えどのひと

海善紙葉

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裏 窓

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 遠くとなく近くとなくパトカーのサイレンが響いている。このあたりは高層ビルがほとんどないため音が遮られることがない。
 亜沙美が目覚めたときも、その音を聴いた。からだのあちこちに痛みが残っていた。

(あれ……? ここは……)

 見慣れない天井の年輪模様が亜沙美の視界のなかでゆらゆらとらいでいた。

(トモ……? いるの……?)

 居たら喋りたい……心底おもった。居てほしい……このときほど、あの黒い歯をみたいと思ったことはなかった。

(あ……)

 喉がカラカラだった。
 躰を起こすと、枕元に水差しとコップがお盆の上に置かれているのに気づいた。その横にはミニサイズの未開封のジュース類とストローがあった。

(え……? トモが用意してくれたの?)

 そんなことを考えながら、亜沙美はまず水を飲み、ミックスジュースにストローをさした。
 ズズッー……と、自分が立てた音に、亜沙美はホッとした。
 そろりと周りを見回した。
 四畳半ほどの空間のなかには、箪笥も机もなく、ただ古い本箱が壁に添って並んでいた。亜沙美にはよくわからなかったけれど、石原書店の店の棚に似ていた。

(ん………?)

 窓からしてきた光の束が、部屋のなかのちいさなホコリの粒が浮いているのがみえた。それは空中に舞い、キラキラと輝いていた。
 窓があいているのだろう、光の束とともに風が亜沙美の頬を撫でた。
 立ち上がって、もう一度ぐるりと見回すと、書棚の下に古そうな麦藁帽子が突っ込まれていたのをみた。手を伸ばし、それを引っ張ると、ホコリが輝いきながら襲ってきた。ぽんぽんと払うと、かぶった。ぶかぶかだったけれど、それでも強い陽の光を遮ることができた。
 かぶったまま片手で頭の上をおさえ、麦藁帽子がずり落ちないようにして、窓際に立った。
 下を見た。どうやらこの部屋は二階にあるらしい。

(え……? トモ!)

 えどのひとが縁側に腰掛けている姿がみえた。

(どういうこと……?)

 まったくわからない。
 庭の光景は、角度は違ってもいつも見ているあの庭のように思えてきた。

(ここは……)

 石原書店の、いまは使っていない建物かもしれないと亜沙美は気づいた。庭にそって三角状に増築されたらしい建物なのだ。

(あ……おじいちゃんが住んでいたとこかな)

 そうおもった。
 かずの……だと、沙恵が言っていたことを亜沙美は思い出した。

(ママのお父さんのお部屋……?)

 亜沙美は一度も会ったことはない。
 祖母には抱いてもらった記憶はかすかに残っていたけれど、亜沙美が幼稚園に入る前年に逝ってしまった。祖父がその葬儀にも参列してなかったことを亜沙美は知らない。沙恵がまだ学生の頃に家出して家族を捨てたきり音沙汰がないことも……。
 早くえどのひとと喋りたいとおもった亜沙美は、窓から手を振ってみた。
 けれどこちらには気づいてはくれないようだった。

(ええっ……?)

 亜沙美が驚いたのは、えどのひとの隣に座っている男の姿をみたからだ。

(え……? お、じ、い、ち、ゃ、ん?)

 真っ先にそうおもったけれど、お年寄りではない。パパよりもぐんと若そうに見えた。
 手を振ったとき、窓の縁に当たってガサッと音がした。
 えどのひとの隣にいた男が上を向いたその視線が自分をとらえていることを亜沙美は知った。けれど怖いとはおもわなかった。なぜなら、えどのひとと一緒に座っているのだもの……と、しばらくそのままの姿勢で亜沙美は麦藁帽子が風にふかれて飛んでいかないように慌てて両手で頭をおさえた。
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