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第2章
1 刺傷
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藤堂が由紀子にコンタクトしたのは、例の転落事件について黙秘していることに対しての身勝手な疑いだった。つまり、脅迫されるのではないかと怯えていたのである。
「それで、貴女はいったい、私から何を毟り取るつもり?おカネ?地位?それとも単に、嗜虐趣味を充たしたいだけかしら?」
眼光が濁っている視線を向けられるのは、非常に不快だった。
ただでさえ、恨み骨髄の相手である。苛立ちは募った。だが、振り切って帰ることは簡単であるが、騒ぎにされるとせっかく秘匿していた事柄が、智行に伝わってしまう。
「まずはその手を離して。私には貴女への関心はまるでないの。何も求める気はないから、私の関わらないところで、自由に生きて頂戴」
言われて藤堂は乱暴に由紀子を手で振り払うと、
「そんな筈ないじゃない!!そうだわ!!きっとお爺様の資産を狙っているのよ!!」
勝手に結論付けて、藤堂は喚く。
通行人が何事かと振り返った。
確かに彼女の祖父は、比較的大きな事業を営んでおり金持ちの部類ではあるが、「だからどうしたの?」と訊きたくなる程度のレベルである。何よりも、由紀子自身が、高額納税者である。強請ってまで金銭を手にする意味はないが、藤堂には理解できないのであろう。
「もういいかしら?お金は私自身が相当稼いでいるし、地位もそれなり、まして貴女の不快な顔なんて、二度と見たくないくらいだわ。私と智行には関わらないでね?そうでないと私、口が軽くなって、警察に例の事件の証拠を提出しなければならなくなるわ」
一気に言い切り、背を向けた。
これで終わり。そう思っていた。
だが———。
引き攣るような痛みが腰に走り、その後、その痛みが耐え切れない熱さに変わった。発熱に眩暈が襲って来た。そして、急激な体温低下———。
由紀子の腰には刃物が刺さっていた。
束しか見えないが、刃渡りはどれくらいだろう……。視界が白濁していく中で、こんなに頭の弱い女相手に私は———、と考えたところで意識が落ちた。
荒野の世界から戻ってきてすぐ、時間を確認するためにスマートフォンを確認すると、夥しい着信が記録されていた。特に多いのは由紀子の母である。
明らかな変事に慌ててリダイアルするが、こちらからでは繋がらない。
仕事の同僚や、由紀子を挟んでの友人などにもリダイアルするが、やはり出ないか電源を切っている。
厭な予感がした。
その時、待っていた由紀子の母からの連絡があった。
飛びつくように電話に出ると、
「智行さん、由紀子が危ないわ。市民病院へ出来るだけ早く着て頂戴。貴方、あの子と血液型がまったく同じだったわよね?」
「ええ、ええ、そうですとも!!いったい何が起こったって言うんです」
「いまは時間が無いから、病院でね。耳の早いニュースになら、多少は出ているかもしれないわね」
そう言って電話は切られた。
思考停止すること五秒、学会出張の慣れで、すぐさまに外出の準備と簡単な宿泊セットを作り上げると、タクシーを呼んだ。過眠症が発症してからは、危険から自家用車を処分してしまっていたのである。
待ちながらニュースサイトを漁ると、匿名ではあるが、会社経営の女性として、由紀子が刺されたのだと判断できる情報を入手出来た。相手は誰か———。元助手の藤堂であった。確執があったとは聞いていなかった。だが直感した。知らなかっただけで、知っておくべきだったことは、おそらく思っているよりも多いのだ。
タクシーに飛び乗り、行き先を告げて意識を集中した。薄膜を弾いたというような感覚の後に、テセウスと繋がった。
———元妻が襲われて刺された。
———こちらは気にしなくていい。やらねばならないことをしろ。
テセウスは何も追求せず、加藤も告げなかった。
運転手から声が掛かるまでの記憶はない。
ただ、病院までが酷く遠かったことだけを憶えている。
テセウスの目覚めは最悪であった。
何故、目覚めてしまったかと後悔するほどであった。
自分は、気狂いを起こして、愛した妻の腕を貪り食ったのである。
