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もう「おつかれさま」って送らなくてもいい
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在宅勤務が当たり前になってから、「おつかれさまです」以外の言葉が怖くなった。
それでも、画面の向こうの誰かと繋がりたいと思った夜のことを、私はきっと忘れない——。
金曜の午後三時。
パソコンの画面の中だけが、職場と世界をつないでいる。
「じゃあ、今日もゆるっと始めましょうか~」
チームリーダーの明るい声とともに、オンライン会議が始まる。
モニターには、六つの小さな四角が並んでいた。自宅の書斎、リビング、会社の会議室。人の気配だけが、バラバラに映っている。
私は、その一つの枠の中で、マイクをミュートにしたまま笑っていた。
「この前さ、カメラオフのまま寝落ちしてた人いたよね~」「あ、それ俺です」
誰かの冗談に、他の人たちの笑い声が重なる。
私も、少し遅れて口角を上げる。声は出さない。出せない。
自分の笑顔が、小さな四角の中で引きつっているのが分かる。
でも、ミュートを外すタイミングが分からない。
何か言おうとして、「……」で止まってしまうのが怖い。
「じゃあ、進捗の共有お願いします。佐伯さんからいきます?」
名前を呼ばれて、私は慌ててマイクのアイコンをクリックした。
「はい、えっと……佐伯です。今週は、仕様書の修正が一通り終わりまして……」
仕事の報告なら、まだ話せる。
決められた手順をなぞるみたいに、用意していた内容を読み上げていく。
誰かが相槌を打ってくれると、ちゃんと聞いてもらえている気がして、少しだけほっとする。
でも、報告が終わったあとの、あの「雑談コーナー」が近づいてくると、心臓が少しずつ早くなる。
「じゃ、全体はそんな感じで。あと五分くらいあるので、最近ハマってるものとかあります?」
リーダーの軽い提案に、すぐさま数人が反応する。
「またそれですか~」「いいじゃん、金曜だし」
誰かが新しく始めたゲームの話をして、別の誰かがそれに乗っかる。
家で焼いたパンの写真を画面共有して、「カフェ開けるじゃん」と盛り上がっている。
私は、カメラの中でただ笑っている。
マイクのアイコンは、赤い斜線が入ったままだ。
話に入りたいわけじゃない。
でも、「何も言わない人」だと思われるのも怖い。
どのタイミングで「美味しそうですね」と言えば、自然なんだろう。
どれくらいのテンションで笑えば、浮かないんだろう。
考えているうちに、話題は次々と変わっていく。
何も言えないまま、五分が終わる。
「じゃあ、今日はこの辺で。おつかれさまでした~」
散り散りに「おつかれさまです」が飛び交い、会議は終了した。
画面が黒くなって、私の顔も消える。
静かなワンルームに、エアコンの低い音だけが残った。
モニターの隅に小さく残っているチャットウィンドウには、さっきまでの会話がそのまま流れている。
『今日も定例ありがとうございました!』
『おつかれさまでした~』
『おつかれさまです』
私も、キーボードに指を置き、いつもの文言を打ち込む。
『おつかれさまです』
送信。
それ以上、何も続けられない。
本当は、「パン、美味しそうでしたね」とか、「ゲーム、私も気になってました」とか、ひと言くらい添えられたらいいのに。
でも、そのひと言のせいで、変に思われたらどうしよう。
既読がついて、誰からも反応がなかったら、どうしよう。
そう考えた瞬間、Enterキーを押す勇気が、どこかへ消えてしまう。
チャット画面を閉じて、深く息を吐いた。
画面の左側には、個人チャットの一覧が並んでいる。
その中の一つの名前で、私の指は止まった。
——「篠原さん」。
同じチームの先輩。三つ年上のシステムエンジニア。
会議でもチャットでも、いつも必要最低限のことしか話さない人。
でも、一度だけ。
私が、業務連絡の最後に、勇気を振り絞って送った、ゆるい猫のスタンプに——。
『……』
数分後、無言のまま返ってきた、ちょっと古い感じの犬のスタンプ。
それが、妙に可愛くて、胸の奥がじんわりした。
たったそれだけのことを、私はまだ覚えている。
あのとき、「ありがとうございます」って返事すればよかった。
でも、何をどう返したらいいか分からなくて、結局そのまま会話を終わらせてしまった。
篠原さんとのチャット欄を開く。
そこには、日付と時間がきっちり並んだ、業務連絡だけのやりとりが続いている。
『資料ありがとうございます』
『こちらこそ助かりました』
その合間に、ぽつんと挟まれた、犬と猫のスタンプ。
それだけが、少しだけ温度のある記号みたいに見える。
画面の下の入力欄に、指を置く。
『今日は、おつかれさまでした』
打って、消す。
『さっきの会議、パン美味しそうでしたね』
打って、全部選択して、Backspace。
何度か繰り返して、結局何も送れないまま、ウィンドウを閉じた。
「今日も何も送れなかった」
小さくつぶやいて、椅子にもたれかかる。
天井の白さが、やけに遠く感じた。
ここ一年、ほとんど在宅勤務になってから、誰かと真正面から話すことが、どんどん怖くなっている。
画面越しなら、まだごまかせる。
笑顔だけ貼りつけていれば、「感じのいい人」でいられる。
でも、本当は——。
ひとりでいる時間が長くなるほど、自分が薄くなっていくようで、時々、息が苦しくなる。
そんなことを考えていたら、画面の右下に、小さな通知がポン、と現れた。
『【至急】資料修正のお願い』
チームリーダーからのメッセージだ。
内容を開くと、クライアントからの急な仕様変更で、今日中にある資料を修正する必要が出てきたらしい。
『佐伯さん、対応お願いできますか? 篠原さんも今オフィスにいるので、二人で確認しながら進めてもらえると助かります』
