婚約破棄された伯爵令嬢は、無愛想な辺境伯の仮妻になって静かな幸せを見つける

cotonoha garden

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第33章


 
 「“視察団が来る”と聞かされても、実感がわかなかった。 
 ──“兄がここに来る”と口にしたとき、ようやく胸の奥で何かが動き出した。」 
 
 ◇ ◇ ◇ 
 
 王都からの正式な通達が届いたのは、冬祭りまであと七日という朝だった。
 
 「ラドクリフ辺境伯 エドガー・ラドクリフ殿下 
 並びに 奥方 リディア・ホイットロック殿へ──」
 
 ハロルドが帳場で読み上げる声を聞きながら、わたしは思わず背筋を伸ばした。
 
 「……“奥方”まで、きっちり並べてくださるのですね」
 
 小声で呟くと、ハロルドは目元だけで笑う。
 
 「王都の書記官にも、“怖がり線”の噂が届いているのかもしれませぬ」
 
 「それは、あまり広まってほしくありませんわ」
 
 「残念ながら、噂というものは選べませぬ。 
 ただ──“奥方”の肩書きの横に、“契約”という文字が付いていないのは、良い兆しでございます」
 
 そう言われて、胸の奥が少しだけ温かくなる。
 
 「視察団到着予定日は、冬祭りの三日前。 
 王城法務局付・補佐官 レオン・ホイットロック殿を筆頭に、小規模の一行とのこと」
 
 「三日前……」
 
 思わず、祭りの段取り表が頭に浮かぶ。 
 屋台の準備、倉庫の最終確認、旗の掲揚。 
 
 (……そのあたりの慌ただしさも、全部見てもらうことになりますわね)
 
 「“冬祭りの準備を含め、ありのままを拝見したく存じます”とございます」
 
 ハロルドが読み上げる文言は、エドガー様が書いた招待状に対する、きちんとした返礼だ。
 
 「兄らしいです。 
 “きれいに片付いたところだけを見たい”とは、決して言わない人ですから」
 
 「それは、奥方様も同じでございますな」
 
 「……心外ですわね」
 
 わざと不満そうに言うと、周りからくすくす笑いが起きる。
 
 「では、こちらからの返答も、すぐにしたためます」
 
 ハロルドは恭しく一礼し、書簡机に向かう。 
 その背中を見送りながら、胸の奥にじわじわとした緊張が広がっていくのを感じた。
 
 ──兄が、本当に来る。 
 
 紙の上の文字ではなく、冬の空気をまとった人として。
 
 ◇ ◇ ◇ 
 
 朝食の席に着くと、食卓にはすでに湯気の立つスープと、焼きたてのパンが並んでいた。 
 エリス様は、手紙の練習で酷使したらしい指を両手でさすりながら、パンを眺めている。
 
 「お父さま、きょうは“おじさまのパン”?」
 
 「“おじさまのパン”とはなんだ」
 
 エドガー様が眉をひそめる。
 
 「王都から視察団が来るから、“王都の人にも食べてほしいパン”っていう意味だそうです」
 
 わたしが説明すると、彼はようやく納得したように小さく頷いた。
 
 「……そういう意味なら、たしかに今日は出来がいい」
 
 「お父さまも、ちょっと緊張してる?」
 
 エリス様が、じっと彼の顔を覗き込む。
 
 「視察団が来たくらいで緊張はせん」
 
 「でも、“クッキーのお姉さんのお兄さん”が来るんだよ?」
 
 その言い方に、思わずパンを喉に詰まらせそうになる。
 
 「エリス」
 
 「なに?」
 
 「“クッキーのお姉さんのお兄さん”という呼び方は、王都の法務局では通用しない」
 
 「じゃあ、“れおんおじさま”?」
 
 「そちらの方がまだましだ」
 
 エドガー様は、匙をスープに沈めながら、ちらりとこちらを見る。
 
 「正式には、“王城法務局付・補佐官殿”だ」
 
 「ながい!」
 
 エリス様が即座に却下する。
 
 「ここでは、“れおんおじさま”でよろしいのではありませんか」
 
 わたしが口を挟むと、彼は小さくため息をついた。
 
 「……王都の補佐官殿が聞いたら、どういう顔をするか想像がつくな」
 
 「きっと、少し眉をひそめて、でも最後には諦めて受け入れると思います」
 
 「なるほど。 
 お前の兄だ」
 
 まるで見てきたように言うので、思わず笑ってしまう。
 
 「で、“れおんおじさま”が来たら──」
 
 エリス様がフォークを握りしめたまま、身を乗り出した。
 
 「お姉さん、いちばん最初に何て言うの?」
 
 朝も早くから、核心を突いてくる質問である。
 
 「……“遠いところを、ありがとうございます”かしら」
 
 とりあえず無難な言葉を口にすると、彼女は不満そうに頬をふくらませた。
 
 「ちがう! 
 “おかえりなさい、ラドクリフへ”って言うんでしょ?」
 
 胸の奥が、ひゅっと鳴る。
 
 「エリス、それは少し──」
 
 「ちがうの?」
 
 大きな瞳が、まっすぐこちらを覗き込む。
 
 「……いいえ」
 
 わたしは、ゆっくりと首を横に振った。
 
 「本当は、そう言えたらいいなと思っています」
 
 それを認めるのが、少し怖かった。 
 兄にとってラドクリフが“帰ってくる場所”になっているかどうかなんて、分からない。
 
 でも、わたし自身は── 
 
 (そう言える場所に、ここをしたいと思っている)
 
