光へ、と時を辿って

サトウ・レン

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過去を辿って、未来と。

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 気付くと、僕は電車の中にいて、正面には親子連れらしき女性と少年が、そして空白をひとつ挟んだ隣には男子学生が座っている。同じ電車の車内でも、先ほどまでとは明らかに違う雰囲気で、何よりも異なるのは車窓越しの景色で、立ち並ぶ建物の鈍い光が夜闇に混じっていた。どこにでもある普通の電車だ。

 ポケットに手を入れると、過去にいた時には触ることもできなかったスマホがしっかりとそこにある。僕はスマホを取り出して、いまの時刻を確認する。最後に確認してから、ほんのわずかしか時間は経っていない。夢を見ていた、とさえ思えないほど、短い時間だ。

 あれは本当にあったことだったのか、それとも長い夢を見ていたのか。証明するものは何もないけれど、そこにあまり違いは感じられない。重要なのはその体験を経て、僕の心がどう変わったか、のような気がする。

 ひとつ大きな伸びをして、疲れた息を吐き出す僕の姿を、親子連れの幼い少年が見ていた。目が合い、困ったな、と思いつつ、ちいさくほほ笑むと、少年がふいと顔を背ける。怖がらせてしまっただろうか。過去の自分ばかりを見てきたせいで、自分までまだ少年時代の名残りを大きく残している、と勘違いしそうになってしまうが、僕はもう四十を過ぎたおじさんだ。幼い子どもにとって知らないこの世代は怖いだろう。

 電車を降りて、ホームに立つと、スマホを手にするひとたちの姿があって、その光景を見ると、あぁ戻ってきたんだ、と実感する。

 外に出ると、夜風は思いのほか冷たかった。自宅にすぐ帰る気が起きなくて、僕は母に電話を掛けた。

『いまから、ちょっとそっちに帰っていい?』
『どうしたの、こんな夜中に? まぁ別にいいけど』

 母の返答にはすこし戸惑ったような色が混じっていた。近くに住んでいながら、ほとんど実家に帰らない息子がそんなことを言えば、何か大変なことがあった、と考えるのが自然だろう。

『心配しなくても、たいしたことじゃないよ。ちょっと探し物があって』
 そう言って、電話を切った僕は夜中のうちに、いまは両親ふたりだけで過ごす実家へと久し振りに帰った。

 出迎えてくれた両親の顔を見ながら、僕は不思議な気持ちになる。

 さっきまで僕は三十年前の両親を見ていて、それが一気に三十年ぶん、年齢を経ているわけだ。普段会っている中で相手の外見に老いを感じる時とは比べものにならないほどの、時間の経過を感じてしまう。

 三十年前、真っ黒だった父の髪は、もう真っ白になっている。

「どうしたんだ?」

 顔をじっと見つめながら黙っている僕の姿に困惑したのか、父がそう聞く。

「あぁ、いや老けたな、と思って」
「どうしたんだ?」父が苦笑いを浮かべる。「そりゃあ、もう結構な年齢なんだから、老けていて、当然だよ」
「まぁ、そうなんだけど」
「俺から言わせれば、お前も本当に老けたけどな」
「分かってるよ」

 もともと僕と父は言葉数のすくない関係だから、これでも結構話しているほうで、母はめずらしいものを見た、という感じの表情を浮かべている。そんな母も、やっぱり三十年前とは全然違う。建物や生活環境、流行りの曲、人気の芸能人、と時の流れを表すものなんていくらでもあるけれど、もっとも時間の経過を感じさせるものは、身近なひとの変化なのかもしれない。

 両親を見ながら、ふと思った。

 ただ今夜の本来の目的は両親に会うことではない。僕はかつて自分が使っていた部屋へ行くと、物置代わりに色々なものが置かれているけれど、もともと使っていた物の場所はそこまで変化していない。

 僕はキャビネットの中を確認する。

 あった。

 決してもう綺麗な状態とは言えないけれど、まだそれは確かに存在している。ついさっきも過去の世界で見たばかりなのに、懐かしいような気分になる。

 ぼろぼろの一冊の文庫本は、東野圭吾の『卒業』だった。僕はそれを取り出すと、両親に、じゃあまた、と言って、実家を出た。

 自宅へと戻ると、もうかなり遅い時間だった。彼女はまだ起きているだろうか。彼女も、僕と同様、独り身だ。家族に気を遣う必要はないのだけど、とはいえあまり失礼なことはできない。別に連絡するのは明日でも構わないのだけれど、どうしても、すこしでも早く、彼女と話したい。思い切って電話すると、

『どうしたの、急に?』
 村瀬の驚きと困惑の混じったような声が、まず返ってきた。

「ごめん、急に。もしかして寝てた?」
『いや、起きてるけど……、何かあったの?』

 心配そうに、村瀬が言う。それもそうだ。たいして付き合いもない相手から、いきなり夜中に電話が掛かってきたら、何か特別な急用があるとしか思わないだろう。非常識だ、と怒られないだけ、彼女の反応に感謝しないといけないのかもしれない。

「前の話の続きをできないかな、と思って。今度、どこかで会えないかな」
『前の、って、それは光のこと?』
「そう、あれからずっと彼女のことを考えていて、それで、さ、どうしても村瀬と話したくなって」
『そうなんだ……』
「嫌だったら、もちろん無理強いはしないよ。ただ電話で伝えるのは難しいくらい、すこし長い話になりそうなんだ。だから今度――」
『今日でも、いいの?』
 と予想外の答えが返ってきて、僕は驚きつつも、彼女に了承の返事をして、急いで自宅を出る。ふたりで目的地に決めたのは、あの日、同窓会のあとに、光の話をした深夜まで営業しているファミレスだった。