すぐに「承知しました」と返事を打つ。
ほどなくして、別の通知が届いた。
『篠原さんがミーティング招待送ってくれました』
心臓が、ひゅっと縮む。
——二人で、オンライン会議。
予想していなかった文字列に、喉が一瞬、からからになる。
画面の隅に、見慣れた会議システムのポップアップが出ていた。
『篠原』さんからの招待:
『今から30分だけ繋いでいい?』
チャットの短い一文と、会議URL。
「はい」と打ち込む指が、少し震える。
クリックして、会議室に入る。
カメラをオンにすると、画面の向こうに、薄暗いオフィスの一角が映った。
広いフロアに、人の姿はほとんどない。
天井の蛍光灯と、窓の外の夕焼けが混ざり合って、少しオレンジがかった光が差し込んでいる。
「……あ、どうも」
画面の中央に、篠原さんの顔が現れた。
いつも通り、黒縁のメガネに、落ち着いたグレーのシャツ。
でも、どこか目の下に、薄いクマが見える気がする。
「おつかれさまです。佐伯です」
自分の声が、思ったよりも高く響いて、恥ずかしくなる。
篠原さんは、少しだけ口元を緩めて「おつかれ」と返してくれた。
「リーダーから聞きました、資料の件」
「うん。ごめんね、急で。こっちの画面共有しながら、一緒に見てもらってもいい?」
「はい、大丈夫です」
業務の話をしている間は、まだ平気だった。
画面に映る資料に集中して、修正箇所を確認していく。
「ここ、こっちの表現のほうが分かりやすいと思うんだけど、どうかな」
「そうですね……この文だと、ちょっと専門用語が多いかもしれないので……」
篠原さんは、相変わらず口数は少ないけれど、質問には丁寧に答えてくれる。
私が迷っていると、「じゃあ、こういう言い方は?」と別案を出してくれる。
画面越しでも、そのさりげないフォローの仕方は、やっぱり優しい。
集中しているうちに、時間の感覚が少し薄れていく。
気づけば、外はすっかり夕暮れで、オレンジ色が、紺色に飲み込まれ始めていた。
「……よし。これで、ひと通りは直せたかな」
最後のページまで確認して、篠原さんが、ふう、と小さく息を吐いた。
「ありがとうございます。助かりました」
「いや、こっちこそ。佐伯さんがいてくれて、だいぶ楽になった」
画面の中で、篠原さんが、少しだけ肩を回す。
その動きが、なんだか人間らしくて、少し笑いそうになった。
——と、そこで、会話が途切れる。
資料の話が終わってしまって、急に、何を話せばいいか分からなくなる。
マイクのアイコンはオンのまま。
沈黙だけが、回線を通って行き来している。
「あ、えっと……」
何か話さなきゃ、と焦って口を開く。
でも、出てくるのは、「今日、暑いですね」とか、「最近、雨多いですね」とか、どこにでもある言葉ばかりで、どれも途中で喉につかえる。
沈黙が、じわじわと伸びていく。
画面の中の自分の顔が、みるみる固まっていくのが分かる。
このまま「じゃあ、おつかれさまでした」で終わらせれば、きっと楽だ。
いつものように、何もなかった顔をして、通り過ぎればいい。
でも、今日は、なぜかその一言が、喉の奥に引っかかった。
気まずさを紛らわせるみたいに、私は、ぽつりとこぼしていた。
「……在宅だと、人と話すタイミングが分からなくて、難しいですね」
言ってから、「しまった」と思う。
業務と関係ない、妙に個人的な愚痴みたいな言葉。
画面の向こうの篠原さんが、少しだけ目を瞬かせた。
「うん」
短く相槌を打って、一拍置いてから、彼は口を開いた。
「分かる。……俺も、あんまり得意じゃないよ。雑談とか」
意外な言葉だった。
「え?」
「会議の前の、ああいう感じのやつ。みんな普通に話してるけど、あれに入るの、結構難しくてさ」
篠原さんは、少し視線を外しながら、続ける。
「タイミング分かんないし、何話したらいいか分かんないし。チャットも、変なこと言ったらどうしようって考えすぎて、結局、必要なことしか打てなくなる」
それは、私が頭の中でぐるぐる考えていたことと、ほとんど同じだった。
「……篠原さんでも、そうなんですか」
「俺でも、っていうほど立派な人間じゃないけど」
苦笑いを浮かべながら、彼は少し肩をすくめる。
「なんか、文章って、どこで終わらせたらいいか分かんなくない? 『おつかれさまです』って送って、そのあと何か続けたほうがいいのか、そのまま閉じたほうがいいのか、とか」
思わず、笑いそうになった。
「分かります……」
「で、考えてるうちに時間が経って、今さら送るのも変かなってなって、結局送らない、みたいな」
「分かりすぎて、ちょっとつらいです」
自分でも驚くくらい、すんなりと言葉が出た。
篠原さんも、少しだけ笑う。
「佐伯さんは、そういうの、平気そうに見えてたけど」
「全然、平気じゃないです。むしろ、めちゃくちゃ苦手で……」
言いながら、胸の奥が、少しずつ軽くなっていくのを感じる。
「『おつかれさまです』以外のことを書くと、なんか、急に距離を詰めにいってるみたいで、変かなって思っちゃって。既読ついて、何も返ってこなかったらどうしようとか」
「……ああ、それ、ある」
篠原さんは、ゆっくりとうなずいた。
「既読って、便利だけど、怖いよね。『読んだよ』っていうのが見えるから」
「そうなんですよね。何も返ってこないと、『あ、やっぱりいらないこと言ったんだな』って思ってしまって」
「でも、返すのに時間かかるときもあるしね。考えちゃって」
「考えちゃうんですね」
「うん。俺、スタンプ一個選ぶのにも時間かかるから」
その一言に、胸がぎゅっとなった。
「あの……」
言葉を選びながら、私は画面の端を見つめた。
「この前、私、猫のスタンプ送ったとき、犬のスタンプ返してくれましたよね」
「うん」
「あれ、すごく嬉しかったです」
篠原さんの目が、少し大きくなる。
「……本当に?」
「はい。あのとき、私、業務連絡の最後に、どうしても『おつかれさまです』だけじゃ嫌で。でも、それ以上の言葉が思いつかなくて、スタンプなら、何か変わるかなって思って、送ってみたんです」
