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第9章
「奥様」と呼ばれたとき、胸の奥が少しだけざわめいた。
“仮の妻”なのに──そう思った自分に、一拍遅れて気づいて、私は黙ってしまった。
◇ ◇ ◇
吹雪の翌日、空は嘘のように晴れ渡った。
深く積もった雪が、朝日にきらきらと光っている。
昨日の恐ろしさを知っているからこそ、その静けさがかえって不安を和らげてくれた。
「お前が行きたいと言うなら、同行を許そう」
朝食の席で、エドガー様がそう言った。
視線は窓の外の雪に向けたまま、穏やかな口調だった。
「昨日避難させた老夫婦の様子を、もう一度見に行く。
吹雪のあとで体を冷やしていないか、確認した方がいい」
「もちろん、行かせてください。
……ただ、その腕で馬を?」
包帯を巻いた左腕にちらりと目をやると、彼は肩をすくめた。
「片腕でも手綱は握れる。兵も共に行く。
それに、領民にとっては“辺境伯の妻”がどういう人間か、知る良い機会でもある」
「……“妻”は、まだ少しむずがゆいですわ」
思わず本音が漏れると、彼はわずかに笑った。
「契約であれ、書面にはそう記されている。
どう呼ぶかは、お前が決めればいい」
どう呼ぶか。
どう呼ばれたいのか。
その問いが、胸のどこかに小さな波紋を広げる。
「……では、まずは“ここで暮らすひとりの大人”として、行ってまいります」
そう答えると、エリス様が椅子の上でぴょこんと跳ねた。
「わたしも行く!」
「だめだ」
エドガー様の返事は、少しも迷いがなかった。
エリス様のほっぺたが、ぷくっと膨らむ。
「どうして!」
「雪は深いし、道はまだ危ない。
それに、老人たちの家は狭い。大勢で押しかけるのは負担になる」
「……やだ」
エリス様はうつむいて、テーブルの端をいじり始めた。
その指先が、かすかに震えている。
――怖かったのは、昨夜だけじゃない。
吹雪の中で“待っていた”時間も、きっと彼女の中でまだ続いている。
「エリス様」
私は、そっと声をかけた。
「今日は、お留守番をお願いできますか」
「やだ。
クッキーのお姉さんもお父さまも、いっしょにいなくなっちゃう」
その言葉に、胸がきゅっと締めつけられた。
「誰かを見送る」と「誰かを失う」が、きっとまだ彼女の中では同じ意味なのだ。
「……じゃあ、こうしましょう」
私は少し考えてから、提案した。
「エリス様には、お留守番の“隊長さん”になってもらいたいのです」
「たいちょうさん?」
「ええ。
ハンナさんや使用人のみなさんが、兵士たちに温かい飲み物を出したり、帰って来た人たちのために館を整えたりするとき──
その真ん中に立って、『ちゃんとできているか』を見る隊長さんです」
「見てるだけ?」
「“見るだけ”って、とても難しいことなんですよ。
誰かが困っていないか、寒そうじゃないか、元気がなさそうじゃないか。
そういうのを見つけるのは、隊長さんだけの仕事ですから」
エリス様は、少しだけ口を尖らせ、それからじっと私の顔を見た。
「……わたしに、できる?」
```
「エリス様なら、きっとできます。
```
だって、昨日だってちゃんと“怖い気持ち半分こ”する係をしてくれたでしょう?」
そう言うと、彼女の目がほんの少しだけ丸くなった。
やがて、小さく頷く。
「じゃあ、お留守番の隊長さんする。
でも、ちゃんと戻ってこなかったら、怒るから」
「ええ。怒られないように、急いで戻ってきます」
私がそう言うと、エドガー様も小さく頷いた。
「頼んだぞ、隊長殿」
ぎこちない冗談だったが、エリス様の唇の端がかすかに上がる。
――ああ、このひとは、本当に不器用なのだ。
そう思うと、不思議と安心できた。
◇ ◇ ◇
老夫婦の家は、村はずれの小高い場所にあった。
昨日の吹雪で埋もれかけた道には、兵士たちが踏み固めた足跡が残っている。
「足元に気をつけろ」
馬上からの声に、「はい」と返事をしながら、私は裾を片手で持ち上げた。
館からここまでは馬で来て、最後の少しだけは徒歩だ。
小さな木の家は、雪の帽子をかぶったみたいに屋根まで真っ白だったが、煙突からはちゃんと煙が出ている。
