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10 謎の門左衛門

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 近松門左衛門という名は、あくまでも筆名である。が、ここからの物語は、近松の名で通していこう。

「おや、あの橋の上でお会いしましたなあ。┅┅さんと申されましたかな┅┅じゃが、その名、まことの名ではござらぬな」

 何気ない口調で近松は、ぼそりと伊左次の急所を突いた。

「┅┅それに、伊左次さんは、武家の出でございますな」

 茶をすすりながら、近松はズケズケと相手の深奥しんおうまで踏み込んでいく。二人きりということもあるが、興味を抱いた対象には容赦せずに知りたいことを問い詰める傾向があるらしかった。

「いや、なに、橋まで追いかけていたときにそう感得しました。あのおりの身のこなしよう、そして、他人には気づかれないように脇差のつかに手を添えていた様子から、武家の方と察しました。流派までは判りませぬが、かなりのお腕前┅┅しかも、居合の達者とお見受けいたしました」

 ギョッとした伊左次は、反射的に脇差を探っていた。
 部屋の中では背から腰へ斜めにさしている。こちらの剣の腕を見抜いた相手は、同等か、あるいはそれ以上の腕前にちがいない。
 瞬息せつな、伊左次から放たれた殺気が、近松をった。
 ところが、近松はそれを、
「ごほん」
と、咳払いひとつで瞬殺してしまった。
 アッと伊左次は腰を浮かせた。
 敵の一刀を受ける、あるいは一刀から逃げる間合いを見切る体勢である。
 もっとも、近松は刀を帯びていない。それでも伊左次は警戒せざるを得なかった。悲しいかな、これが武芸者の本能というものであったろうか。
 ズズズッと、音を立てながら、近松が茶をすすった。
 あえて無作法にも音を立てたのは、こちらには悪意は微塵もないと伊左次に伝える合図であった。
 それを聴いて、伊左次は浮かしていた腰をドタッとおろした。
 この音もまた、近松への謝罪と停戦の合図である。剣の道をきわめつつある者には、言葉は不要なのだ。

 音、しぐさ、視線、姿態のありようだけで充分に会話が成り立つ。
 それにしても言葉を扱う戯作者の近松門左衛門が、これほどの武芸達者であろうとは、伊左次には意外の一言に尽きる。
 一体、何者であろう。
 そんな伊左次の疑念を喝破かっぱするように、近松が言い添えた。

「┅┅ふふふ、若き頃、京の公卿、正親町おおぎまち家で、雑司ぞうしとしてこきつかわれておりましてな。雑用係ですな。ちと当主が風変わりで、剣客、修験道者、陰陽師などを自由勝手に寝泊まりさせておりました。┅┅かれらに鍛え上げられた、と申さば、すこしは納得されようか」

 近松が笑う。
 つられて伊左次が相づちを打った。
 もっとも。
 近松にはまだ秘密が隠されていると伊左次は踏んでいる。けれど口には出さない。出せない。気まずさが場をおおいかけたとき、襖の外でおときの快活な声が響き渡った。女中が近松来訪を告げたらしく、
「うちに何の用なんやろ!」
と、大声で叫んでいる。
 その声が伊左次と近松の間の見えない壁をふっと消し飛ばした。


 
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