あのときの、自分の指の震えを思い出す。
送信ボタンを押したあと、心臓の音がうるさくて、画面を直視できなかった。
「でも、すぐに犬のスタンプ返ってきて。なんか、『ちゃんと届いたよ』って言ってもらえたみたいで、ほっとしました」
篠原さんは、少し照れたように視線を落とした。
「ああ……あれね」
「はい」
「実は、あれ、結構悩んだんだよね」
「えっ」
「どのスタンプが正解か分かんなくて。猫に猫返すのも芸がないかなとか、変に凝ったの送って引かれたらどうしようとか」
彼は、耳の後ろをかくような仕草をした。
「で、最終的に、昔ダウンロードした犬のやつが、いちばん無難かなって……」
「無難、でしたかね」
「うん。だいぶ古かったけど」
その言い方が、なんだか可笑しくて、私は小さく笑った。
「でも、嬉しかったです。本当に」
「……よかった」
篠原さんも、少しだけ笑う。その笑顔は、会議のときに見せるものより、少しだけ柔らかい。
「こないだのスタンプ、さ。俺も、ちょっと嬉しかったんだよ」
「え?」
「業務連絡のあとに、いきなり猫が来て。ああ、なんか、俺のこと、少しは怖くないと思ってくれてるのかなって」
胸の奥が、じん、と温かくなった。
「怖い、なんて思ったことないです」
「本当?」
「はい。ただ……話しかけるのが、難しいだけで」
「それは、俺も一緒だよ」
画面越しに、彼の視線が、少しだけ真っ直ぐこちらを向く。
「たぶん、お互い、不器用なんだと思う」
「不器用、ですか」
「うん。話すのも、打つのも。俺、対面で話すのも得意じゃないし。だから、在宅になってから、余計に距離感分かんなくなった」
それを聞いて、私は、少しだけ安心した。
自分だけがおかしいんじゃないんだ、と思えたから。
「私もです。前は、まだ、対面で会う機会があったから、なんとなく空気で分かることも多かったんですけど……」
言葉を探しながら、続ける。
「画面越しだと、相手の空気が、うまく読めなくて。だから、余計に怖くなっちゃって。『おつかれさまです』って打って、そこで終わらせるのが、いちばん安全だなって」
「安全、ね」
「でも、なんか、それだけだと、どんどん自分が薄くなっていく気がして」
自分でも驚くくらい、正直な言葉が口から出た。
篠原さんは、しばらく黙って聞いていた。
「……薄く、か」
「はい。誰ともちゃんと話してない日が続くと、自分の輪郭がぼやけていく感じがして。ちゃんとここにいるのか、不安になるっていうか」
言いながら、少し恥ずかしくなる。
こんな話、誰かにしたことはなかった。
でも、画面の向こうの彼は、真剣な表情でうなずいていた。
「分かるよ。その感じ」
「分かりますか」
「うん。俺も、家で一日中コード書いてるときとか、ふと、『今日、声出してないな』って気づくときがあってさ」
彼は、少しだけ笑う。
「そういうときって、なんか、自分がバグみたいに思えてくるんだよね。ちゃんと動いてるのか、よく分かんないプログラムみたいな」
「バグ、ですか」
「そう。で、誰かとちょっと話すと、『あ、ちゃんと動いてるわ』って確認できる、みたいな」
その例えが、妙にしっくりきて、私は笑ってしまった。
「じゃあ、さっきの資料修正で、私は篠原さんのバグチェックに役立ったってことですね」
「そうそう。かなり助かった」
彼も、少しだけ肩を震わせる。
画面越しの会話は、ぎこちない。
沈黙も、時々挟まる。
でも、その沈黙が、さっきまでほど怖くない。
お互いの「不器用さ」が、少しずつ重なっていくのを感じる。
「……あのさ」
ふいに、篠原さんが、視線を落としたまま言った。
「うちのチーム、来週、何人か出社する日あるよね」
「はい。水曜と金曜に、交代で」
「佐伯さん、水曜って、出社?」
「えっと……」
スケジュールを頭の中で思い出す。
水曜は、確か、久しぶりの出社日だった。
「はい、水曜です」
「そっか」
彼は、小さくうなずいた。
その次の言葉を探しているように、少し間が空く。
「……今度さ」
少しだけ上ずった声で、彼は続けた。
「出社の日、かぶったら、コーヒーでも行く?」
「え」
予想していなかった提案に、思わず間抜けな声が出た。
「いや、その……仕事のあと、駅前のカフェとか。別に、長くじゃなくていいから」
言いながら、彼は少し視線を泳がせている。
画面越しでも分かるくらい、落ち着かない様子。
「無理にとは言わないし、嫌だったら全然断ってくれていいんだけど。ただ、なんか……」
そこで、言葉が途切れる。
私は、心臓の音を聞きながら、画面を見つめた。
嬉しい。
でも、怖い。
対面で話すのは、久しぶりだ。
ちゃんと笑えるだろうか。変な間を作ってしまわないだろうか。
頭の中に、不安が次々と浮かんでくる。
それでも——。
さっきの、「薄くなっていく自分」の感覚を思い出す。
あの感覚から、少しでも離れたいと思った。
「……はい」
自分でも驚くくらい、小さな声だった。
でも、ちゃんとマイクは拾ってくれたらしい。
「行きたいです。コーヒー」
篠原さんの目が、少し見開かれる。
「本当に?」
「はい。緊張しますけど」
正直に付け足すと、彼はふっと笑った。
「俺も、緊張すると思う」
「篠原さんもですか」
「うん。人とカフェ行くの、久しぶりだから」
その言葉に、胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「じゃあ、水曜、また連絡するね」
「はい」
そう言って、私たちは、ようやく会議を切ることにした。
「今日はありがとう。おつかれさま」
「おつかれさまでした」
画面が暗くなって、篠原さんの姿が消える。
部屋には、また、エアコンの音だけが残った。
さっきまでの会話が、夢みたいに感じる。
椅子にもたれながら、何度も深呼吸をした。
スマホが、テーブルの上で震えたのは、その数分後だった。
