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第8話 寄生虫と遊ぼう

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「ニクシロンの写真……ていうのかな、画像を作って県警のおっさんに送っといたよ」
 学校の別館屋上に茶々と龍生の姿があった。
 いつもの場所に並んで座っている。
 二人の頬を秋の気配を乗せた風が優しく撫でる。
 風に秋の気配は感じるが、まだ暑さが残っている。
 軽く汗ばむ陽気だ。
 いつものように茶々が二人の間を詰めて龍生と密着している。
 最近では、龍生もその状態には慣れた。
 風が茶々の汗の匂いを運び龍生の鼻腔にまとわりつく。
 茶々は、じっとりと汗ばむと仄《ほの》かにサンオイルのような匂いが立つ。
 その匂いを嗅ぐと龍生も男が勃つのを抑えられない。
 もう茶々の汗の匂いが勃起を導く記号として龍生の記憶に刻まれてしまった。
「画像を作った? モンタージュ写真とか?」
 股間の窮屈さを隠しながら、龍生が訊いた。
「うん。作った。モンタージュじゃねえな。似顔絵でもない。めっちゃ斬新なハックだぜ」
 茶々は得意満面だ。
「鼻の穴が膨らんでるよ」
 龍生が茶々の顔を見て嬉しそうに言った。
 茶々は、得意になっているとき、鼻の穴を膨らませる癖がある。
「そうか? そりゃ鼻も膨らむってもんだぜ」
「そんなにすごい技を使ったの?」
 龍生が興味津々といった様子で茶々を見つめた。
「おい、そんなにしげしげ見んなよ。恥ずいじゃん」
 茶々が赤面した。
「あ、ごめん、ごめん」
 龍生も顔を紅潮させた。
「あのさ、龍生。お前、秘密守れるか?」
「え? なに、急に?」
 急に茶々が真剣な顔で訊いてきたので龍生も身構えた。
「いや、どうやってニクシロンの画像を作ったかっていうことなんだけどよ。ちょっと、いや、ちょっとじゃねえな。めちゃくちゃ異常なやり方だったんだよ。それを人に知られると困るんだ。だから、お前が秘密を守ってくれないと話せねえ」
 茶々の真剣な話し方に、さっきまで勃起していた龍生のペニスがおとなしくなった。
「ちゃーちゃんが秘密にしろっていうなら、墓場まで持っていくよ」
 大げさな表現ではあったが、茶々に対しては、それくらいの気持ちで向き合っているつもりだった。
「信じるぞ」
 茶々が龍生の顔を見上げた。
「約束する」
 龍生が笑顔で誓った。
「安っぽい小説みたいな話だからな。笑うなよ」
 自分でも荒唐無稽《こうとうむけい》な話だという自覚がある。
「笑わないようにするけど、笑わせといて後でお仕置きとかやめてよ」
 龍生は、ときどき茶々が罠を仕掛けることがあるので、それを警戒した。
ごじゃっぺバカ! 真面目な話なんだ。そんなことするわけねえだろ」
 茶々はムッとした。
「ごめん、ごめん」
 龍生が手を合わせて謝った。
「じゃ、まあ話すぞ」
「うん」
「あたしのこと嫌いになるなよ」
「大丈夫、ずっと好きだから」
「ん? いまなんて言った?」
「嫌わないって言った」
「そうか、なんか好きって言われたような気がした」
「空耳だよ」
「そうだよな、幼稚園の頃から一緒のお前に好きとか言われてもちゃんちゃらおかしいからな」
「う、うん……」
 茶々は、ひとつ大きく深呼吸をした。
 龍生に話をした場合、気持ち悪がられて嫌われる可能性がある。
 かといって、萌の存在を隠しておくのも気持ち的にすっきりしない。
 ここは龍生の人間性に賭けるしかない。
 茶々は、意を決した。
「実はな、あたし、寄生虫に感染してるんだよ」
 いつも元気に話す茶々が、虫の鳴くような声で虫の話をした。
「へー、そうだったんだ。駆除すればいいんでしょ?」
 龍生は、まったく驚いた様子もなく平然としている。
「駆除? 駆除なんてできねえよ」
 茶々は頭《かぶり》を振った。
「駆除しなくて平気なの? 病気になったりするんじゃないの?」
 龍生の疑問はもっともだった。
「普通の寄生虫だったらな。でも、あたしについてる寄生虫は、虫そのものは、人間に害を与えない種類らしいんだ」
 茶々は、どこからどう説明をしていいのか混乱していた。
「じゃあ、その寄生虫がいても日常生活に問題はないっていうことなんだね」
「そういうこと」
「わかった。で、その寄生虫がどうかしたの?」
「しゃべるんだよ」
「は?」
 龍生の口が開いたまま閉じなくなった。
「いや、ちょっと待ってよちゃーちゃん。寄生虫がしゃべるわけないでしょ。ちゃーちゃん、どうかしちゃった? 熱あるとかじゃない?」
 しばらく呆然としていた龍生が、慌てたように茶々のおでこに手を当てた。
「やっぱりキチガイになったかと思うよな」
 茶々は涙ぐんだ。
 これで龍生とは終わったかもしれないと思った。
「龍生、お前、寄生虫がしゃべるとは思わなかっただろ」
「当たり前だよ。そんな寄生虫聞いたことない」
「なんで知られてないか分かるか?」