その光景に、胸の奥がふっと軽くなった。
「辺境伯様!」
扉を開けたのは、皺だらけの顔に優しい瞳をしたおばあさんだった。
その後ろから、おじいさんが杖をついて顔を出す。
「昨日は本当に……本当にありがとうございました。
あのままだったら、わしら、どうなっていたか」
「礼ならもう聞いた」
エドガー様は、いつもの落ち着いた調子で答えた。
「その後、体調を崩していないか確かめに来ただけだ」
「おかげさまで、この通り、元気でございますよ」
そう言いながら、おばあさんの視線が私に移る。
身体をこわばらせそうになるのを、なんとか堪えた。
「こちらは?」
「――ラドクリフ辺境伯の、契……」
言いかけたとき、エドガー様がちらりと私を見た。
ほんの一瞬だけ、問いかけるような視線。
わたしは、息を吸い込んだ。
「……妻のリディアと申します」
“契約”という言葉を飲み込んで、そう名乗る。
老夫婦の前で、わざわざ“仮”であることを強調する必要はない。
おばあさんの顔に、ぱっと明るい笑みが広がった。
「まあ、まあ! 奥様でございましたか。
こんな場所まで、お足を運んでくださるなんて」
奥様。
その響きに、胸の奥がちくりと痛む。
でも、不思議と、完全な拒否感ではなかった。
「昨日、辺境伯様が“奥方が来られた”と聞いてから、ずっと気になっておりましてね。
こんな厳しい土地に、どんな方が来てくださったのかと」
「……厳しい土地ではありますが、とても温かい場所だと感じています」
言葉に偽りはなかった。
雪は冷たくても、人の手の温度は確かだ。
「奥様は、王都から?」
「はい。
まだ分からないことばかりですけれど、少しずつ覚えていけたらと思っています」
おばあさんは、じっと私の顔を見つめ、それからふっと目を細めた。
「よかった」
「え?」
「辺境伯様が、やっと“帰りたくなる家”を持てるのじゃないかと思って」
その言葉に、隣でエドガー様がわずかに咳払いをした。
「余計な期待をさせるな。契約は一年だ」
そう言いながらも、彼の声はどこか照れくさそうだ。
おじいさんがおもしろそうに笑った。
「一年あれば、雪は溶けて、また積もりますよ。
人の気持ちが変わるには、十分な時間です」
おばあさんの家の中は、狭いが暖かかった。
壁には乾燥させたハーブの束が吊るされ、テーブルの上には古いマグカップが二つ並んでいる。
「薬草のお茶です。雪の日には、これが一番でして」
出されたカップを両手で包むと、指先からじんわりと温もりが伝わってきた。
少し苦みのある香りが鼻をくすぐる。
「奥様のお陰で、わしらはこの冬を越せます。
辺境伯様を支えてくださる人ができたというだけで、どれほど安心したことか」
「……わたしは、まだ何もできていません」
思わず否定しかけると、おばあさんはかぶりを振った。
「昨日、吹雪の中で、辺境伯様の傷を手当てなさったのでしょう?」
「え?」
驚いてエドガー様を見ると、彼はわずかに視線を外した。
「噂はすぐに広がりますよ。
“新しい奥様は、手を汚すことを怖がらない方だ”ってね」
おばあさんの言葉に、頬が熱くなる。
そんなつもりはなかった。ただ、目の前で傷ついた人を放っておけなかっただけだ。
「……そんなふうに噂されるのは、少し、こそばゆいですね」
「いい噂ですよ」
おじいさんが、ゆっくりと頷いた。
「この土地では、“肩書き”より先に“何をしてくれたか”で人を覚えます。
奥様はもう、ここで一つ、ちゃんと足跡を残しておられる」
足跡。
雪の上に、自分でつけた印。
それは、誰かの後ろをただついていくだけではつかないものだ。
「……そう言っていただけると、少しだけ自信が持てます」
私がそう言うと、おばあさんは満足げに頷いた。
「これからも、どうか辺境伯様とエリスお嬢ちゃんを、よろしく頼みますよ、奥様」
その「よろしく頼みますよ」は、重くなく、温かかった。
“責任を押し付ける”のではなく、“一緒に支えてほしい”という、柔らかな重み。
「こちらこそ。
わたしにできることは限られていますけれど……精一杯、務めさせていただきます」
