婚約破棄された伯爵令嬢は、無愛想な辺境伯の仮妻になって静かな幸せを見つける

cotonoha garden

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第10章



 「いてくれて助かる」と言われることは、これまでにも何度かあった。
 でも、「ここにいてほしい」とは、一度も言われたことがない。

 ──その違いが、こんなにも胸に残るのだと知ったのは、冬が少しだけ緩み始めた頃のことだった。

  ◇ ◇ ◇

 吹雪の数日後、空気はまだ冷たいものの、窓の外に見える景色は少しずつ変わっていった。
 真っ白だった庭に、ところどころ土の色が覗き始める。
 屋根の雪も、端からぽたぽたと水滴を落とし、日中は細い水の筋を作っていた。

 「もうすぐ、雪どけ祭りね」

 サロンの窓辺で針を動かしながら、私はひとりごとのように呟いた。
 隣の椅子には、クッションと毛糸玉が山になっている。

 「ゆきどけ、おまつり?」

 うしろから覗き込んだ声に振り返ると、エリス様が椅子の背にもたれ、じっと外を見ていた。
 膝には、あのぬいぐるみ。
 でも、その抱きしめ方は前より少しだけ、力が抜けている。

 「ええ。雪が溶け始めた頃に、みんなで“冬を乗り越えられた”ってお祝いするお祭りよ。
 ラドクリフ領のものは、まだ見たことがないけれど……きっと焚き火があって、あったかいごはんが出て、歌もあるはず」

 「歌!」

 エリス様がぱっと目を輝かせる。

 「お母さまもね、雪の日に歌を歌ってくれたの。
 窓に、指でお花を描きながら」

 「窓にお花?」

 「うん。こうやって──」

 エリス様は、窓ガラスにそっと指を添えた。
 冷たい硝子の上を、花びらを描くみたいになぞっていく。
 曇ったところに、指の跡で丸や線が残った。

 「……素敵ね」

 「でも、もうすぐ消えちゃう」

 そう言いつつ、彼女の声は少し楽しそうだった。
 消えるからこそ、その一瞬が特別になるのかもしれない。

 「雪どけ祭りのときは、窓じゃなくて、地面にお花が咲くわね」

 「地面に?」

 「ええ。本物の。
 去年までは、どんなお花が咲いたの?」

 尋ねると、エリス様は少し考え、それから片手を広げる。

 「ちいさい、黄色いお花と、白くてふわふわのやつと……
 お父さまが、“春は足もとからやってくる”って言ってた」

 その言葉に、胸が少しだけ温かくなる。
 あの不器用な辺境伯様が、そんなことを言う姿を思い浮かべてしまって。

 「じゃあ、今年は三人で見に行けたらいいわね。
 エリス様と、お父さまと、わたしと」

 「……うん」

 ほんの一瞬、彼女の表情が曇った気がした。
 けれど、すぐにぱっと笑顔を作る。

 「でもね、まだ寒いから。
 クッキーのお姉さん、外に出るときはあったかくしてね。風邪ひいたらやだもん」

 「それはわたしの台詞よ」

 笑い合いながら、私はふと、彼女の頬に赤みが強いのに気がついた。
 暖炉の火のせいだけではない、妙な熱っぽさ。

 「……エリス様、少し顔が赤いような気がするのだけれど」

 近づいて、そっと額に手を当てる。
 指先に触れる肌は、思ったより熱い。

 「ちょっと、あついかも」

 本人も自覚しているのか、少しだけ苦笑いを浮かべた。

 「寒いところを行ったり来たりしていたものね。
 すぐにハンナさんを呼んで、お薬を──」

 そう言いかけたとき、エリス様がぎゅっと袖を掴んだ。

 「いや。
 クッキーのお姉さん、いっちゃやだ」

 「……すぐ戻ってくるわ」

 「でも、いや」

 か細い声が、胸に刺さる。
 吹雪の夜の記憶が、まだ彼女の中に残っているのだ。

 「わかったわ。じゃあ──」

 私は、自分の椅子を引き寄せ、彼女の隣に座り直した。

 「ここにいるから、その間にハンナさんを呼んできてもらえる?」

 驚いたように顔を上げる。

 「……だれに?」

 「暖炉のそばにいるメイドさんにお願いしましょうか。
 エリス様、声をかけてもらえる?」

 「わたしが?」

 「ええ。
 “少し具合が悪いかもしれないから、お薬を”って。
 隊長さんのお仕事よ」

 思いがけない言葉に、エリス様は戸惑いながらも、こくりと頷いた。
 ゆっくり立ち上がって、サロンの入り口近くにいるメイドに声をかける。その背中が、少しだけ頼もしく見えた。

 やがて、ハンナさんが駆けつける。
 体温を測り、喉の様子を確認して、穏やかに微笑んだ。

 「大きな熱ではありませんが、今夜はお部屋で安静にしていた方がよさそうですね。
 お薬と、消化に良いスープを用意いたします」

 「……クッキーは?」

 エリス様の小さな問いに、ハンナさんは苦笑混じりに答えた。

「今日は、我慢なさった方がよろしいでしょう。  
 その代わり、クッキーのお姉さんがそばについていてくださるそうですからね」

 視線が私に向く。
 私は力強く頷いた。

 「もちろん。
 今日のわたしの仕事は、“エリス様のそばにいること”ですから」

 「ほんとう?」

 「本当よ」

 その言葉に、エリス様は少しだけ安心したような顔をして、ベッドに横になった。

  ◇ ◇ ◇

 夕方、エドガー様が仕事から戻ってきたとき、私はエリス様の部屋の椅子に座っていた。
 ベッドの上では、小さな胸が規則正しく上下している。
 おでこには冷たい布。ぬいぐるみが、腕の中にしっかり抱きしめられていた。