 僕がファミレスに入ると、すでに村瀬が窓際の席で頬杖をついていて、遠目からも明らかにその表情には不安が混じっているように見えた。僕が手をあげると、村瀬もちいさく手をあげて、硬さを残したほほ笑みを浮かべる。

「本当にごめん、急に」
「いいよ。……というか、私も、今日なんて言って、ごめんね。あんな感じで切られたら、気になって眠れなくなりそうだから」

 彼女が注文したのだろうコーヒーの湯気が、彼女の前で、ゆらゆら、と揺らめいている。それを見ながら、僕のお腹から空腹を告げる音が鳴り、村瀬が、くすり、と笑った。意図した行動ではないけれど、彼女の緊張がそれで取れてくれたなら幸いだ。

「どうしたの? もうこんな時間だけど、もしかしてまだ夕ご飯、食べてないの?」
「いや、実は色々とあり過ぎて。とりあえず僕もコーヒーを」

 僕もコーヒーを注文し、待っている間は、お互い無言で、何から話しはじめれば、と考えているうちに、どんどんと緊張感は増していく。コーヒーが届くと、僕はひと口含んで、気持ちを落ち着かせた。

 テーブルのうえにカップを置いた時、カツン、と音が鳴る。

「長い夢を見てたんだ。長く……、うん、本当に長い夢だったんだけど……」
「夢?」
「そう、現実としか思えないような。こんなこと急に言われても、困る、と思うんだけど、最後に気になるところで終わっちゃって……。だから村瀬に聞きたくなったんだ。答えを知っているのは、村瀬しかいないから」
「田中くんの夢の答えなんて、私には答えられないよ」
「ううん。これだけは、村瀬にしか答えられないんだ」

 僕はゆっくりと語りはじめた。過去を辿った僕の旅を、夢という表現に託して。他の話題だったなら、村瀬は困惑するか、もしかしたら、ふざけてるの、と怒って帰ってしまったかもしれないけれど、光のことならば、そうはならない、と僕は信じていた。僕たちにとって、空野光はあまりにも特別な存在だ。話の中で、すこしずつ彼女の表情は驚きに満ちていく。ただの夢の話じゃない、と村瀬ももう気付いているだろう。ときおり表情がつらそうになる彼女を見るたびに、僕は話をやめてしまいたくなる。僕は彼女を傷付けようと、追い込むために、糾弾するために、この話を聞かせたいわけじゃない。

 それが、どんな言葉でもいい。村瀬の口から、村瀬の言葉で、あの日のことを聞きたい。何を知ったところで、過去は変わらない。そんなこと分かっている。

 過去を知りたいのは、未来を見失わないためだ。

 村瀬は取り乱したりはせず、静かに僕の話に耳を傾けていた。一言一句、言葉を聞き逃したりはしない、と記憶の中にある情景を噛みしめているのが、彼女の様子からしっかりと伝わってくる。

「なんで、嘘をついたのか、知りたくて。大竹が、倒れた、って……」
「村瀬にしか答えられない、って、最初に田中くん言ってたけど、やっぱり、それ私には答えられない」
「それは――」
「あっ、勘違いしないで。別に、答えたくない、とか。そんなんじゃなくて、私にも分からないんだ。あの時の、私自身の心が。田中くんとの待ち合わせを遅らせてめちゃくちゃにしてやりたかった、とか、みんなが自分の望む道を歩いている姿に置いてけぼりにされているような感覚が悔しくて仕方なかった、とか、そんなことなのかもしれないし、でも違うような気もする。たったひとつの明快な言葉で、表すことができない。きっと、色々な感情が頭の中でぐるぐる回って、何か、何か言わなきゃ、って絞り出した言葉だから。こんな答えは、卑怯だ、と思う?」
「僕が聞きたかったのは、正しい答えじゃなくて、村瀬の答えだから」

 許す許さないの判断ができるとしたら、それは光本人か、光の家族くらいだ。それを僕が、村瀬自身が決めてしまっていいものではないだろう。

「ありがとう……」

 村瀬は身体を震わせている。僕は机のうえに置かれた彼女の手に、自分の手を重ねる。こういう時、どうしていいか分からない中年男の慣れない行動にまた、くすり、と村瀬が笑う。

「笑うなよ」
「いや、馬鹿にしてるわけじゃないよ。優しいな、って思って。昔、ひどいこと言って、ごめんね。あの頃は分からなかったんだ。なんで、光が田中くんのこと好きなのか」
「えっ?」
「そう言えば、さっき話の途中に、さ。なんか光が大竹くんのこと好き、みたいに言ってたけど、私の嘘で惑わせちゃったんだよね。本当に、ごめんね。光が好きなひとは、田中くんじゃない、なんて嘘までついちゃって。あの時、光の表情を見て、すぐに気付いたよ」

「それって……」

 過去に行った時に見た、ある会話がよみがえる。村瀬もあの時の会話のことを言っているのだろう。
 長い付き合いだから、すぐに分かる。光がどう返事するのか、どっちを選ぶのか。
 村瀬が光にそんなふうに言っていた、あの場面だ。

 あぁそうか。
 想いがほおをつたっていく。

「光が好きだったの、田中くんだよ」
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