画面を見ると、「篠原さん」の名前が表示されている。
『さっきは変な誘い方してごめん。無理しなくていいから』
短いメッセージ。
彼らしい、不器用なフォロー。
いつもの私なら、「いえいえ、大丈夫です!」と、当たり障りのない返事をして終わらせていただろう。
でも、画面の前で、私は少しだけ考えた。
今度こそ、「おつかれさま」だけで終わらせたくない。
入力欄に、文字を打つ。
消す。
また打つ。
『いえ、嬉しかったです。ありがとうございます』
——違う。
これだと、いつもと同じだ。
もう一度、全部消す。
指先が、少し汗ばんでいる。
『私も、先輩とちゃんと話してみたいです。対面で話すの、久しぶりで緊張しますけど』
送信ボタンの上で、指が止まる。
心臓の音が、耳の奥でうるさい。
それでも、えい、と押した。
送信済みの文字列が、画面に並ぶ。
取り消しはできない。
数秒が、やけに長く感じられる。
既読がつくまでの時間が、永遠みたいに伸びる。
ポン、と小さな音がして、メッセージの下に「既読」が表示された。
すぐに、返信が届く。
『俺も。緊張してるの、多分同じくらい』
その一文を読んだ瞬間、肩の力が抜けた。
スマホを胸に抱きしめるみたいにして、天井を見上げる。
——水曜に、駅前のカフェ。
想像するだけで、胃のあたりがきゅっとなる。
でも、そのきゅっとした感覚は、嫌なものだけじゃなかった。
* * *
翌週の水曜。
久しぶりに袖を通したオフィスカジュアルのブラウスが、少しだけよそ行きの自分を演出してくれる。
仕事を終えて、会社を出ると、夕方の駅前は、人でほどよく賑わっていた。
マスク越しのざわめきと、コーヒーの香りが混ざり合う。
待ち合わせのカフェの前で、スマホを握りしめる。
画面には、「今、着きました」という自分のメッセージと、『もうすぐ着く』という篠原さんの返信。
数分後、「ごめん、待った?」という声がして、顔を上げた。
「いえ、今来たところです」
ベタなセリフが、自然に口から出た。
篠原さんは、少し息を切らしながら、マスクの下で笑っているように見えた。
店内に入り、向かい合う席に座る。
目の前に人がいる、というだけで、妙に落ち着かない。
「何にする?」
「えっと……」
メニューを見つめていると、篠原さんが、少しだけ迷いながら言った。
「前、定例のときにさ。佐伯さん、チーズケーキ好きって言ってなかった?」
「え?」
「誰かが、スイーツの話してるとき。『チーズケーキがいちばん落ち着きます』って」
そんなことまで、覚えていたなんて。
「あ、言ったかもしれないです」
「ここの、ベイクドチーズ、結構おいしいよ」
さりげなくおすすめされて、胸の奥がじんわり温かくなる。
「じゃあ、それにします」
「じゃあ、俺はコーヒーと……それ、一口もらってもいい?」
「もちろんです」
注文を終えて、テーブルに静かな時間が降りる。
でも、その沈黙は、あの夜のオンライン会議のときほど、怖くはなかった。
「なんか、不思議ですね」
「何が?」
「画面越しじゃなくて、こうやって向かい合ってるの」
「そうだね。ちゃんと三次元だ」
「三次元」
「いつも二次元だったから」
そんな言い方が可笑しくて、私は笑った。
コーヒーが運ばれてきて、カップから立ちのぼる湯気を眺める。
篠原さんは、砂糖を入れずにブラックのまま飲んでいた。
「苦くないですか?」
「ちょっと苦いけど、慣れると落ち着くよ」
「そうなんですね」
「佐伯さんは?」
「私は……まだ砂糖入れちゃいます」
「それも、全然あり」
そんな他愛もない会話が、少しずつ重なっていく。
仕事の話、在宅の話、最近見たドラマの話。
「会議のとき、いつもミュートのまま笑ってるでしょ」
ふいに、篠原さんが言った。
「えっ、分かります?」
「分かるよ。画面で見えてるから」
「あ……そうですよね」
「ちゃんと笑ってるなって、いつも思ってた」
私は、カップの縁を指でなぞりながら、少し俯いた。
「でも、声は出せなくて」
「出せないときもあるよね」
「はい。あの空気の中に入っていくの、すごく勇気がいるので」
「俺も、ほぼ聞いてるだけだし」
「でも……」
言いかけて、少しだけ勇気を振り絞る。
「また、こうやってお話ししても、いいですか」
言葉が、テーブルの上にぽとりと落ちる。
篠原さんは、一瞬驚いたように目を見開いて、それから、ゆっくりとうなずいた。
「もちろん。俺も、また話したい」
その「また」が、胸の奥で何度も反響する。
チーズケーキを一口渡すと、「うまい」と少し目を細める。
その表情を見ていると、さっきまでの緊張が、少しずつ溶けていくのが分かった。
別れ際、駅の改札の前で、「じゃあ、また」と手を振る。
その言葉が、今日は、ちゃんと未来につながっている気がした。
帰りの電車の中。
揺れる車内で、私はスマホを取り出す。
篠原さんとのトークルームを開くと、今日の待ち合わせのやりとりが、まだ上のほうに残っていた。
入力欄に、ゆっくりと文字を打つ。
『今日はありがとうございました。チーズケーキ、美味しかったです。またお話ししたいです』
送信ボタンを押す前に、一瞬迷う。
でも、あの夜、押したときほどは、怖くなかった。
ポン、と送信音が鳴る。
数秒後、『既読』がついて、すぐに返信が来た。
『こちらこそ。チーズケーキも、話も、どっちもおいしかった。また誘わせてください』
画面の光が、電車の窓に反射して、ぼんやりと揺れる。
その光を見つめながら、私は、久しぶりに、安心した気持ちで目を閉じた。
きっと私は、これからも不器用なままだ。
「おつかれさまです」だけで終わらせてしまう日も、たくさんあると思う。
それでも——。
あの小さな入力欄の向こうに、ちゃんと誰かがいることを知ってしまったから。
私は、少しずつでいいから、「おつかれさま」だけじゃない言葉を、自分から増やしていこうと思う。
たとえ、うまく言えなくても。
