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第34章
兄の「ただいま」の一言で、ラドクリフが“どこから帰ってくる場所”なのか、あらためて思い知らされた。
──そして同時に、“わたしはもう、どこへ帰りたいのか知ってしまっている”ことも。
◇ ◇ ◇
「王城法務局付・補佐官、レオン・ホイットロックと申します。
ラドクリフ辺境伯殿下、ならびに奥方殿──このたびは、受け入れに感謝いたします」
門をくぐり、馬を降りた兄は、教本に載っていそうな見事な礼をした。
雪の気配をまとったマントの裾が、きっちりと決められた角度で揺れる。
「ラドクリフ辺境伯、エドガー・ラドクリフだ。
遠路ご苦労だったな、補佐官殿」
エドガー様もまた、いつもより一段と「辺境伯」の顔をしていた。
冬空の下で向かい合うふたりは、遠目にはただの“王都と辺境の代表同士”にしか見えないかもしれない。
でも、その少し後ろでわたしは知っている。
ひとりは“扱いづらい妹の兄”で、もうひとりは“怖がり線を描かせた男”だということを。
「……エドガー・ラドクリフ殿」
兄が顔を上げたとき、わずかに目を細めた。
「王都の記録で見るより、ずいぶん……“雪ぐせ”のあるお顔をしておられる」
「雪ぐせ?」
「冬を二度越した人間の顔、という意味だ」
言い回しの堅さのわりに、妙に実感のこもった言葉だった。
エドガー様の口元が、ほんのわずかだけ緩む。
「王城の補佐官殿も、机の上の雪には慣れていると聞いた」
「ええ。
書類の山崩れには、日々埋もれております」
「それはご愁傷さまだ」
言葉だけ聞けば、乾いたやりとりだ。
けれど、雪の冷たさの下に、お互いどこか同業者を見るような空気があった。
「視察団の皆様も、お疲れでしょう。
屋敷で温かいものを──」
そこで、わたしの袖がぐいっと引っ張られた。
「おじさま!!」
エリス様が、門の陰から勢いよく飛び出してきた。
「れおんおじさま! ほんとにきた!」
視察団の空気が、目に見えて一瞬揺れる。
王都の役人たちが「おじさま?」という顔をして兄を見た。
「エリス」
わたしは慌ててその肩を押さえる。
「ここは王都の方々もいらっしゃいますから──」
「問題ない」
予想外にも、その声をさえぎったのは兄だった。
「……“れおんおじさま”で構わない」
少しだけ照れくさそうにしながら、視察団の方へ向き直る。
「本日よりラドクリフを視察するにあたり、
私が最初に名乗られた呼び名は“補佐官殿”ではなく、“おじさま”だった。
──そのことは、ここでの立場を説明するうえで、
何より分かりやすいでしょう」
役人たちが、きょとんとしたあと、苦笑まじりに頭を下げた。
王都から連れてきた護衛騎士のひとりなどは、明らかに肩の力が抜けた顔をしている。
「れおんおじさま!」
エリス様は、兄のマントの端をつかんだ。
「エリスです! “こわがりせん”のおくさまの、むすめです!」
「ちょ、ちょっと待ってください、エリス様」
「“怖がり線の奥方”などという紹介の仕方、初耳なのだが」
兄がわたしを見る。
視察団の一部から、くすりと笑いが漏れた。
「……誤解です。
“怖がりながら考える奥方”ですわ」
必死に訂正すると、兄はふっと目元を緩めた。
「どちらも、大差はない気もするが」
「大ありです!」
こちらの抗議に、門の下で笑い声が広がった。
雪混じりの風の中、温度が少しだけ上がる。
「奥方殿」
兄が、あらためてこちらに向き直った。
わたしも、少しだけ背筋を伸ばす。
「……ただいま」
さっきと同じ言葉を、今度はわたしだけに向かって。
「おかえりなさいませ、兄さま」
今度は迷わず、そう返せた。
◇ ◇ ◇
屋敷に入ると、視察団はハロルドに案内されて客間へと通された。
エドガー様と兄は、書類の受け渡しや、視察の日程について簡単な打ち合わせを行う。
わたしはその間、エリス様とともに台所へ回った。
兄と視察団に出すお茶菓子の用意をするためだ。
