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それぞれの選択
雨の雫
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音楽室は旧校舎講堂跡地にある。体育館建設のための資材置き場は、工事の騒音防止のために仮設とはいえそれなりの効果があり、便宜上、音楽室として利用されていた。
(ゴミ置き場……か)
翼は一人で、通称“ゴミ置き場”と呼ばれている音楽室に向かっていた。勲は一緒ではない。二人でこそっと尾形啓之進の評判の高いチョンマゲを見にいく約束をしていたのだが、急用ができたと勲は心底申し訳なさそうに謝ってきた。
『……おやじに呼ばれているんだ。すっぽかすつもりだったけど、グループ会社の幹部が揃うなにかの会でさぁ。どうしてもと、何度も念を押されてね』
その口調から、父親とうまくいっているのか、いないのか、翼にはなんとも判断がつき難かったが、なにやら勲にも悩むところがあったらしかった。
『ぼくにさ、卒業したら、日本の大学じゃなく、アメリカのビジネスクスールに行けって言うんだ。ん……そ、経営学部のようなものさ。ぼく……語学だけは叩き込まれてきたし、あとを継がせる気なのさ……』
そんなことも勲はボヤいていた。
『レイに婿を迎えて継がせればいいのにな……』
それには翼はなんとも答えようがなかった。広大な敷地の片岡邸を何度か訪れた翼は、勲が財閥の御曹司とはいえ、それなりの悩み事を抱えているらしいことは薄々気づいていたが、勲もまたこれからの進路というものを真正面から見つめようとしていることが羨ましくさえあった。
(それに比べておれは……)
なんの取り柄もないなあ……と、否が応でも自分の現在の姿をかえりみざるを得ないのだ。
この日、初めて塞翁が馬、あの馬川矯を見て、さらにいまから尾形啓之進のチョンマゲを見に行こうとしている自分は、一体、何なのか。
(取り柄がないのはわかりきったことだけど、チョンマゲになって、急にチヤホヤされて……、あ、これ、チョンマゲが取り柄なのかなあ)
そんなことまで翼は考えはじめている。
(なにか、確としたものがあれば……。チョンマゲ大会で、それを手に入れることができるのなら、ここはひとつ……)
やってみるのもいいのかなあと、翼は思いはじめていた。だから、尾形啓之進のチョンマゲを見る価値はあった。
あくまでも、こっそりとではあるが。
「あ……」
突然、翼の耳に美しいバイオリンの音色が響いてきた。楽器には詳しくはなかったが、それがクラッシックらしいことぐらいはわかる。
作曲家の名までは知らないが、とてもうまく弾いているのだと素直におもえてくる。
そっと覗いてみると、外国人と見紛うほどの長身の男子が、バイオリンを奏でていた。
「やつか……!」
顎をやや斜めに上げた姿には、なんとも表現し難い躍動感と自信に溢れていた。啓之進の細い指が、見えない紐につられた操り人形のように動き揺れるさまは、藩公の末裔という属性を抜きにしてもなお燦々と輝く妖しい光に包まれているように翼には感じられた。
「ひゃあ……それにしても……」
あとの言葉は続かない。それほど翼はそのとき感動していた、感動させられずにはいられなかった。
「みんな……」
と、それだけ翼はおもった。
「……なんか持ってるんだ」
うまくは表現できないまでも、相手が誰であれ、自分の道を突き進む姿は、翼は率直に美しいとおもう。
……その感情は、あの馬川矯がどういう理由であれ、日向瑠衣のために自分を罵った正義感、いや罵られながらも正義漢を一瞬微笑ましくおもったときのものと似ていた。
「それに比べてこのおれは……」
結局、最後はそこに辿り着く。
翼は漠然とおもった。いつかは自分もその名のとおりに逞しくつばさを拡げて飛び立てる日がくるのだろうかと。
翼は感じている。あたかもこころに雨の雫が落ちて止まないその気怠さとたとえようのないやるせなさを……。
(ゴミ置き場……か)
翼は一人で、通称“ゴミ置き場”と呼ばれている音楽室に向かっていた。勲は一緒ではない。二人でこそっと尾形啓之進の評判の高いチョンマゲを見にいく約束をしていたのだが、急用ができたと勲は心底申し訳なさそうに謝ってきた。
『……おやじに呼ばれているんだ。すっぽかすつもりだったけど、グループ会社の幹部が揃うなにかの会でさぁ。どうしてもと、何度も念を押されてね』
その口調から、父親とうまくいっているのか、いないのか、翼にはなんとも判断がつき難かったが、なにやら勲にも悩むところがあったらしかった。
『ぼくにさ、卒業したら、日本の大学じゃなく、アメリカのビジネスクスールに行けって言うんだ。ん……そ、経営学部のようなものさ。ぼく……語学だけは叩き込まれてきたし、あとを継がせる気なのさ……』
そんなことも勲はボヤいていた。
『レイに婿を迎えて継がせればいいのにな……』
それには翼はなんとも答えようがなかった。広大な敷地の片岡邸を何度か訪れた翼は、勲が財閥の御曹司とはいえ、それなりの悩み事を抱えているらしいことは薄々気づいていたが、勲もまたこれからの進路というものを真正面から見つめようとしていることが羨ましくさえあった。
(それに比べておれは……)
なんの取り柄もないなあ……と、否が応でも自分の現在の姿をかえりみざるを得ないのだ。
この日、初めて塞翁が馬、あの馬川矯を見て、さらにいまから尾形啓之進のチョンマゲを見に行こうとしている自分は、一体、何なのか。
(取り柄がないのはわかりきったことだけど、チョンマゲになって、急にチヤホヤされて……、あ、これ、チョンマゲが取り柄なのかなあ)
そんなことまで翼は考えはじめている。
(なにか、確としたものがあれば……。チョンマゲ大会で、それを手に入れることができるのなら、ここはひとつ……)
やってみるのもいいのかなあと、翼は思いはじめていた。だから、尾形啓之進のチョンマゲを見る価値はあった。
あくまでも、こっそりとではあるが。
「あ……」
突然、翼の耳に美しいバイオリンの音色が響いてきた。楽器には詳しくはなかったが、それがクラッシックらしいことぐらいはわかる。
作曲家の名までは知らないが、とてもうまく弾いているのだと素直におもえてくる。
そっと覗いてみると、外国人と見紛うほどの長身の男子が、バイオリンを奏でていた。
「やつか……!」
顎をやや斜めに上げた姿には、なんとも表現し難い躍動感と自信に溢れていた。啓之進の細い指が、見えない紐につられた操り人形のように動き揺れるさまは、藩公の末裔という属性を抜きにしてもなお燦々と輝く妖しい光に包まれているように翼には感じられた。
「ひゃあ……それにしても……」
あとの言葉は続かない。それほど翼はそのとき感動していた、感動させられずにはいられなかった。
「みんな……」
と、それだけ翼はおもった。
「……なんか持ってるんだ」
うまくは表現できないまでも、相手が誰であれ、自分の道を突き進む姿は、翼は率直に美しいとおもう。
……その感情は、あの馬川矯がどういう理由であれ、日向瑠衣のために自分を罵った正義感、いや罵られながらも正義漢を一瞬微笑ましくおもったときのものと似ていた。
「それに比べてこのおれは……」
結局、最後はそこに辿り着く。
翼は漠然とおもった。いつかは自分もその名のとおりに逞しくつばさを拡げて飛び立てる日がくるのだろうかと。
翼は感じている。あたかもこころに雨の雫が落ちて止まないその気怠さとたとえようのないやるせなさを……。
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