たとえ、送信ボタンを押す前に、何度も打ち直してしまっても。
それでもいいと思えた夜を、私はもう、知っている。
それでも、画面の向こうの誰かと繋がりたいと思った夜のことを、私はきっと忘れない——。
金曜の午後三時。
パソコンの画面の中だけが、職場と世界をつないでいる。
「じゃあ、今日もゆるっと始めましょうか~」
チームリーダーの明るい声とともに、オンライン会議が始まる。
モニターには、六つの小さな四角が並んでいた。自宅の書斎、リビング、会社の会議室。人の気配だけが、バラバラに映っている。
私は、その一つの枠の中で、マイクをミュートにしたまま笑っていた。
「この前さ、カメラオフのまま寝落ちしてた人いたよね~」「あ、それ俺です」
誰かの冗談に、他の人たちの笑い声が重なる。
私も、少し遅れて口角を上げる。声は出さない。出せない。
自分の笑顔が、小さな四角の中で引きつっているのが分かる。
でも、ミュートを外すタイミングが分からない。
何か言おうとして、「……」で止まってしまうのが怖い。
「じゃあ、進捗の共有お願いします。佐伯さんからいきます?」
名前を呼ばれて、私は慌ててマイクのアイコンをクリックした。
「はい、えっと……佐伯です。今週は、仕様書の修正が一通り終わりまして……」
仕事の報告なら、まだ話せる。
決められた手順をなぞるみたいに、用意していた内容を読み上げていく。
誰かが相槌を打ってくれると、ちゃんと聞いてもらえている気がして、少しだけほっとする。
でも、報告が終わったあとの、あの「雑談コーナー」が近づいてくると、心臓が少しずつ早くなる。
「じゃ、全体はそんな感じで。あと五分くらいあるので、最近ハマってるものとかあります?」
リーダーの軽い提案に、すぐさま数人が反応する。
「またそれですか~」「いいじゃん、金曜だし」
誰かが新しく始めたゲームの話をして、別の誰かがそれに乗っかる。
家で焼いたパンの写真を画面共有して、「カフェ開けるじゃん」と盛り上がっている。
私は、カメラの中でただ笑っている。
マイクのアイコンは、赤い斜線が入ったままだ。
話に入りたいわけじゃない。
でも、「何も言わない人」だと思われるのも怖い。
どのタイミングで「美味しそうですね」と言えば、自然なんだろう。
どれくらいのテンションで笑えば、浮かないんだろう。
考えているうちに、話題は次々と変わっていく。
何も言えないまま、五分が終わる。
「じゃあ、今日はこの辺で。おつかれさまでした~」
散り散りに「おつかれさまです」が飛び交い、会議は終了した。
画面が黒くなって、私の顔も消える。
静かなワンルームに、エアコンの低い音だけが残った。
モニターの隅に小さく残っているチャットウィンドウには、さっきまでの会話がそのまま流れている。
『今日も定例ありがとうございました!』
『おつかれさまでした~』
『おつかれさまです』
私も、キーボードに指を置き、いつもの文言を打ち込む。
『おつかれさまです』
送信。
それ以上、何も続けられない。
本当は、「パン、美味しそうでしたね」とか、「ゲーム、私も気になってました」とか、ひと言くらい添えられたらいいのに。
でも、そのひと言のせいで、変に思われたらどうしよう。
既読がついて、誰からも反応がなかったら、どうしよう。
そう考えた瞬間、Enterキーを押す勇気が、どこかへ消えてしまう。
チャット画面を閉じて、深く息を吐いた。
画面の左側には、個人チャットの一覧が並んでいる。
その中の一つの名前で、私の指は止まった。
——「篠原さん」。
同じチームの先輩。三つ年上のシステムエンジニア。
会議でもチャットでも、いつも必要最低限のことしか話さない人。
でも、一度だけ。
私が、業務連絡の最後に、勇気を振り絞って送った、ゆるい猫のスタンプに——。
『……』
数分後、無言のまま返ってきた、ちょっと古い感じの犬のスタンプ。
それが、妙に可愛くて、胸の奥がじんわりした。
たったそれだけのことを、私はまだ覚えている。
あのとき、「ありがとうございます」って返事すればよかった。
でも、何をどう返したらいいか分からなくて、結局そのまま会話を終わらせてしまった。
篠原さんとのチャット欄を開く。
そこには、日付と時間がきっちり並んだ、業務連絡だけのやりとりが続いている。
『資料ありがとうございます』
『こちらこそ助かりました』
その合間に、ぽつんと挟まれた、犬と猫のスタンプ。
それだけが、少しだけ温度のある記号みたいに見える。
画面の下の入力欄に、指を置く。
『今日は、おつかれさまでした』
打って、消す。
『さっきの会議、パン美味しそうでしたね』
打って、全部選択して、Backspace。
何度か繰り返して、結局何も送れないまま、ウィンドウを閉じた。
「今日も何も送れなかった」
小さくつぶやいて、椅子にもたれかかる。
天井の白さが、やけに遠く感じた。
ここ一年、ほとんど在宅勤務になってから、誰かと真正面から話すことが、どんどん怖くなっている。
画面越しなら、まだごまかせる。
笑顔だけ貼りつけていれば、「感じのいい人」でいられる。
でも、本当は——。
ひとりでいる時間が長くなるほど、自分が薄くなっていくようで、時々、息が苦しくなる。
そんなことを考えていたら、画面の右下に、小さな通知がポン、と現れた。
『【至急】資料修正のお願い』
チームリーダーからのメッセージだ。
内容を開くと、クライアントからの急な仕様変更で、今日中にある資料を修正する必要が出てきたらしい。
『佐伯さん、対応お願いできますか? 篠原さんも今オフィスにいるので、二人で確認しながら進めてもらえると助かります』
すぐに「承知しました」と返事を打つ。
ほどなくして、別の通知が届いた。
『篠原さんがミーティング招待送ってくれました』
心臓が、ひゅっと縮む。
——二人で、オンライン会議。
予想していなかった文字列に、喉が一瞬、からからになる。
