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恋じゃないって決めつけてた人
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「彼氏はいらないんじゃなくて、いないことに慣れちゃっただけでしょ?」
同期の美咲にそう言われた瞬間、胸のどこかを指でつつかれたみたいに、ちくりとした。
金曜の夜、会社近くの居酒屋は、期末前だというのにやけに賑やかだった。
私はウーロン茶の氷をストローでつつきながら、テーブルの端っこで笑い声を聞いていた。
「結衣、聞いてる? マッチングアプリ、やってみなって」
「うーん……仕事落ち着いたらね」
そう言うと、美咲は「またそれ」とあきれた顔をする。
二十代後半、都内の中小広告代理店で働いて三年。
残業は多いし、華やかさとは無縁の裏方仕事ばかりだけど、嫌いじゃない。
ただ、気づけばここ一年、休日はたいていひとりで過ごしていた。
ドラマを流し見しながらネットスーパーで注文して、たまに近所のカフェで本を読む。
誰かと会わなくても、別に困らない。
困らないけれど、ときどき、ふとした瞬間に、部屋の静けさが耳に刺さる。
「結衣ってさ、ひとりで完結しちゃうからさ。そこそこ可愛いのに、もったいないよね」
「そこそこってつけるな」
笑って返したけれど、「完結しちゃう」という言葉が、頭の中に残った。
二次会を断ってオフィスに戻ると、フロアにはほとんど人がいなかった。
忘れ物のイヤホンを取りに来ただけなのに、つい自分のデスク周りを片付けてしまう。
「……あれ?」
ふと、会議室のドアの隙間から、明かりが漏れているのに気づいた。
こんな時間に、まだ誰かいるのだろうか。
そっと覗き込むと、プロジェクターの白い光の中で、ひとりパソコンに向かっている後ろ姿が見えた。
「あ、すみません。電気消しちゃっていいですか?」
思わず声をかけると、その人は振り返った。
「……あ、結衣さん?」
黒縁メガネの奥で目を丸くしたのは、三ヶ月前にうちの部署に異動してきた、佐伯さんだった。
三十歳、落ち着いた物腰で、社内では「できる人」と評判の先輩。
でも私は、ちゃんと話したことがほとんどない。
「まだ残ってたんですね」
「資料、月曜までって言われてたやつ、ちょっと詰まってて。結衣さんは?」
「イヤホン取りに来ただけです。……あ、あった」
自分のデスクからイヤホンを拾い上げ、会議室の前に戻る。
ドアのところで一瞬迷ってから、私は言った。
「コーヒー、いります?」
「え?」
「コンビニ寄るんで。ついでに、ですけど」
自分でも驚くくらい、自然に言葉が出ていた。
佐伯さんは一拍置いて、ふっと笑った。
「じゃあ、甘くないやつでお願いします」
会社の一階にあるコンビニは、夜になると蛍光灯の白さがやけにまぶしい。
ホットコーヒーを二つ買って戻ると、会議室の中はさっきより紙の山が増えていた。
「お待たせしました」
「ありがとうございます。助かります」
カップを受け取った佐伯さんは、ふう、と小さく息をついた。
「……なんか、詰まってるって言ってましたよね?」
口をついて出た言葉に、自分で少し驚く。
普段なら、「お疲れさまです」で終わらせていたはずだ。
「はい。数字の出し方が、ちょっと。前の担当の人の式が複雑で」
「あー、それ、たぶん私が組んだやつです」
「え、そうなんですか」
「すみません、性格悪い式で」
思わず笑うと、佐伯さんも声を立てて笑った。
それだけで、会議室の空気が少し柔らかくなる。
「見ます?」
「え、いいんですか」
「まだ帰るのもったいない時間だし」
自分でも「なにそれ」と思うような理由をつけて、私は会議室に入った。
パソコンの画面には、見慣れたエクセルのシート。
確かに、三ヶ月前の自分が組んだ式は、今見てもややこしい。
「ここですね。……この条件、いらないかも」
「あ、本当だ。すっきりした」
「私、昔からテストのときも、解き方が意地悪って言われてました」
「想像つきます」
「ひどい」