忘れていたことに絶望と罪悪感を覚え、胸を掻き毟りたいような自己嫌悪から、何度も吐いた。気づかなかっただけで、自分は既に、人間ではなかったのである。
イオからは、幸いにして、カトウの協力により、ヒト型侵食獣となることは避けられたと説明された。また、それにより、どちらかというとイオに近い存在になったとも———。イオとこうして交流を持つ前であったら、化け物になってしまったと、自死を選んだことであろう。
アストライアとペルセウスが外界からの情報遮断をしてくれたお陰で、考える時間だけはたっぷりとあった。
「なぁ、イオ。オレの身体は、調べたらどんな結果が出るのか判るか?」
「それって、テセウスが侵食獣と判断されるかってことかな」
衒いもなく、イオが応える。
実際、それが気に掛かっていた。もし検査機器に引っ掛かるようならば、都市には立ち寄れなくなる。定住など以ての外である。
「そうだねぇ……、まず、身体能力は異常値を示すだろうね。ただし、体組織的に見ると、通常の人体と変わらないと思う。実際、私も興味本位で検査機器に掛かってみたことがあるけど、普通のヒトと同じ結果が出たよ」
「イオ、おまえ、体組織的には人間と変わらないのか」
「うん、そういう風に身体を創っているからね。逆に、まったく異なる生命体の振りも出来る」
そうか……、と、テセウスは黙った。黙考しつつ、街の目抜き通り方面を眺める。人々はそこで日常を営み、そして家族と共にいずれ死んでいく———。だが、イオの言では、テセウスはもう、易々とは死ねない身体になったとのことだった。イオほど万能ではないが、それでも人外と呼ぶに相応しい。
これで益々、まっとうな生活は出来なくなったな———。
未練と爽快の狭間で、テセウスは逃げる算段をしていた。こういう時には、状況が見えるまで、身を隠した方が結果は良い。
———妻の亡骸を貪った男が、死にたくても死ねない身体か……。
自棄になったような心地で、テセウスは外出の準備を始めた。いつもの戦闘衣に二刀、装甲バックパックである。警備システムは、寝ている間に設定されていた「攻性」のまま、不在を隠すこととした。
冬が近く、空が高くなってきている。
デネブは死ななかった。アーテナイの滅びの日、本当はあの場で死んでいた筈の自分が、一助となれた。
肌寒くなった外気を浴びながら、イオの陽炎の結界に身を潜ませた。
ヘリントスにも世話になったが、これを棄て、新たな目立たないキャリアを購入する必要があるかもしれない。敵討ちは終わったが、それでもまだ、生活は続いていくのだ。
加藤はタクシーを釣りも受け取らずに降りると、救急搬送口を目指した。夜間診療と救急の受付があることを、前回の転落事故で憶えていた。
待合エリアには由紀子の母が居り、その他、連絡のつかなかった知人の姿が幾つかあった。由紀子の所在を訊くと、救急救命室に付属のICUに搬送されたらしい。
「お義母さん、由紀子の容態は?」
「出血が酷くて……。刺さった場所は悪くなかったようなのだけど、周囲の方が怖がってしまって、通報が遅くなったの」
状況で想像するよりは、義母は冷静だった。と言うよりも、冷静であろうとしていた。時折表情に滲む怒りは、藤堂に向けてか、或いは自分に向けてか———。
急ぎ看護師に声を掛け、採血を行った。
ふらつきながら待合スペースへ戻ると、声を潜め、小さな声で話し掛けてきた。
「口止めされていたのだけれど、貴方たちの離婚の原因も今回の犯人なのよ。あの女が、事業を始めたあの子を、智行さんから離れた自分勝手な妻と詰ってね……」
知らなかった。知らなければならなかった。
「転落、流産については、あの女の仕出かしたことだったの。どれだけ口惜しかったか……。でもね、貴方が知ったら自分を責めるだろうからって、すべてを呑み込んで……」
義母は、手にしたバッグの持ち手を強く、指が白くなるほどに握り込んだ。
遮るべきでないと、視線で先を促した。
「警察から動機を聞かされたわ。前回の件で責められていないから、脅迫されるのかと思ったって……。なんて身勝手」
ようやく、義母の眦から、一筋だけ雫が頬を伝った。
「黙っていたのは私の判断もあるし、責められない。けど、貴方は気づく努力を怠った。それは忘れないで頂戴」
きっぱりと言い切り、そして席を立った。