画面の隅に、見慣れた会議システムのポップアップが出ていた。
『篠原』さんからの招待:
『今から30分だけ繋いでいい?』
チャットの短い一文と、会議URL。
「はい」と打ち込む指が、少し震える。
クリックして、会議室に入る。
カメラをオンにすると、画面の向こうに、薄暗いオフィスの一角が映った。
広いフロアに、人の姿はほとんどない。
天井の蛍光灯と、窓の外の夕焼けが混ざり合って、少しオレンジがかった光が差し込んでいる。
「……あ、どうも」
画面の中央に、篠原さんの顔が現れた。
いつも通り、黒縁のメガネに、落ち着いたグレーのシャツ。
でも、どこか目の下に、薄いクマが見える気がする。
「おつかれさまです。佐伯です」
自分の声が、思ったよりも高く響いて、恥ずかしくなる。
篠原さんは、少しだけ口元を緩めて「おつかれ」と返してくれた。
「リーダーから聞きました、資料の件」
「うん。ごめんね、急で。こっちの画面共有しながら、一緒に見てもらってもいい?」
「はい、大丈夫です」
業務の話をしている間は、まだ平気だった。
画面に映る資料に集中して、修正箇所を確認していく。
「ここ、こっちの表現のほうが分かりやすいと思うんだけど、どうかな」
「そうですね……この文だと、ちょっと専門用語が多いかもしれないので……」
篠原さんは、相変わらず口数は少ないけれど、質問には丁寧に答えてくれる。
私が迷っていると、「じゃあ、こういう言い方は?」と別案を出してくれる。
画面越しでも、そのさりげないフォローの仕方は、やっぱり優しい。
集中しているうちに、時間の感覚が少し薄れていく。
気づけば、外はすっかり夕暮れで、オレンジ色が、紺色に飲み込まれ始めていた。
「……よし。これで、ひと通りは直せたかな」
最後のページまで確認して、篠原さんが、ふう、と小さく息を吐いた。
「ありがとうございます。助かりました」
「いや、こっちこそ。佐伯さんがいてくれて、だいぶ楽になった」
画面の中で、篠原さんが、少しだけ肩を回す。
その動きが、なんだか人間らしくて、少し笑いそうになった。
——と、そこで、会話が途切れる。
資料の話が終わってしまって、急に、何を話せばいいか分からなくなる。
マイクのアイコンはオンのまま。
沈黙だけが、回線を通って行き来している。
「あ、えっと……」
何か話さなきゃ、と焦って口を開く。
でも、出てくるのは、「今日、暑いですね」とか、「最近、雨多いですね」とか、どこにでもある言葉ばかりで、どれも途中で喉につかえる。
沈黙が、じわじわと伸びていく。
画面の中の自分の顔が、みるみる固まっていくのが分かる。
このまま「じゃあ、おつかれさまでした」で終わらせれば、きっと楽だ。
いつものように、何もなかった顔をして、通り過ぎればいい。
でも、今日は、なぜかその一言が、喉の奥に引っかかった。
気まずさを紛らわせるみたいに、私は、ぽつりとこぼしていた。
「……在宅だと、人と話すタイミングが分からなくて、難しいですね」
言ってから、「しまった」と思う。
業務と関係ない、妙に個人的な愚痴みたいな言葉。
画面の向こうの篠原さんが、少しだけ目を瞬かせた。
「うん」
短く相槌を打って、一拍置いてから、彼は口を開いた。
「分かる。……俺も、あんまり得意じゃないよ。雑談とか」
意外な言葉だった。
「え?」
「会議の前の、ああいう感じのやつ。みんな普通に話してるけど、あれに入るの、結構難しくてさ」
篠原さんは、少し視線を外しながら、続ける。
「タイミング分かんないし、何話したらいいか分かんないし。チャットも、変なこと言ったらどうしようって考えすぎて、結局、必要なことしか打てなくなる」
それは、私が頭の中でぐるぐる考えていたことと、ほとんど同じだった。
「……篠原さんでも、そうなんですか」
「俺でも、っていうほど立派な人間じゃないけど」
苦笑いを浮かべながら、彼は少し肩をすくめる。
「なんか、文章って、どこで終わらせたらいいか分かんなくない? 『おつかれさまです』って送って、そのあと何か続けたほうがいいのか、そのまま閉じたほうがいいのか、とか」
思わず、笑いそうになった。
「分かります……」
「で、考えてるうちに時間が経って、今さら送るのも変かなってなって、結局送らない、みたいな」
「分かりすぎて、ちょっとつらいです」
自分でも驚くくらい、すんなりと言葉が出た。
篠原さんも、少しだけ笑う。
「佐伯さんは、そういうの、平気そうに見えてたけど」
「全然、平気じゃないです。むしろ、めちゃくちゃ苦手で……」
言いながら、胸の奥が、少しずつ軽くなっていくのを感じる。
「『おつかれさまです』以外のことを書くと、なんか、急に距離を詰めにいってるみたいで、変かなって思っちゃって。既読ついて、何も返ってこなかったらどうしようとか」
「……ああ、それ、ある」
篠原さんは、ゆっくりとうなずいた。
「既読って、便利だけど、怖いよね。『読んだよ』っていうのが見えるから」
「そうなんですよね。何も返ってこないと、『あ、やっぱりいらないこと言ったんだな』って思ってしまって」
「でも、返すのに時間かかるときもあるしね。考えちゃって」
「考えちゃうんですね」
「うん。俺、スタンプ一個選ぶのにも時間かかるから」
その一言に、胸がぎゅっとなった。
「あの……」
言葉を選びながら、私は画面の端を見つめた。
「この前、私、猫のスタンプ送ったとき、犬のスタンプ返してくれましたよね」
「うん」
「あれ、すごく嬉しかったです」
篠原さんの目が、少し大きくなる。
「……本当に?」
「はい。あのとき、私、業務連絡の最後に、どうしても『おつかれさまです』だけじゃ嫌で。でも、それ以上の言葉が思いつかなくて、スタンプなら、何か変わるかなって思って、送ってみたんです」
あのときの、自分の指の震えを思い出す。
送信ボタンを押したあと、心臓の音がうるさくて、画面を直視できなかった。