そう答えたとき、胸の中で何かが静かにかちりと噛み合った気がした。
――“仮の妻”でも、“契約”でもいい。
呼び方がどうであれ、ここで誰かの支えになれるなら、それはきっと偽物ではない。
外に出ると、空はもう少しだけ淡い灰色に変わり始めていた。
帰り道、エドガー様がぽつりと言う。
「……すまないな」
「何が、ですか?」
「一年という条件で、お前をここへ連れてきたことだ」
思わぬ言葉に、足が止まりそうになる。
彼は前を向いたまま続けた。
「老人たちの言う通り、これから噂は広がる。
“辺境伯の奥方”として、お前を見る者も増えるだろう。
それが一年後には消えると分かっていて、期待を抱かせるのは、あまり誠実ではない」
その横顔は、いつもより少し硬かった。
吹雪の中で見たときよりも、むしろ痛ましく見える。
「……誠実、でしょうか?」
「ん?」
「わたしには、そうは思えませんわ」
彼がわずかにこちらを見る。
「“一年で終わるかもしれない”と最初から伝えてくれたことも、
それでもここに来るかどうか、わたしに選ばせてくれたことも。
全部、誠実だったと、わたしは思っています」
足元の雪を踏みしめながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「それに、誠実じゃないとしたら──
きっとそれは、“一年で終わると決めつけてしまうこと”の方ではないかしら」
エドガー様が、わずかに目を細めた。
「決めつける?」
「はい。
“契約だから”“仮だから”と言い続けていたら、
たとえこの一年で何が生まれても、“最初からなかったこと”にしてしまいそうでしょう?」
自分で言いながら、胸が少しだけ痛んだ。
王都での婚約がまさにそうだったからだ。
「……ここでの一年が、終わりになるか、始まりになるか。
今決めてしまうのは、まだ早い気がするのです」
彼はしばらく黙っていた。
雪を踏む音だけが、二人の間を満たす。
やがて、ぽつりと呟く。
「……お前は、時々ずるいことを言うな」
「ずるい?」
「先のことなど、分からないというのは事実だ。
だが、“決めつけるな”と言われると……」
そこで言葉を切り、ふっと息を吐く。
「少しくらい、期待してもいいのかと思ってしまう」
その一言に、今度は私の方が言葉を失った。
頬が熱くなり、心臓が落ち着かない。
「……期待、ですか」
「約束はできない。
だが、“この一年を終わらせたくない”と思う日が来るなら──
そのとき、お前にどう言えばいいのか、考えておくのも悪くない」
その言葉は、冬の光のようだった。
眩しすぎず、でも確かに胸の中を照らす。
「でしたら、わたしも考えておきます」
「何をだ?」
「もし本当にその日が来たとき、
“わたしも、そう思っていました”と笑って言えるようにするには、
どんなふうにここで過ごせばいいのか、です」
エドガー様が、一瞬だけ目を見開き、それから小さく笑った。
「……では、お互いに宿題だな」
「ええ。雪が溶けるまでに、少しは進めておきましょう」
そんな他愛のないやり取りが、妙に愛おしかった。
館に戻ると、玄関ホールでエリス様が待っていた。
頬を赤くして、手には小さな毛糸のマフラーを抱えている。
「おかえりなさい!」
「ただいま、隊長殿」
エドガー様がそう言うと、エリス様は満足げに胸を張った。
「ちゃんと見張ってたよ。
兵隊さんたちが寒くないかも、みんなの顔色も」
「ご苦労だったな」
そして、こちらに向き直る。
「クッキーのお姉さんも、おかえりなさい」
その一言に、胸がじんと温かくなる。
“奥様”も、“契約妻”も、どれも本当で、どれもまだしっくりこない。
でも──
「ただいま、エリス様」
そう返したとき、不思議と一番しっくり来たのは、この言葉だった。
――“ただいま”と言える場所がある。
“おかえり”と返してくれる声がある。
たとえそれが、まだ雪に覆われた小さな館の中の出来事に過ぎなくても、
わたしにとっては、何より確かな「始まり」の証なのだと思えた。
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