そんな他愛もないやりとりをしながら、二人で画面を覗き込む。
距離が近づくと、柔軟剤のほのかな香りがした。
「結衣さんって、こういう作業好きですよね」
「バレてました?」
「いつも楽しそうにやってるから」
「え、楽しそうに見えてるんですか。……よかった」
つぶやいた瞬間、自分の中の何かが、ふっとほぐれた気がした。
「よかった?」
「なんか、私、わりと黙々とやるタイプだから。
楽しそうじゃないと思われてるかなって」
「黙々とやってるのが、楽しそうに見えるんだと思いますよ」
そう言って、佐伯さんはコーヒーをひと口飲んだ。
「俺、そういうの、いいなって思いますけどね」
「……そうですか?」
「はい。ちゃんと、自分のペースがある感じがして」
自分のペース。
その言葉が、胸のどこかに静かに落ちる。
私はいつの間にか、「ひとりで完結する人」として振る舞うことに慣れていた。
頼らない、期待しない、求めない。
そうしていれば、傷つかなくて済むから。
でも、それは「自分のペース」とは、少し違うのかもしれない。
「佐伯さんは、どうなんですか。自分のペース、守れてます?」
聞いてから、「変なこと聞いた」と少し後悔した。
けれど佐伯さんは、少し考えてから、穏やかな声で答えた。
「うーん……半々、ですかね」
「半々?」
「会社にいるときは、どうしても崩れますよね。
でも、家帰ったあとは、わりときっちり守ってます」
「へえ。どんな感じで?」
「絶対に、仕事持ち帰らない。あと、夜十一時以降はパソコン開かない」
「それ、すごい。私、つい開いちゃいます」
「ですよね。だから、ここにいるんですもんね」
からかうような口調なのに、責めるニュアンスはない。
私は肩をすくめて笑った。
「でも、今日こうして残ってたおかげで、コーヒーもらえましたし」
「……それ、プラスなんですか?」
「もちろん」
言い切ると、佐伯さんは少しだけ、照れくさそうに視線をそらした。
資料の修正が一段落したころには、時計の針は十時を回っていた。
「助かりました。本当に」
「いえ。私の式のせいでもあるので」
「でも、こうやって一緒にやると、なんか楽しいですね」
ぽろっとこぼれた言葉に、心臓が一瞬、強く跳ねた。
「えっと……私も、楽しかったです」
素直にそう言うと、佐伯さんは目を細めた。
「よかった。結衣さんって、いつも淡々としてるから」
「え、そう見えます?」
「はい。なんか、全部ひとりでできちゃいそうな感じ」
その言葉は、さっき美咲に言われた「ひとりで完結しちゃう」に、不思議なくらい重なった。
「……あんまり、いい意味じゃないですよね、それ」
思わず本音が漏れる。
佐伯さんは少し驚いたように私を見て、それから、ゆっくり首を横に振った。
「いや、いい意味ですよ」
「いい意味?」
「ひとりで完結できるって、強いじゃないですか。
でも、強い人って、頼られちゃうことはあっても、自分から頼るの苦手そうだなって」
図星だった。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
「……苦手ですね。たぶん」
「そういう人が、たまに頼ってくれたら、ちょっと嬉しいですけどね」
「誰が?」
「俺が」
まっすぐな視線に、思わず目をそらした。
耳のあたりが熱い。
会議室のガラス越しに見えるオフィスは、ほとんど真っ暗だ。
蛍光灯の白さだけが、やけにくっきりと私たちを浮かび上がらせている。
帰り支度をしながら、私は鞄の中のスマホをちらりと見た。
ロック画面には、美咲からのメッセージが並んでいる。
《二次会来なかった罰として、明日ランチ付き合って》
《恋バナ聞かせろ》
恋バナ。
そんなもの、ずっとしていない。
エレベーターを待つ間、私は意を決して口を開いた。
「あの、佐伯さん」
「はい?」
「さっきの、その……たまに頼ってくれたら嬉しいって、言ってましたよね」
「言いましたね」
「じゃあ……明日、ちょっと頼ってもいいですか」
自分でも驚くくらい、声が震えていた。
佐伯さんは、少しだけ目を見開いて、それからゆっくり笑った。