「でも、すぐに犬のスタンプ返ってきて。なんか、『ちゃんと届いたよ』って言ってもらえたみたいで、ほっとしました」
篠原さんは、少し照れたように視線を落とした。
「ああ……あれね」
「はい」
「実は、あれ、結構悩んだんだよね」
「えっ」
「どのスタンプが正解か分かんなくて。猫に猫返すのも芸がないかなとか、変に凝ったの送って引かれたらどうしようとか」
彼は、耳の後ろをかくような仕草をした。
「で、最終的に、昔ダウンロードした犬のやつが、いちばん無難かなって……」
「無難、でしたかね」
「うん。だいぶ古かったけど」
その言い方が、なんだか可笑しくて、私は小さく笑った。
「でも、嬉しかったです。本当に」
「……よかった」
篠原さんも、少しだけ笑う。その笑顔は、会議のときに見せるものより、少しだけ柔らかい。
「こないだのスタンプ、さ。俺も、ちょっと嬉しかったんだよ」
「え?」
「業務連絡のあとに、いきなり猫が来て。ああ、なんか、俺のこと、少しは怖くないと思ってくれてるのかなって」
胸の奥が、じん、と温かくなった。
「怖い、なんて思ったことないです」
「本当?」
「はい。ただ……話しかけるのが、難しいだけで」
「それは、俺も一緒だよ」
画面越しに、彼の視線が、少しだけ真っ直ぐこちらを向く。
「たぶん、お互い、不器用なんだと思う」
「不器用、ですか」
「うん。話すのも、打つのも。俺、対面で話すのも得意じゃないし。だから、在宅になってから、余計に距離感分かんなくなった」
それを聞いて、私は、少しだけ安心した。
自分だけがおかしいんじゃないんだ、と思えたから。
「私もです。前は、まだ、対面で会う機会があったから、なんとなく空気で分かることも多かったんですけど……」
言葉を探しながら、続ける。
「画面越しだと、相手の空気が、うまく読めなくて。だから、余計に怖くなっちゃって。『おつかれさまです』って打って、そこで終わらせるのが、いちばん安全だなって」
「安全、ね」
「でも、なんか、それだけだと、どんどん自分が薄くなっていく気がして」
自分でも驚くくらい、正直な言葉が口から出た。
篠原さんは、しばらく黙って聞いていた。
「……薄く、か」
「はい。誰ともちゃんと話してない日が続くと、自分の輪郭がぼやけていく感じがして。ちゃんとここにいるのか、不安になるっていうか」
言いながら、少し恥ずかしくなる。
こんな話、誰かにしたことはなかった。
でも、画面の向こうの彼は、真剣な表情でうなずいていた。
「分かるよ。その感じ」
「分かりますか」
「うん。俺も、家で一日中コード書いてるときとか、ふと、『今日、声出してないな』って気づくときがあってさ」
彼は、少しだけ笑う。
「そういうときって、なんか、自分がバグみたいに思えてくるんだよね。ちゃんと動いてるのか、よく分かんないプログラムみたいな」
「バグ、ですか」
「そう。で、誰かとちょっと話すと、『あ、ちゃんと動いてるわ』って確認できる、みたいな」
その例えが、妙にしっくりきて、私は笑ってしまった。
「じゃあ、さっきの資料修正で、私は篠原さんのバグチェックに役立ったってことですね」
「そうそう。かなり助かった」
彼も、少しだけ肩を震わせる。
画面越しの会話は、ぎこちない。
沈黙も、時々挟まる。
でも、その沈黙が、さっきまでほど怖くない。
お互いの「不器用さ」が、少しずつ重なっていくのを感じる。
「……あのさ」
ふいに、篠原さんが、視線を落としたまま言った。
「うちのチーム、来週、何人か出社する日あるよね」
「はい。水曜と金曜に、交代で」
「佐伯さん、水曜って、出社?」
「えっと……」
スケジュールを頭の中で思い出す。
水曜は、確か、久しぶりの出社日だった。
「はい、水曜です」
「そっか」
彼は、小さくうなずいた。
その次の言葉を探しているように、少し間が空く。
「……今度さ」
少しだけ上ずった声で、彼は続けた。
「出社の日、かぶったら、コーヒーでも行く?」
「え」
予想していなかった提案に、思わず間抜けな声が出た。
「いや、その……仕事のあと、駅前のカフェとか。別に、長くじゃなくていいから」
言いながら、彼は少し視線を泳がせている。
画面越しでも分かるくらい、落ち着かない様子。
「無理にとは言わないし、嫌だったら全然断ってくれていいんだけど。ただ、なんか……」
そこで、言葉が途切れる。
私は、心臓の音を聞きながら、画面を見つめた。
嬉しい。
でも、怖い。
対面で話すのは、久しぶりだ。
ちゃんと笑えるだろうか。変な間を作ってしまわないだろうか。
頭の中に、不安が次々と浮かんでくる。
それでも——。
さっきの、「薄くなっていく自分」の感覚を思い出す。
あの感覚から、少しでも離れたいと思った。
「……はい」
自分でも驚くくらい、小さな声だった。
でも、ちゃんとマイクは拾ってくれたらしい。
「行きたいです。コーヒー」
篠原さんの目が、少し見開かれる。
「本当に?」
「はい。緊張しますけど」
正直に付け足すと、彼はふっと笑った。
「俺も、緊張すると思う」
「篠原さんもですか」
「うん。人とカフェ行くの、久しぶりだから」
その言葉に、胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「じゃあ、水曜、また連絡するね」
「はい」
そう言って、私たちは、ようやく会議を切ることにした。
「今日はありがとう。おつかれさま」
「おつかれさまでした」
画面が暗くなって、篠原さんの姿が消える。
部屋には、また、エアコンの音だけが残った。
さっきまでの会話が、夢みたいに感じる。
椅子にもたれながら、何度も深呼吸をした。
スマホが、テーブルの上で震えたのは、その数分後だった。
画面を見ると、「篠原さん」の名前が表示されている。
『さっきは変な誘い方してごめん。無理しなくていいから』
短いメッセージ。
彼らしい、不器用なフォロー。