「どちらへ?」
「少し頭を冷やして来ます。不景気な表情をしていても、あの子は治らないわ」
「それで、貴女はいったい、私から何を毟り取るつもり?おカネ?地位?それとも単に、嗜虐趣味を充たしたいだけかしら?」
眼光が濁っている視線を向けられるのは、非常に不快だった。
ただでさえ、恨み骨髄の相手である。苛立ちは募った。だが、振り切って帰ることは簡単であるが、騒ぎにされるとせっかく秘匿していた事柄が、智行に伝わってしまう。
「まずはその手を離して。私には貴女への関心はまるでないの。何も求める気はないから、私の関わらないところで、自由に生きて頂戴」
言われて藤堂は乱暴に由紀子を手で振り払うと、
「そんな筈ないじゃない!!そうだわ!!きっとお爺様の資産を狙っているのよ!!」
勝手に結論付けて、藤堂は喚く。
通行人が何事かと振り返った。
確かに彼女の祖父は、比較的大きな事業を営んでおり金持ちの部類ではあるが、「だからどうしたの?」と訊きたくなる程度のレベルである。何よりも、由紀子自身が、高額納税者である。強請ってまで金銭を手にする意味はないが、藤堂には理解できないのであろう。
「もういいかしら?お金は私自身が相当稼いでいるし、地位もそれなり、まして貴女の不快な顔なんて、二度と見たくないくらいだわ。私と智行には関わらないでね?そうでないと私、口が軽くなって、警察に例の事件の証拠を提出しなければならなくなるわ」
一気に言い切り、背を向けた。
これで終わり。そう思っていた。
だが———。
引き攣るような痛みが腰に走り、その後、その痛みが耐え切れない熱さに変わった。発熱に眩暈が襲って来た。そして、急激な体温低下———。
由紀子の腰には刃物が刺さっていた。
束しか見えないが、刃渡りはどれくらいだろう……。視界が白濁していく中で、こんなに頭の弱い女相手に私は———、と考えたところで意識が落ちた。
荒野の世界から戻ってきてすぐ、時間を確認するためにスマートフォンを確認すると、夥しい着信が記録されていた。特に多いのは由紀子の母である。
明らかな変事に慌ててリダイアルするが、こちらからでは繋がらない。
仕事の同僚や、由紀子を挟んでの友人などにもリダイアルするが、やはり出ないか電源を切っている。
厭な予感がした。
その時、待っていた由紀子の母からの連絡があった。
飛びつくように電話に出ると、
「智行さん、由紀子が危ないわ。市民病院へ出来るだけ早く着て頂戴。貴方、あの子と血液型がまったく同じだったわよね?」
「ええ、ええ、そうですとも!!いったい何が起こったって言うんです」
「いまは時間が無いから、病院でね。耳の早いニュースになら、多少は出ているかもしれないわね」
そう言って電話は切られた。
思考停止すること五秒、学会出張の慣れで、すぐさまに外出の準備と簡単な宿泊セットを作り上げると、タクシーを呼んだ。過眠症が発症してからは、危険から自家用車を処分してしまっていたのである。
待ちながらニュースサイトを漁ると、匿名ではあるが、会社経営の女性として、由紀子が刺されたのだと判断できる情報を入手出来た。相手は誰か———。元助手の藤堂であった。確執があったとは聞いていなかった。だが直感した。知らなかっただけで、知っておくべきだったことは、おそらく思っているよりも多いのだ。
タクシーに飛び乗り、行き先を告げて意識を集中した。薄膜を弾いたというような感覚の後に、テセウスと繋がった。
———元妻が襲われて刺された。
———こちらは気にしなくていい。やらねばならないことをしろ。
テセウスは何も追求せず、加藤も告げなかった。
運転手から声が掛かるまでの記憶はない。
ただ、病院までが酷く遠かったことだけを憶えている。
テセウスの目覚めは最悪であった。
何故、目覚めてしまったかと後悔するほどであった。
自分は、気狂いを起こして、愛した妻の腕を貪り食ったのである。
忘れていたことに絶望と罪悪感を覚え、胸を掻き毟りたいような自己嫌悪から、何度も吐いた。気づかなかっただけで、自分は既に、人間ではなかったのである。
イオからは、幸いにして、カトウの協力により、ヒト型侵食獣となることは避けられたと説明された。また、それにより、どちらかというとイオに近い存在になったとも———。イオとこうして交流を持つ前であったら、化け物になってしまったと、自死を選んだことであろう。
