夏と夏風夏鈴が教えてくれた、すべてのこと

サトウ・レン

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新潟の片隅で、愛が終わる

試合の行方に、人生を賭けた日

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『世界の中心で、愛をさけぶ』は、二十一世紀に入ってすぐに刊行された片山恭一の代表作だ。『セカチュー』という略称はブームにもなり、大抵のひとは知っている。ただ映像化を観ただけで小説は読んでいないひと、目や耳に入ってきた誰かの感想だけで作品をイメージしているひとなんかも多いはずだ。僕もどちらかと言えば、そっちの側の人間だった。一過性の騒ぎは、実際がどうであれ、印象を悪くさせがちだ。

〈朝、目が覚めると泣いていた。〉
 という一文ではじまる本作は、思いのほか、静かだ。朔太郎とアキ。中学二年生の時に出会ったふたりは、学級委員になったことをきっかけに仲を深めていく。出会いから死、そして、その後、とひとりの少女に関するすべてのことを通して、少年が悩み続けて、答えを出したり、出さなかったりする小説。僕にはそんなふうに読めた。遺骨を盗んだり、朽ち果てた島で恋人とふたりで過ごしたこともないのだが、僕はアキが夏風のように思えて仕方がなかった。もう作品を素直に読むことができなくなってしまったのだ。別に夏風が今すぐ死ぬわけでもないのに……。

 つねに今の自分たちと置き換えながらでしか、この物語を読むことができない。それがあまり良い読み方とは思えなかったが、そうするしかできない以上、仕方がない。

『私はアキじゃなくて、夏の人間だよ』
 と夏風には言われそうな気がする。例えば僕の前から、夏風が消えてしまったら。僕は何を考えるのだろうか。思考実験だ。ただの思考実験でしかない、と自分に言い聞かせながら。朔太郎のようにはなれないだろう、とは思った。たぶん何も考えられない気がする。

 作中で印象的なのは、朔太郎と祖父の会話だ。年齢の離れた友情がふたりの間に築かれていて、僕はそれを羨ましい、と思った。僕が物心ついた時には、すでに祖父は鬼籍に入っていたので、もしも今、祖父が生きていたら、朔太郎と同じような会話をする世界線だってあったのかもしれない。とはいえ伝え聞く祖父の評判を考えると、たとえ生きていたとしても、そんな会話にはならなさそうだが。

 今日は七月十四日。陽が雲間から光を落とす、暑い夏だった。グラウンドの温度はどれくらいなのだろう。観客席にいるだけで、とめどなく汗が流れてくる。

 僕は野球部の試合を観に来ていた。野球場での観戦なんて、人生で初めてのことだ。

 もちろんひとりではない。
「ごめんな。きょう、付き合ってもらって」
 と隣にいる国崎が言った。

「いいよ。僕はいつだって暇だから」
「最近は色々忙しいんじゃないか」
「なんだよ。その含みのある言い方は」
「お前たちは表情に出やすいからな。分かりやすいんだ」
 僕は話題を変えたくて、視線を逸らした。

「きょうの試合、勝てそうなんじゃないか」
 試合は四対一。うちのチームが三点リードしていた。試合は七回表まできている。先攻のうちのチームの攻撃中だ。

「油断は禁物だ。野球は9回2アウトから、って言うだろ」
「まぁ、それはそうだけど」
 試合が動いたのは、三回表。安達が満塁ホームランを打ったのだ。打った瞬間の歓声はすごかった。観客席のひとつの固まりを女の子たちのグループが陣取っている。聞くところによると、彼女たちは安達の非公認ファンクラブらしくて、様々な学校の女子たちだそうだ。そんなものまでできているのか、とびっくりしてしまう。だけど安達の活躍ぶりを考えれば、それこそが普通なのかもしれない。

 夏風があの歓声を聞いたら、何を思うだろう。
 ふと僕はそんなことを考えた。
 今、この場所に夏風の姿はない。本来は夏風と国崎がふたりで行く予定だったのだが、夏風から国崎に、「急用ができた」と連絡があって、代わりに僕が駆り出された形だ。せっかくの休みの日で、電話で朝から起こされることになってしまった僕は最初、「ひとりでいいんじゃないか。関係者みたいなもんなんだから」と断ったのだが、『いやぁ、ひとりっていうのもなんだか……』と煮え切らない言葉が返ってきて、結局、僕は野球場に向かうことになった。