いつもの私なら、「いえいえ、大丈夫です!」と、当たり障りのない返事をして終わらせていただろう。
でも、画面の前で、私は少しだけ考えた。
今度こそ、「おつかれさま」だけで終わらせたくない。
入力欄に、文字を打つ。
消す。
また打つ。
『いえ、嬉しかったです。ありがとうございます』
——違う。
これだと、いつもと同じだ。
もう一度、全部消す。
指先が、少し汗ばんでいる。
『私も、先輩とちゃんと話してみたいです。対面で話すの、久しぶりで緊張しますけど』
送信ボタンの上で、指が止まる。
心臓の音が、耳の奥でうるさい。
それでも、えい、と押した。
送信済みの文字列が、画面に並ぶ。
取り消しはできない。
数秒が、やけに長く感じられる。
既読がつくまでの時間が、永遠みたいに伸びる。
ポン、と小さな音がして、メッセージの下に「既読」が表示された。
すぐに、返信が届く。
『俺も。緊張してるの、多分同じくらい』
その一文を読んだ瞬間、肩の力が抜けた。
スマホを胸に抱きしめるみたいにして、天井を見上げる。
——水曜に、駅前のカフェ。
想像するだけで、胃のあたりがきゅっとなる。
でも、そのきゅっとした感覚は、嫌なものだけじゃなかった。
* * *
翌週の水曜。
久しぶりに袖を通したオフィスカジュアルのブラウスが、少しだけよそ行きの自分を演出してくれる。
仕事を終えて、会社を出ると、夕方の駅前は、人でほどよく賑わっていた。
マスク越しのざわめきと、コーヒーの香りが混ざり合う。
待ち合わせのカフェの前で、スマホを握りしめる。
画面には、「今、着きました」という自分のメッセージと、『もうすぐ着く』という篠原さんの返信。
数分後、「ごめん、待った?」という声がして、顔を上げた。
「いえ、今来たところです」
ベタなセリフが、自然に口から出た。
篠原さんは、少し息を切らしながら、マスクの下で笑っているように見えた。
店内に入り、向かい合う席に座る。
目の前に人がいる、というだけで、妙に落ち着かない。
「何にする?」
「えっと……」
メニューを見つめていると、篠原さんが、少しだけ迷いながら言った。
「前、定例のときにさ。佐伯さん、チーズケーキ好きって言ってなかった?」
「え?」
「誰かが、スイーツの話してるとき。『チーズケーキがいちばん落ち着きます』って」
そんなことまで、覚えていたなんて。
「あ、言ったかもしれないです」
「ここの、ベイクドチーズ、結構おいしいよ」
さりげなくおすすめされて、胸の奥がじんわり温かくなる。
「じゃあ、それにします」
「じゃあ、俺はコーヒーと……それ、一口もらってもいい?」
「もちろんです」
注文を終えて、テーブルに静かな時間が降りる。
でも、その沈黙は、あの夜のオンライン会議のときほど、怖くはなかった。
「なんか、不思議ですね」
「何が?」
「画面越しじゃなくて、こうやって向かい合ってるの」
「そうだね。ちゃんと三次元だ」
「三次元」
「いつも二次元だったから」
そんな言い方が可笑しくて、私は笑った。
コーヒーが運ばれてきて、カップから立ちのぼる湯気を眺める。
篠原さんは、砂糖を入れずにブラックのまま飲んでいた。
「苦くないですか?」
「ちょっと苦いけど、慣れると落ち着くよ」
「そうなんですね」
「佐伯さんは?」
「私は……まだ砂糖入れちゃいます」
「それも、全然あり」
そんな他愛もない会話が、少しずつ重なっていく。
仕事の話、在宅の話、最近見たドラマの話。
「会議のとき、いつもミュートのまま笑ってるでしょ」
ふいに、篠原さんが言った。
「えっ、分かります?」
「分かるよ。画面で見えてるから」
「あ……そうですよね」
「ちゃんと笑ってるなって、いつも思ってた」
私は、カップの縁を指でなぞりながら、少し俯いた。
「でも、声は出せなくて」
「出せないときもあるよね」
「はい。あの空気の中に入っていくの、すごく勇気がいるので」
「俺も、ほぼ聞いてるだけだし」
「でも……」
言いかけて、少しだけ勇気を振り絞る。
「また、こうやってお話ししても、いいですか」
言葉が、テーブルの上にぽとりと落ちる。
篠原さんは、一瞬驚いたように目を見開いて、それから、ゆっくりとうなずいた。
「もちろん。俺も、また話したい」
その「また」が、胸の奥で何度も反響する。
チーズケーキを一口渡すと、「うまい」と少し目を細める。
その表情を見ていると、さっきまでの緊張が、少しずつ溶けていくのが分かった。
別れ際、駅の改札の前で、「じゃあ、また」と手を振る。
その言葉が、今日は、ちゃんと未来につながっている気がした。
帰りの電車の中。
揺れる車内で、私はスマホを取り出す。
篠原さんとのトークルームを開くと、今日の待ち合わせのやりとりが、まだ上のほうに残っていた。
入力欄に、ゆっくりと文字を打つ。
『今日はありがとうございました。チーズケーキ、美味しかったです。またお話ししたいです』
送信ボタンを押す前に、一瞬迷う。
でも、あの夜、押したときほどは、怖くなかった。
ポン、と送信音が鳴る。
数秒後、『既読』がついて、すぐに返信が来た。
『こちらこそ。チーズケーキも、話も、どっちもおいしかった。また誘わせてください』
画面の光が、電車の窓に反射して、ぼんやりと揺れる。
その光を見つめながら、私は、久しぶりに、安心した気持ちで目を閉じた。
きっと私は、これからも不器用なままだ。
「おつかれさまです」だけで終わらせてしまう日も、たくさんあると思う。
それでも——。
あの小さな入力欄の向こうに、ちゃんと誰かがいることを知ってしまったから。
私は、少しずつでいいから、「おつかれさま」だけじゃない言葉を、自分から増やしていこうと思う。
たとえ、うまく言えなくても。
たとえ、送信ボタンを押す前に、何度も打ち直してしまっても。
それでもいいと思えた夜を、私はもう、知っている。
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