「もちろん。何を?」
「資料の、ここまでの流れ……見てもらいたくて。
私、いつもギリギリまでひとりで抱えちゃうから。
そうじゃないやり方、ちょっと試してみたいです」
言いながら、これは仕事の話だけじゃないと、自分でもわかっていた。
「ひとりで完結する」やり方を、少しだけ変えてみたい。
そんな気持ちが、確かにそこにあった。
「いいですね、それ」
佐伯さんは、エレベーターのドアが開く音にかき消されそうな声で言った。
「じゃあ、明日。午前中のどこかで時間空けます」
「ありがとうございます」
エレベーターに乗り込むとき、ガラスに映る自分の顔が、少しだけ明るく見えた。
家に帰り着くと、いつものように静かな部屋が迎えてくれた。
靴を脱ぎながら、私はスマホを取り出す。
美咲からのメッセージに、指を滑らせる。
《二次会来なかった罰として、明日ランチ付き合って》
《恋バナ聞かせろ》
いつもなら、「ネタないよ」と返して終わりだっただろう。
でも今日は、少しだけ違う言葉が浮かんだ。
《いいよ。ちょっとだけ、話すことあるかも》
送信ボタンを押すのが、妙に恥ずかしい。
けれど、送ったあと、胸の奥がすうっと軽くなるのを感じた。
すぐに既読がついて、スタンプと一緒にメッセージが返ってくる。
《え、なにそれ! 詳しく!》
《明日、根掘り葉掘り聞くから覚悟しといて》
ソファに倒れ込みながら、私はふっと笑った。
天井を見上げると、薄い影がゆらゆらと揺れている。
ひとりでいることは、やっぱり嫌いじゃない。
静かな時間も、自分のペースで過ごせることも、ちゃんと好きだ。
でも、その「ひとりで完結する」世界の外側に、
そっと手を伸ばしてもいいのかもしれない。
明日、佐伯さんに資料を見てもらう。
美咲と、久しぶりにちゃんと恋バナをする。
それだけのことなのに、明日が少し楽しみだと思える。
目を閉じる前、ふと、会議室の白い光の中で笑っていた佐伯さんの横顔が浮かんだ。
「ひとりで完結しなくてもいいかもしれない」
小さく呟いた言葉は、静かな部屋に溶けていく。
その夜、私は久しぶりに、明日の自分に少しだけ期待しながら眠りについた。
同期の美咲にそう言われた瞬間、胸のどこかを指でつつかれたみたいに、ちくりとした。
金曜の夜、会社近くの居酒屋は、期末前だというのにやけに賑やかだった。
私はウーロン茶の氷をストローでつつきながら、テーブルの端っこで笑い声を聞いていた。
「結衣、聞いてる? マッチングアプリ、やってみなって」
「うーん……仕事落ち着いたらね」
そう言うと、美咲は「またそれ」とあきれた顔をする。
二十代後半、都内の中小広告代理店で働いて三年。
残業は多いし、華やかさとは無縁の裏方仕事ばかりだけど、嫌いじゃない。
ただ、気づけばここ一年、休日はたいていひとりで過ごしていた。
ドラマを流し見しながらネットスーパーで注文して、たまに近所のカフェで本を読む。
誰かと会わなくても、別に困らない。
困らないけれど、ときどき、ふとした瞬間に、部屋の静けさが耳に刺さる。
「結衣ってさ、ひとりで完結しちゃうからさ。そこそこ可愛いのに、もったいないよね」
「そこそこってつけるな」
笑って返したけれど、「完結しちゃう」という言葉が、頭の中に残った。
二次会を断ってオフィスに戻ると、フロアにはほとんど人がいなかった。
忘れ物のイヤホンを取りに来ただけなのに、つい自分のデスク周りを片付けてしまう。
「……あれ?」
ふと、会議室のドアの隙間から、明かりが漏れているのに気づいた。
こんな時間に、まだ誰かいるのだろうか。
そっと覗き込むと、プロジェクターの白い光の中で、ひとりパソコンに向かっている後ろ姿が見えた。
「あ、すみません。電気消しちゃっていいですか?」
思わず声をかけると、その人は振り返った。
「……あ、結衣さん?」
黒縁メガネの奥で目を丸くしたのは、三ヶ月前にうちの部署に異動してきた、佐伯さんだった。
三十歳、落ち着いた物腰で、社内では「できる人」と評判の先輩。
でも私は、ちゃんと話したことがほとんどない。
「まだ残ってたんですね」