 「……どうだ」

 低い声がして振り返ると、扉のところにエドガー様が立っていた。
 心なしか、いつもより歩幅が早い。

 「大事には至っていません。
 熱も、さっきより少し下がってきました」

 私は声を潜めて答えた。

 「季節の変わり目だからでしょうか。
 喉も少し赤いですが、お薬も飲みましたし、今はぐっすりです」

 「そうか」

 ベッドに近づいた彼の表情は、戦場では決して見せないであろう種類の緊張に満ちていた。
 大きな手が、そっと布団の端を直す。

 「エリス」

 呼びかける声は、驚くほど優しい。

 「……お父さま」

 眠りの淵から返ってきた小さな声に、彼の肩の力がふっと抜けた。

 「お父さま、ちゃんと帰ってきた?」

 「帰ってきたとも。
 今日は出る前に、ちゃんとお前の額に手を当ててから行ったからな」

 その言葉に、私は一瞬驚いた。
 朝、彼がいつもより長くエリス様の部屋にいたような気がしていたが、そういうことだったのだ。

 「……クッキーのお姉さんは?」

 「ここにいる」

 私は椅子から少し身を乗り出し、エリス様の視界に入るようにした。

 「ここにいるわ。
 今日はずっと、エリス様のそばに」

 「ほんと?」

 「ええ。
 お熱が下がるまで、ちゃんと見張っています」

 エリス様は、うっすらと目を開け、ぼんやりとした視線で私を見た。
 頬はまだ赤いが、その瞳にはいつもの青が戻りつつある。

 「……よかった」

 小さな手が、布団の外へ伸びてくる。
 私はその手をそっと握りしめた。

 「怖い?」

 そう尋ねると、彼女は少し考えてから、小さく首を振る。

 「こわいけど……
 クッキーのお姉さんが、こわいの半分こするって言ったから」

 思わず喉の奥が熱くなる。
 その約束を、ちゃんと覚えていてくれたのだ。

 「ええ。
 だから、残りの半分はお父さまに渡してしまいましょうか」

 「……お父さま、重くない?」

 「大丈夫だ。両手が空いているからな」

 エドガー様が静かに言う。
 その声に、エリス様がふふっと小さく笑った。

 「じゃあ、半分こ、してて」

 そのまま、再び目を閉じる。
 手の力が少しだけ弱くなって、規則正しい寝息が戻ってきた。

 しばらく、三人とも黙っていた。
 暖炉のない子ども部屋は、代わりに湯たんぽと厚い布団で守られている。
 窓の外からは、溶けかけた雪がぽたぽたと落ちる音が聞こえた。

 「……ありがとう」

 不意に、低い声が落ちた。

 「お前がいてくれて、助かった」

 いつもと同じような言葉なのに、今はなぜか少し違って聞こえる。

 「“助かる”なんて、大したことはしていませんわ。
 ただ、ここに座っていただけですもの」

 そう返すと、彼は少し首を振った。

 「それが、どれだけのことか、父親になってからよく分かった」

 初めて聞く、本当に小さな吐露だった。
 私は黙って耳を傾ける。

 「戦場では、誰かが傷ついても、できることは限られている。
 だが、家で熱にうなされている子どものそばにいるのは……
 “そこにいる”ということそのものが、役目になる」

 その言葉に、胸の奥がじんと熱くなった。

 「……わたしも、そう思いたいのです」

 「ん?」

 「ここでのわたしの役目が、何か大きなことではなくても。
 ただ、必要なときに“ここにいる人”であれたら、それでいいのかもしれないって」

 “いてくれて助かる”と誰かが言ってくれるなら。
 それはもう、「いなくてもいい人」ではないのだと。

 エドガー様は、ゆっくりと頷いた。

 「その役目を受け入れてくれるなら、私は心強い」

 「……役目、なのですね」

 思わず笑ってしまう。

 「ええ。
 それなら、この一年だけは、きちんと務めてみたいと思います」

 「一年“だけ”か」

 彼の声には、ほんのわずかに含みがあった。
 私もそれ以上は何も言わず、ただエリス様の手を握り続けた。

 やがて彼は、「少し席を外す」と部屋を出ていった。
 扉が閉まる音がして、静けさが戻る。

 ベッドの横に座ったまま、私は繋いだ手を見つめた。

 ──一年“だけ”と言いながら、本当は。

 この小さな手が、熱のない日にも私を探してくれたらいいと、願ってしまっている。
 クッキーを飾る日も、雪どけの花を見る日も。
 「クッキーのお姉さん」と呼ばれる以上の名前で、隣に立てたらいいと。

 「欲張りね、わたし」

 誰にともなく、そっと呟く。
 けれど、その欲張りは、以前のような「認められたい」「選ばれたい」という切羽詰まった願いとは、少し違う気がしていた。

 今、わたしが欲しいのは、“所有”ではなく“居場所”だ。
 誰かの肩書きとしてではなく、
 この家の、小さな日々の中に名前を刻むこと。

 エリス様の寝顔を見つめながら、私は静かに目を閉じた。

 ――ここにいてくれて助かる、と。
 いつか誰かがまた言ってくれるなら。

 その言葉の奥に、「ここにいてほしい」という気持ちが少しでも混じっていたらいい。
 そう願いながら、今夜だけはこの小さな手を離さないでいようと思った。

 窓の外では、雪解けのしずくが、夜の闇に小さな音を刻み続けている。
 春は、足もとからやってくる。

 その足もとに、そっと自分の居場所を描き足すように。
 わたしもまた、この家の一角に、静かに根を伸ばし始めていた。
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