 その気持ちは、もう誤魔化せそうになかった。
 
 「“おかえりなさい”と言うには、ここに居続けねばならん」
 
 エドガー様が、静かに言う。
 
 「門の下で待ち続ける人間がいて、初めてその言葉は意味を持つ」
 
 「だから、お姉さんが“まってるひと”なんだよね」
 
 エリス様が、当たり前のように笑った。
 
 「お父さまは、“いってらっしゃい”って言う人でしょ?」
 
 「なぜそうなる」
 
 「だって、お仕事で出かけるから!」
 
 なるほど、と妙に納得してしまう。
 
 「冬祭りの日も、お父さまは“見回り”であちこち動き回るのでしょう?」
 
 「その予定だ」
 
 「だったら、“門で待ってる係”が必要ですわね」
 
 自然と、そんな言葉が口をついて出た。
 
 「出稼ぎに行っていた人も、雪の中を帰ってくる人も、王都から来る人も。 
 “ここで待っている人間がいる”と分かる場所が」
 
 エドガー様の視線が、少しだけ柔らかくなった。
 
 「なら、誰がその係をやる」
 
 問われて、返事はひとつしかなかった。
 
 「……わたしで、よろしければ」
 
 「他に、誰がいる」
 
 さらりと言われて、喉の奥が熱くなる。
 
 「“怖がり線”を引いた人間が、 
 “帰ってくる人の門”の下に立つのが、一番しっくりくる」
 
 「……そんな、妙な理屈をつけないでくださいませ」
 
 少しだけ顔をそむけると、エリス様が嬉しそうに手を叩いた。
 
 「じゃあきまった! 
 冬まつりの日、門のしたでいちばんさいしょに“おかえりなさい”って言うのは、 
 クッキーのお姉さん!」
 
 言い切られてしまうと、逃げ場がない。
 
 けれど、不思議と嫌ではなかった。 
 むしろ、胸の奥で小さな灯りが灯るような感覚がある。
 
 (……そうか。 
 “居場所を選ぶ”って、 
 “どこで誰を待つか”を選ぶことでもあるのね)
 
 冬祭りの日、門の下で誰を一番に迎えたいか。 
 その答えを自分の中で確かめることは、 
 紙の上の選択肢を決めることと、きっと同じくらい大切だ。
 
 ◇ ◇ ◇ 
 
 その日の午後、見張り台からの伝令が屋敷に飛び込んできた。
 
 「知らせです! 
 王都方面より、数騎の一団がこちらへ向かっております!」
 
 「予定どおりか?」
 
 エドガー様が、手にしていた書類を置く。
 
 「はい! 
 王都の紋章旗と、法務局の印の旗を確認しました!」
 
 「……ずいぶん早いですわね」
 
 予定より、一日ほど早い。 
 冬道の状態を考えれば、むしろ遅れるものと思っていたのに。
 
 「雪雲が厚くなる前に峠を越えたかったのでしょう」
 
 ハロルドが、冷静に言った。
 
 「奥方様、どうなさいます」
 
 「どう、とは?」
 
 「門でお迎えいたしますか。 
 それとも、屋敷の大広間で?」
 
 問いを受けて、わたしはほんの一瞬だけ迷った。
 
 冬祭りの日ではなくとも、“帰ってくる人の門”はそこにある。 
 最初にその下をくぐるのが誰になるのか──なら、答えは決まっている。
 
 「門で、お迎えいたします」
 
 静かに言うと、ハロルドの目がわずかに細まった。
 
 「承知いたしました。 
 では、“帰ってくる人の門”の初仕事ですな」
 
 「そんな大げさな」
 
 言いながらも、胸の奥では、 
 “初仕事”という響きが妙に重く、そして心地よく響いていた。
 
 ショールを羽織り直し、手袋をはめる。 
 外に出ると、空は鈍い灰色で、雪の匂いを含んだ風が頬を打った。
 
 広場へ向かう小道の先、木の支柱で組まれた“門”が見える。 
 まだ飾り付けも半ばだが、それでも十分に“入口”としての存在感があった。
 
 (ここで、待つのね)
 
 門の下に立つと、不思議な感覚に包まれる。 
 この先に伸びる道の向こうから、 
 誰かの足音や馬の蹄の音が、こちらへ向かってくるのを待つ場所。
 
 やがて、遠くから蹄の音が聞こえてきた。 
 雪を踏みしめる音が混じる。
 
 (来る)
 
 心臓が、いつもより早く打ち始める。
 
 先頭の騎馬が見えた。 
 王都の紋章旗、法務局の旗、その少し後ろに── 
 
 見慣れた横顔があった。
 
 「……レオン兄さま」
 
 思わず、昔の呼び方が口をついて出る。
 
 彼もまた、こちらに気づいたのか、わずかに姿勢を正した。 
 灰色がかった冬空の下で、その瞳だけがはっきりとした色を帯びている。
 
 視察団が門の前で速度を落とす。 
 雪混じりの風が、旗を大きく揺らした。
 
 「ラドクリフ辺境伯領──」
 
 儀礼的な挨拶が、後ろの役人の口から紡がれようとしたそのとき。
 
 わたしは、一歩前に出ていた。
 
 「遠いところを、お疲れさまでした」
 
 まず、そう言った。 
 
 王都からここまでの道のりの長さと、 
 雪の中を越えてきた苦労に対しての言葉。
 
 そのあとで── 
 
 喉の奥にひっかかっていた言葉を、 
 勇気を振り絞って押し出す。
 
 「……おかえりなさいませ、ラドクリフへ」
 
 レオンの瞳が、驚いたように見開かれた。 
 次の瞬間、彼はふっと目を細める。
 
 「ただいま」
 
 そう、短く答えた。
 
 王都の補佐官としてではなく。 
 ホイットロック家の長男としてでもなく。
 
 “扱いづらい妹”の兄として。 
 
 その一言に込められた温度が、 
 雪の冷たさを少しだけやわらげた気がした。
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