「資料、月曜までって言われてたやつ、ちょっと詰まってて。結衣さんは?」
「イヤホン取りに来ただけです。……あ、あった」
自分のデスクからイヤホンを拾い上げ、会議室の前に戻る。
ドアのところで一瞬迷ってから、私は言った。
「コーヒー、いります?」
「え?」
「コンビニ寄るんで。ついでに、ですけど」
自分でも驚くくらい、自然に言葉が出ていた。
佐伯さんは一拍置いて、ふっと笑った。
「じゃあ、甘くないやつでお願いします」
会社の一階にあるコンビニは、夜になると蛍光灯の白さがやけにまぶしい。
ホットコーヒーを二つ買って戻ると、会議室の中はさっきより紙の山が増えていた。
「お待たせしました」
「ありがとうございます。助かります」
カップを受け取った佐伯さんは、ふう、と小さく息をついた。
「……なんか、詰まってるって言ってましたよね?」
口をついて出た言葉に、自分で少し驚く。
普段なら、「お疲れさまです」で終わらせていたはずだ。
「はい。数字の出し方が、ちょっと。前の担当の人の式が複雑で」
「あー、それ、たぶん私が組んだやつです」
「え、そうなんですか」
「すみません、性格悪い式で」
思わず笑うと、佐伯さんも声を立てて笑った。
それだけで、会議室の空気が少し柔らかくなる。
「見ます?」
「え、いいんですか」
「まだ帰るのもったいない時間だし」
自分でも「なにそれ」と思うような理由をつけて、私は会議室に入った。
パソコンの画面には、見慣れたエクセルのシート。
確かに、三ヶ月前の自分が組んだ式は、今見てもややこしい。
「ここですね。……この条件、いらないかも」
「あ、本当だ。すっきりした」
「私、昔からテストのときも、解き方が意地悪って言われてました」
「想像つきます」
「ひどい」
そんな他愛もないやりとりをしながら、二人で画面を覗き込む。
距離が近づくと、柔軟剤のほのかな香りがした。
「結衣さんって、こういう作業好きですよね」
「バレてました?」
「いつも楽しそうにやってるから」
「え、楽しそうに見えてるんですか。……よかった」
つぶやいた瞬間、自分の中の何かが、ふっとほぐれた気がした。
「よかった?」
「なんか、私、わりと黙々とやるタイプだから。
楽しそうじゃないと思われてるかなって」
「黙々とやってるのが、楽しそうに見えるんだと思いますよ」
そう言って、佐伯さんはコーヒーをひと口飲んだ。
「俺、そういうの、いいなって思いますけどね」
「……そうですか?」
「はい。ちゃんと、自分のペースがある感じがして」
自分のペース。
その言葉が、胸のどこかに静かに落ちる。
私はいつの間にか、「ひとりで完結する人」として振る舞うことに慣れていた。
頼らない、期待しない、求めない。
そうしていれば、傷つかなくて済むから。
でも、それは「自分のペース」とは、少し違うのかもしれない。
「佐伯さんは、どうなんですか。自分のペース、守れてます?」
聞いてから、「変なこと聞いた」と少し後悔した。
けれど佐伯さんは、少し考えてから、穏やかな声で答えた。
「うーん……半々、ですかね」
「半々?」
「会社にいるときは、どうしても崩れますよね。
でも、家帰ったあとは、わりときっちり守ってます」
「へえ。どんな感じで?」
「絶対に、仕事持ち帰らない。あと、夜十一時以降はパソコン開かない」
「それ、すごい。私、つい開いちゃいます」
「ですよね。だから、ここにいるんですもんね」
からかうような口調なのに、責めるニュアンスはない。
私は肩をすくめて笑った。
「でも、今日こうして残ってたおかげで、コーヒーもらえましたし」
「……それ、プラスなんですか?」
「もちろん」
言い切ると、佐伯さんは少しだけ、照れくさそうに視線をそらした。
資料の修正が一段落したころには、時計の針は十時を回っていた。
「助かりました。本当に」
「いえ。私の式のせいでもあるので」
「でも、こうやって一緒にやると、なんか楽しいですね」
ぽろっとこぼれた言葉に、心臓が一瞬、強く跳ねた。
「えっと……私も、楽しかったです」