「クッキー、どのくらい焼く?」
「視察団の人数分と、予備を少し。
あとは、兄の分を……そうですね、三枚ほど多めにしておきましょう」
「なんで三枚?」
「最初の一枚は“お仕事の顔”で食べるでしょう。
二枚目は“妹のいる家の味”として、少し気を抜いて食べる。
三枚目で、本当にラドクリフの味を噛みしめられるはずですわ」
自分で言って、少し照れくさくなる。
でも、兄の性格を考えると、きっと外れてはいない。
「じゃあ、“三枚めのおじさまクッキー”を、お姉さんと一緒に見守る!」
エリス様が張り切っている。
台所の女たちも、くすくす笑いながらクッキーの生地を天板に並べていく。
「奥方様も、少し落ち着かれましたかな」
女主人が、小声で囁いた。
「門のところでは、顔がこわばっておいででしたよ」
「……見られていましたのね」
「そりゃあもう」
彼女はにやりと笑う。
「“帰ってくる人の門”の初仕事ですからねぇ。
誰がどんな顔で立つのか、みんな注目してやした」
「恥ずかしいですわ」
「でも、“おかえりなさい”と言った顔は、悪くなかったですよ」
そのさりげない一言に、胸の奥がじんと温かくなる。
(……兄にも、そう見えていたらいいのだけれど)
クッキーの甘い匂いが、台所から廊下へと漏れていく。
やがて、それが客間の扉の向こうに届く頃──
「お姉さん、できた!」
エリス様が、誇らしげに一枚の皿を掲げた。
視察団用のきちんとした盛りつけとは別に、小さな皿にクッキーが三枚。
「これ、“れおんおじさま専用”」
「では、持っていきましょうか」
そっと皿を受け取り、廊下を歩く。
心臓の鼓動が、さっき門に立っていたときよりも速くなっている気がした。
◇ ◇ ◇
客間の扉をノックすると、中から兄の声がした。
「どうぞ」
扉を開けると、エドガー様と兄、そのほかの役人たちがテーブルを囲んでいた。
地図と帳簿が広げられ、真面目な話し合いの最中のようだ。
「失礼いたします。
お茶をお持ちしました」
わたしが盆を運び込むと、一瞬、空気が柔らかくなった。
「おお……これが噂の“ラドクリフのクッキー”でございますか」
役人のひとりが、わくわくした目で皿を覗き込む。
「誰が噂を?」
兄が半眼になると、その役人は咳払いをした。
「法務局の書庫で、“冬越しの報告書”を確認した際──
現地の担当者が、“奥方のクッキーがなければ、会議も倉庫も回らない”と……」
「報告書のどこにそんな記述がある」
「余白に、小さく……」
兄がこめかみを押さえた。
エドガー様は、わずかに肩を震わせている。
「奥方のクッキーは、ラドクリフの非公式通貨のようなものだ」
「そんな物騒な言い方、やめてくださいませ」
抗議しつつも、心のどこかで誇らしい。
わたしは手早く視察団全員の前にクッキーを配り、最後に、小さな皿を兄の前に置いた。
「レオン兄さま」
「……なんだ、その皿は」
「“おじさま専用”ですわ」
兄の眉が、ぴくりと動いた。
「一枚目は、“王都の補佐官殿”としてお召し上がりください。
二枚目は、“妹のいる家で出されたおやつ”として。
三枚目は──」
言いながら、自分で少し笑ってしまう。
「“ラドクリフという土地の味”として、噛みしめていただければ」
客間に、小さな笑いが広がった。
兄はわずかにため息をつきながらも、一枚目のクッキーをつまむ。
「……王都の菓子職人たちが聞いたら、嫉妬しそうだな」
「お口に合いましたか」
「“補佐官殿”としては、感想を控えるべきだろう。
だが、兄として言うなら──」
そこで一瞬言葉を切り、ふっと表情を和らげた。
「悪くない。
“ここに帰ってきたくなる味”というのは、こういうものかもしれない」
胸の奥が、じん、と熱くなる。
「ありがとうございます」
自然と頭を下げていた。
「……さて」
兄は二枚目のクッキーを指でつまみながら、エドガー様を見る。
「辺境伯殿。
公式な視察の段取りについては、のちほど改めて書面に起こします。
まず今日は、道中の疲れを癒やすことと──」