「夏風の急用、って?」
 と聞くと、国崎は首を横に振った。

「いや、詳しいことは知らないんだ。だけど病院に行く、って」
「それは夏風が病気で?」病院、というワードを聞いて、不安が襲ってくる。
「あぁ、いや、『私のことじゃない』って」
「じゃあ、誰なんだろう」
もちろん彼女の話の中に出てくる、大切なひと、であることは間違いないだろう。敢えてこういう聞き方をしたら、国崎が何かを知っていて、答えてくれるんじゃないか、と甘い期待もあった。自分でもずるい聞き方だと思う。
「さぁ、何も教えてくれなかったし、こっちも聞かなかったから」
「そっか」

 僕は気になっている。彼女が言ってくれる時を待つのが我慢できないほどに。あんなに、無理に聞かない、なんて平然を装っていたくせに。たぶん僕の中で、彼女の存在がどんどん大きく膨らんでいて、冷静な自分だけでは抱えきれなくなっているからだろう。先日のキスの一件から、僕たちはまだ話していない。教室でその姿は見掛けるが、お互いが意識してしまっているのかもしれない。すくなくとも僕はそうだ。これは認めざるをえない。

 試合は七回裏も終わって、八回に突入していた。七回裏の相手チームの攻撃は、呆気なく三者凡退だ。我が校のエースは調子が良いのか、テンポよく、楽しそうに投げている。僕みたいな野球素人が見ても分かるくらいだった。

「そう言えば」
「うん?」
「きょうのラッキーアイテムはなんだと思う?」
「まだ、あんなの信じてたのか。あれはだから因果関係が」
「いや、日比野、『文庫本』で幸運が舞い込んできたお前がそんなこと言ったら、駄目だろ。俺はあれで、より信じることにしたんだから」
「で、何がラッキーアイテムだったの?」
 すると、国崎が僕を指差した。

「『友達』だって」
「物じゃないものもあるのか……それで僕を呼んだのか?」
「いや、そうじゃなくても、お前を呼んだと思う。ひとりでここに来る勇気はまだないからな。でもあのラッキーアイテムを見て、そしてお前を呼ぶことを決めた時、俺はひとつの決心をしたんだ」
「決心?」
「試合の行方に、自分の人生を賭けてみようと思ったんだ」
「なんだよ、それ」
 冗談かと笑ってみるが、思いのほか、国崎は真剣な表情をしていた。

「迷ってどうせ答えを出せないなら、運に任せてみるのも悪くないかな、と思って」
「それ、後悔しない?」
「するよ、絶対。たぶんどっちに転んだとしても。でもこのまま悩んで答えを出した、としても、結局どうしたって何らかの後悔はある気がする。だったら、いっそ、って。自分の性格にも合っている気もするからな」
「そうか」僕は止めなかった。その考えが嫌いじゃなかったからだ。仮に僕が必死で説得して、国崎が思いとどまったとして、それはそれで彼は後悔するだろう。「……で、賭けの内容は?」
「もしもチームが勝ったら、俺は大学に行って野球をやる。もしもチームが負けたら、俺はもう金輪際、野球には関わらない。どうだ。神様の振ったサイコロに任せるんだ」
 回るサイコロは、今、『勝利』の目に止まりそうになっている。

「国崎はどっちの目に止まって欲しいんだ?」
「さぁ、どっちだろう。実は結果はどうでもいいんだ、と思う。自分がなんとなく納得できれば、別にどっちでも。いや、まぁ勝利を願わないのは、野球部の奴らにしてみれば許せない話だとは思うし、もちろん口にはできないんだけど。これが偽りのない思いだから。あいつに言ったら、『馬鹿じゃないの』って言われたよ」
 夏風のことだろうか。あいつ、という表現を不思議に感じた。

「夏風も困ってただろ」
「あっ、すまん。言い方が悪かったな。夏風のことじゃないよ。あいつは、佐野のことだよ。実は告白して、付き合うことになったんだ」

 ふたりは一緒にいる機会も多かったから、それ自体に驚きはない。ただ佐野さんが受験勉強で忙しく、最近は全然会えない、と言っていたので、いつの間にそんなことに、という気持ちはある。

「いつ?」
「二日前かな。久し振りに会って、ストレートに伝えることにしたんだ。『好きです』って。この賭けのことを決めてから、他のもやもやとしていた気持ちも晴れてきたんだ、と思う。見える世界がクリアになった感じだよ。たぶん佐野は、大学に行った先輩のことが好きなんだ。ただその先輩には彼女がいて、ってまぁ、そういうやつだよ。『ただの憧れだから、それだけだよ。それ以上でも以下でもない』って彼女は言ってたけど、あれは違うよ。だから俺が割って入るのは、ってうんうん悩んでたんだ」
「そうだったのか」
「まぁでも、いいや、と思って。いつか終わったとしても別にそれでいいから、今の気持ちをストレートに伝えよう、ってな。こう口に出すのは恥ずかしいけど、な」