素直にそう言うと、佐伯さんは目を細めた。
「よかった。結衣さんって、いつも淡々としてるから」
「え、そう見えます?」
「はい。なんか、全部ひとりでできちゃいそうな感じ」
その言葉は、さっき美咲に言われた「ひとりで完結しちゃう」に、不思議なくらい重なった。
「……あんまり、いい意味じゃないですよね、それ」
思わず本音が漏れる。
佐伯さんは少し驚いたように私を見て、それから、ゆっくり首を横に振った。
「いや、いい意味ですよ」
「いい意味?」
「ひとりで完結できるって、強いじゃないですか。
でも、強い人って、頼られちゃうことはあっても、自分から頼るの苦手そうだなって」
図星だった。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
「……苦手ですね。たぶん」
「そういう人が、たまに頼ってくれたら、ちょっと嬉しいですけどね」
「誰が?」
「俺が」
まっすぐな視線に、思わず目をそらした。
耳のあたりが熱い。
会議室のガラス越しに見えるオフィスは、ほとんど真っ暗だ。
蛍光灯の白さだけが、やけにくっきりと私たちを浮かび上がらせている。
帰り支度をしながら、私は鞄の中のスマホをちらりと見た。
ロック画面には、美咲からのメッセージが並んでいる。
《二次会来なかった罰として、明日ランチ付き合って》
《恋バナ聞かせろ》
恋バナ。
そんなもの、ずっとしていない。
エレベーターを待つ間、私は意を決して口を開いた。
「あの、佐伯さん」
「はい?」
「さっきの、その……たまに頼ってくれたら嬉しいって、言ってましたよね」
「言いましたね」
「じゃあ……明日、ちょっと頼ってもいいですか」
自分でも驚くくらい、声が震えていた。
佐伯さんは、少しだけ目を見開いて、それからゆっくり笑った。
「もちろん。何を?」
「資料の、ここまでの流れ……見てもらいたくて。
私、いつもギリギリまでひとりで抱えちゃうから。
そうじゃないやり方、ちょっと試してみたいです」
言いながら、これは仕事の話だけじゃないと、自分でもわかっていた。
「ひとりで完結する」やり方を、少しだけ変えてみたい。
そんな気持ちが、確かにそこにあった。
「いいですね、それ」
佐伯さんは、エレベーターのドアが開く音にかき消されそうな声で言った。
「じゃあ、明日。午前中のどこかで時間空けます」
「ありがとうございます」
エレベーターに乗り込むとき、ガラスに映る自分の顔が、少しだけ明るく見えた。
家に帰り着くと、いつものように静かな部屋が迎えてくれた。
靴を脱ぎながら、私はスマホを取り出す。
美咲からのメッセージに、指を滑らせる。
《二次会来なかった罰として、明日ランチ付き合って》
《恋バナ聞かせろ》
いつもなら、「ネタないよ」と返して終わりだっただろう。
でも今日は、少しだけ違う言葉が浮かんだ。
《いいよ。ちょっとだけ、話すことあるかも》
送信ボタンを押すのが、妙に恥ずかしい。
けれど、送ったあと、胸の奥がすうっと軽くなるのを感じた。
すぐに既読がついて、スタンプと一緒にメッセージが返ってくる。
《え、なにそれ! 詳しく!》
《明日、根掘り葉掘り聞くから覚悟しといて》
ソファに倒れ込みながら、私はふっと笑った。
天井を見上げると、薄い影がゆらゆらと揺れている。
ひとりでいることは、やっぱり嫌いじゃない。
静かな時間も、自分のペースで過ごせることも、ちゃんと好きだ。
でも、その「ひとりで完結する」世界の外側に、
そっと手を伸ばしてもいいのかもしれない。
明日、佐伯さんに資料を見てもらう。
美咲と、久しぶりにちゃんと恋バナをする。
それだけのことなのに、明日が少し楽しみだと思える。
目を閉じる前、ふと、会議室の白い光の中で笑っていた佐伯さんの横顔が浮かんだ。
「ひとりで完結しなくてもいいかもしれない」
小さく呟いた言葉は、静かな部屋に溶けていく。
その夜、私は久しぶりに、明日の自分に少しだけ期待しながら眠りについた。
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