そこで、わたしの方に視線を向けた。
「妹に、少しだけ“兄として話をする時間”をいただきたい」
エドガー様は、なんのためらいもなく頷いた。
「書斎を使うといい。
あそこなら、冬の光も入りやすい」
「感謝いたします」
役人たちが気を利かせたのか、「我々は宿泊の割り振りを確認してまいります」と席を立っていく。
客間には、わたしと兄と、エドガー様と──出入り口の陰にこっそり隠れているエリス様だけが残った。
「エリス」
「み、見えてた!?」
「丸見えだ」
エドガー様の声に、彼女は観念して姿を現す。
「“おじさま”と話したいか」
「うん!」
「なら、少しだけ許可しよう。
ただし“怖がりながら考えるお姉さん”の邪魔はするな」
「はーい!」
なんともラドクリフらしい了承の仕方だった。
兄は苦笑しながら立ち上がる。
「では、場所を変えようか。
ラドクリフの冬の光というものを、私も見てみたい」
◇ ◇ ◇
書斎に入ると、窓から柔らかな冬の光が差し込んでいた。
兄はしばし部屋を見回し、壁に掛けられた地図や、暖炉の上の小さな旗に目を留める。
「これが、“二年目の色”か」
「あら、もうご存じで」
「道中、ハロルド殿から少し話を聞いた」
兄は旗に近づき、慎重に指先で縫い目をなぞる。
「春の緑、冬の光、クッキーの色」
「その呼び方は、エリス様が決めました」
「いい名付けだ」
ぽつりと、真面目な声で言う。
「……で、“怖がりながら考える係”の座は、まだ空いているか」
「残念ながら、埋まっておりますわ」
そう返すと、兄は振り向いた。
「誰が座っている?」
「わたしです」
少しだけ胸を張って言う。
「この冬も」
兄は、何かを噛みしめるように目を細めた。
「そうか」
短い言葉なのに、その中にたくさんの感情が詰まっている気がした。
エリス様が、わたしと兄のあいだをきょろきょろと見比べる。
「あのね、れおんおじさま!」
「なんだい、エリス嬢」
「エリス、おねえさんにおてがみ書いたんだよ」
そう言って、机の上の紙を指さす。
そこには、あの拙い字で綴られた一文があった。
『らどくりふは さむいです。
でも さむくないです。
くっきーが あったかいからです。』
兄は、その紙をそっと手に取る。
じっと読み、ふっと笑った。
「……法務局の書類には、こういう文は決して載らないな」
「でしょうね」
「でも、冬を越す国の記録としては、
これがいちばん正確かもしれない」
その言い方が、あまりにも兄らしくて、思わず笑ってしまう。
「レオン兄さま」
「なんだ」
「わたし、“ここで冬を越したい”と思っています」
あえて、正面から言った。
まだ紙に印は押していない。
契約の行方も決まっていない。
それでも──
「どの紙にどんな印を押すかは、もう少し時間をください。
でも、この冬をラドクリフで、ここで過ごしたいという気持ちは、変えません」
兄は、手にしていた紙から目を離し、まっすぐこちらを見た。
「怖くはないか」
「怖いです」
即答すると、彼はわずかに目を見開き、それから小さく笑った。
「……そう言えるなら、大丈夫だ」
「兄さま?」
「“怖がりながら考える係”の仕事を、ちゃんとやっている証拠だからな」
彼は旗の方へ視線を向ける。
「この冬が終わる頃、お前がどの椅子を選んでいるとしても──
ここで“ただいま”と言いたい場所がひとつあることは、悪くない」
胸の奥が、じんと熱くなる。
「ありがとう、兄さま」
「礼を言うのは、まだ早い。
私はまだ、“紙の上の仕事”をしに来た補佐官でもある」
そう言いながらも、彼の表情はどこか和らいでいた。
窓の外では、雪が静かに降り始めている。
ラドクリフの冬が、本格的に幕を開けた。
──“ただいま”と“おかえりなさい”が、同じ屋根の下で交わされる冬。
その始まりに立ち会えていることが、
わたしには少しだけ誇らしかった。
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