アストライアとペルセウスが外界からの情報遮断をしてくれたお陰で、考える時間だけはたっぷりとあった。
「なぁ、イオ。オレの身体は、調べたらどんな結果が出るのか判るか?」
「それって、テセウスが侵食獣と判断されるかってことかな」
衒いもなく、イオが応える。
実際、それが気に掛かっていた。もし検査機器に引っ掛かるようならば、都市には立ち寄れなくなる。定住など以ての外である。
「そうだねぇ……、まず、身体能力は異常値を示すだろうね。ただし、体組織的に見ると、通常の人体と変わらないと思う。実際、私も興味本位で検査機器に掛かってみたことがあるけど、普通のヒトと同じ結果が出たよ」
「イオ、おまえ、体組織的には人間と変わらないのか」
「うん、そういう風に身体を創っているからね。逆に、まったく異なる生命体の振りも出来る」
そうか……、と、テセウスは黙った。黙考しつつ、街の目抜き通り方面を眺める。人々はそこで日常を営み、そして家族と共にいずれ死んでいく———。だが、イオの言では、テセウスはもう、易々とは死ねない身体になったとのことだった。イオほど万能ではないが、それでも人外と呼ぶに相応しい。
これで益々、まっとうな生活は出来なくなったな———。
未練と爽快の狭間で、テセウスは逃げる算段をしていた。こういう時には、状況が見えるまで、身を隠した方が結果は良い。
———妻の亡骸を貪った男が、死にたくても死ねない身体か……。
自棄になったような心地で、テセウスは外出の準備を始めた。いつもの戦闘衣に二刀、装甲バックパックである。警備システムは、寝ている間に設定されていた「攻性」のまま、不在を隠すこととした。
冬が近く、空が高くなってきている。
デネブは死ななかった。アーテナイの滅びの日、本当はあの場で死んでいた筈の自分が、一助となれた。
肌寒くなった外気を浴びながら、イオの陽炎の結界に身を潜ませた。
ヘリントスにも世話になったが、これを棄て、新たな目立たないキャリアを購入する必要があるかもしれない。敵討ちは終わったが、それでもまだ、生活は続いていくのだ。
加藤はタクシーを釣りも受け取らずに降りると、救急搬送口を目指した。夜間診療と救急の受付があることを、前回の転落事故で憶えていた。
待合エリアには由紀子の母が居り、その他、連絡のつかなかった知人の姿が幾つかあった。由紀子の所在を訊くと、救急救命室に付属のICUに搬送されたらしい。
「お義母さん、由紀子の容態は?」
「出血が酷くて……。刺さった場所は悪くなかったようなのだけど、周囲の方が怖がってしまって、通報が遅くなったの」
状況で想像するよりは、義母は冷静だった。と言うよりも、冷静であろうとしていた。時折表情に滲む怒りは、藤堂に向けてか、或いは自分に向けてか———。
急ぎ看護師に声を掛け、採血を行った。
ふらつきながら待合スペースへ戻ると、声を潜め、小さな声で話し掛けてきた。
「口止めされていたのだけれど、貴方たちの離婚の原因も今回の犯人なのよ。あの女が、事業を始めたあの子を、智行さんから離れた自分勝手な妻と詰ってね……」
知らなかった。知らなければならなかった。
「転落、流産については、あの女の仕出かしたことだったの。どれだけ口惜しかったか……。でもね、貴方が知ったら自分を責めるだろうからって、すべてを呑み込んで……」
義母は、手にしたバッグの持ち手を強く、指が白くなるほどに握り込んだ。
遮るべきでないと、視線で先を促した。
「警察から動機を聞かされたわ。前回の件で責められていないから、脅迫されるのかと思ったって……。なんて身勝手」
ようやく、義母の眦から、一筋だけ雫が頬を伝った。
「黙っていたのは私の判断もあるし、責められない。けど、貴方は気づく努力を怠った。それは忘れないで頂戴」
きっぱりと言い切り、そして席を立った。
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「少し頭を冷やして来ます。不景気な表情をしていても、あの子は治らないわ」
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