 国崎が照れくさそうな表情を浮かべる。国崎のこの態度は暗い感情の中で惑う姿とは別種の、彼らしくないものではあるのだが、ただ多少は前向きになってくれたみたいで嬉しかった。彼に限らず、外側から見える、らしさ、だけでは判断できない様々な感情をひとは抱えているということなのだろう。それは僕や夏風だって、例外ではないはずだ。

「でも良かったよ」
「これからどうなるか分からないけど、な」
「それは誰だって同じだよ。一秒先のことはどうなるか分からない」
 僕はちいさく息を吐き、グラウンドに目を戻す。

 八回裏の相手チームの攻撃が終わった。ファーストゴロ、セカンドゴロ、三振。また三者凡退だ。簡単にアウトが積み上がっていく。怖すぎるくらいに。

「たまに思うんだ」と国崎が言った。「未来が適度に定まっていてくれたらなんて。そしたらこんなにも頭を悩ませることもないんじゃないか、って」
「僕は逆かもしれない。定まった未来は嫌だな。鮮明に見える未来は、予定調和の物語の中だけでいい」
『何よりも嫌だったのが、ヒロインが病気で死ぬこと。予定調和のようにヒロインを簡単に死なせる。安い感動に逃げ込むために。泣くためだけの装置としてしか扱われない死ぬヒロイン。なんだか、げんなりしない?』

 ふいに夏風の言葉がよみがえる。
 自分で言いながら、僕はこんなこと言わなければよかった、と後悔してしまった。
 例えばこの世界が予定調和だとしたら、たぶんこの試合は負ける、と僕は思った。ここまでの試合展開が、国崎の決意が、その展開をお膳立てしているように見えて仕方がないのだ。そしてそれはこの野球の試合に限った話ではない。僕と夏風の関係も。

 だから僕は祈っていた。試合の勝利を。大学に入って、国崎がまた野球をはじめる未来を。

 九回表。うちのチームの攻撃。先頭バッターが二塁打を打つ。彼は一番打者だ。ノーアウトランナー二塁。次の二番打者がバントする。ワンナウトランナー三塁。三番打者は普段は四番を打っている強打者だそうだ。国崎が教えてくれた。まだ二年生らしく、僕は全然知らない。ファールで粘りながら、フルカウント。そして十球目に相手ピッチャーが投げた球を空振りして、三振。

 四番は、安達だ。
 普段は三番を打っているらしいのだが、大会での活躍を考慮して、今日は四番になったそうだ。これも国崎に教えてもらった。うちの監督は結構こういう時、打順を動かすからなぁ、と。

 一球目。
 乾いた気持ちのいい音が響いて、白球は大きくスタンドへと舞い上がった。

 ポール際。判定はファールだった。あとほんのわずかにずれていたら、勝利を決定づけるホームランになっていたはずだ。

 二球目は空振り。三球目はボール。
 四球目を打って、ライトフライだ。仮定の話をしても仕方ないのだが、もしもいつも通りの打順だったとしたら、一点が入っていたわけだ。

 九回裏、相手チームは二者連続三振。ツーアウトだ。
 するとそれまで調子の良かったうちのエースのストライクがまったく入らなくなった。『野球は9回2アウトから』とさっきの国崎の言葉が頭に浮かぶ。二者連続四球。暴投もあって、ランナーは二塁三塁。このチャンスでバッターは向こうも三番打者だ。フルカウントまで粘ったこちらも十球目、四球を選び取り、満塁。

 四番打者が打席に立つ。
 初球だった。綺麗な放物線を描いた打球はスタンドに吸い込まれていった。

 僕が人生で初めて野球場で観た試合の結果は、逆転満塁サヨナラホームランで、もう二度と野球なんて観ない、と思った。

「まぁ仕方ないか。これが野球で、これが人生なのかもしれないな」
 何故か僕よりも複雑な感情を抱えてもおかしくないはずの国崎が穏やかな表情を浮かべていて、何故か落ち込んでいる僕の肩を叩いた。

 なんだかそこまで含めて、筋書きのあるドラマのようだった。
 僕たちは野球場を後にして、駅で別れた。お互いに言葉はなかった。
 翌日、夏風は学校を休んだ。いや翌日だけではない。夏休みまでの数日間、彼女は学校に姿を見せなかった。一度だけメールを送ってみた。

『まぁちょっと色々と、ね。主に心の問題かな。そのうち話すよ』
 とだけ返ってきた。それ以上は、何も聞けなかった。
 夏休みに入ってすぐ、国崎から連絡が来た。
 夏風の、〈大切なひと〉が死んだ、という報せだ。そこでようやく、僕はそのひとの正体を知った。
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