたので」
「それは、ここでは十分すぎるほどの才覚だ」
冗談のように言うのに、目は本当にそう思っているように見えた。
エリス様も、じっと包帯を見つめている。
「ねえ、お父さま」
「なんだ」
「クッキーのお姉さんがいなかったら、きっともっと痛かったよね」
「……そうだな」
短い沈黙のあと、エドガー様は静かに頷いた。
「ここにいてくれて、助かった」
その一言が、喉の奥を熱くする。
「役に立てた」とか、「必要とされた」とか、そういう言葉よりもずっと、真っ直ぐに響く。
「わたしこそ、戻ってきてくださってよかったです」
そう返すと、エドガー様がわずかに目を見開いた。
「……戻ってこないと思ったか?」
「怖かったです。
でも、エリス様と一緒に、“怖い気持ちを半分こ”していましたから」
エリス様が「うんうん」と力いっぱい頷く。
「わたし、ちゃんと待ってたよ。
クッキーのお姉さんといっしょに」
「そうか」
エドガー様は、娘の頭を大きな手で撫でた。
その仕草は、とても優しかった。
「待っていてくれる場所があるというのは、悪くないものだな」
その言葉に、わたしの胸がまたじんと熱くなる。
この人は、どれだけの冬を、どれだけの戦場を、「待つ人のいない場所」で越えてきたのだろう。
ここは、その長い時間の「終わり」になれるのだろうか。
「……わたしも、ここで“待つ人”になれるでしょうか」
気づけば、そんなことを口にしていた。
エドガー様は、一瞬だけ驚いたような顔をして、それから真剣な目を向けてくる。
「もう、なっていると思うが」
「え?」
「エリスにとっても、私にとっても」
さらりと言われたその言葉に、呼吸が止まりかけた。
頬が熱くなる。
視界の端で、エリス様が「そうだよ」と当たり前のように頷いている。
「だって、クッキーのお姉さんがいなかったら、
お父さまが怪我して帰ってきたとき、誰がちゃんと包帯してくれるの?」
「兵士や治療係もいるだろう」
エドガー様が苦笑混じりに返すと、エリス様はぷくっと頬を膨らませた。
「でも、わたしが“こわい気持ち半分こ”してもらうのは、クッキーのお姉さんじゃなきゃいや」
「……それは、光栄ですね」
笑いながらも、目の奥が熱い。
この二人のそばにいたい、と心から思ってしまっている自分に気づく。
――一年だけ、なんて。
そんな言葉が、雪解け水のように胸の中で揺らいだ。
まだ口には出せないけれど、わたしはもう、「ここを他人事の家」とは思えなくなっていた。
この館が冷たい石の砦ではなく、「戻ってくる場所」であってほしい。
そのために、自分にできることは何でもしたい。
包帯を巻き終えたエドガー様の腕に、そっと手を触れる。
「明日は、外へ出るのは控えてくださいね」
「領主に安静を命じる者が、ここにいるとはな」
「はい。ここには“待つ人”が二人もいますから」
その言葉に、エドガー様はふっと笑った。
吹雪の夜の中で、その笑みだけが確かな灯りのように見えた。
窓の外では、まだ風が唸っている。
けれど、館の中には暖炉の火と、人の声と、「帰ってきた人」を迎える温度がある。
――もうこの家を、「ただの契約で訪れた場所」だとは思えない。
そう静かに悟ったとき、わたしは初めて心からこう願ってしまった。
どうかこの一年が、「終わり」ではなく「始まり」になりますように──と。
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