「え……わかんない」
「この寄生虫に感染した人は、ほとんどが発狂して自殺するからだよ」
「なにそれ、害を与えないどころか最悪じゃん」
 龍生が青い顔をしている。
「お前もあたしがキチガイになったと思ってるだろ」
「いや、そ、そんなことは……」
 龍生は口を濁した。
「いいんだ、遠慮すんな。本当のことを言えよ」
「ちょっと、思った……」
「そうだろ。それが普通なんだよ。寄生虫がしゃべるなんてあり得ないことだからな。だから、そう言ってる人が死んでも『あ、あのキチガイが死んだ』で片付けられるんだよ。誰も寄生虫のせいだとは思わずにな」
「なるほど、道理だね」
 龍生は、少し落ち着きを取り戻した。
「なんでこの寄生虫に感染するとキチガイになるかっていうとな、この寄生虫は声を出してしゃべるんじゃなくて、脳に直接意識として言葉を送り込んでくるからなんだ」
「なんか、すごいことになってるんだね。もっと詳しく教えて」
 さっきまで驚愕していた龍生が茶々の説明に関心を示し始めた。
 茶々の説明が理路整然としていて、とても気が触れた人の話し方とは思えなかった。
「寄生虫は、意識として言葉を送り込んでくる。だから寄生虫の声を聞くことは、感染した本人にしかできない。そんでもって、寄生虫の方は、宿主の音声として発した言葉も、頭の中で考えた思考、あ、これは言語化されたものだけらしいんだけど、どっちでも取り込めるんだと。でもな、意識で寄生虫と会話できるってことに気づける人間は、ほとんどなくて、たいていは言葉に出してしゃべろうとする。そうすると、ひとりでぶつぶつしゃべってる変な人ができあがるっていうわけだ。よくいるだろ、ひとりでしゃべってる奴。この寄生虫に感染してるかもしれないぞ」
 茶々が萌から教わったことと、実体験で学んだことを交えながら説明した。
「それでな、誰もいないのに自分じゃない誰かの声が聞こえてくるっていう状況を、龍生、お前だったらどう思う?」
 茶々は、龍生に話を振った。
「え、誰もいないのに声が聞こえてくるっていう状況だよね。それって、頭がおかしくなった人がよく言うこと」
「そうだろ。ていうか、頭がおかしくなったからそういうことを言ってるんじゃなくて、本当に聞こえちゃってるから頭がおかしくなったんだよ、そういう人は」
「なるほどねえ、そういうことだったんだ」
 龍生は、茶々の話が腑に落ちたようだった。
「いや、ごめん。ちょっとでもちゃーちゃんがおかしくなったんじゃないかって疑っちゃって」
 龍生が頭を下げた。
「そんなこんなで、今あたしの身体の中にいる寄生虫に感染すると、ほとんどの人が発狂して自殺しちゃうんだと。あたしは、ものすごいレアケースらしいよ」
 茶々は、やれやれといった感じで手のひらを上に向けて肩をすくめた。
「ちゃーちゃんが自殺しなくてよかったよ」
 龍生が心底安堵した顔になった。
「それから、もうひとつ重要なことがある」
「え、なに?」
 龍生が身構えた。
「この寄生虫は、感染するのが人間だけで、女が中間宿主、男が終宿主らしいんだな。しかも、その間の行き来はエッチがきっかけになるっていう話なんだ」
「性感染症みたいなもの?」
 龍生は飲み込みが早い。
 茶々の簡単な説明でシムオフンニのライフサイクルをだいたい理解した。
「そうそう。だから、あたしとエッチした男は、この寄生虫に感染するってことだよ」
「そんな……」
 龍生は頭を殴られたようなショックを受けた。
「おい、なんでお前がショックを受けてるんだよ。それって、お前があたしとエッチするっていう前提だよな? お前、なんか勘違いしてねえか?」
 茶々が苦笑した。
「あたしがエッチの相手に感染させちまえば、あたしは元通りになれる。でも、感染させた相手の男を発狂させることになるわけで」
 茶々の説明を聞いた龍生が唾を飲み込んだ。
 その次に発せられる茶々の言葉が予想できたからだ。
「あたしが人殺しになっちまうんだよ。だから、あたしは一生エッチできない身体になっちまった」
 龍生は、さらに強いショックを受けた。
 ショックのあまり龍生の頭が傾いた。
「いや、でもさ、その寄生虫がしゃべれるっていうことが分かってる相手だったら発狂することもないんじゃない?」
 龍生が思い直して、というか食い下がった。
「発狂する理由は寄生虫がしゃべることだけじゃねえ。感染した人間を淫乱にしちまうんだ。有り余る性欲に耐えられなくて自殺するんだよ」
 茶々が淡々と話した。
「ちゃーちゃんも?」
「ああ」
「でも、ちゃーちゃんは淫乱にもなってないし、自殺もしてないよ」
 龍生が無意識に際どいことを口走った。
「あたしが淫乱かどうかなんて、お前には分かんねえだろ。お前に見せてないだけかもしれねえじゃん」
 茶々は、少し悲しそうな顔をした。
「そりゃまあ、そうだけど」
 龍生は否定できなかった。
「とは言ってもな。まず、この虫と会話できるようになれば、虫が調節してくれる。自殺しなきゃならいほどの性欲をぶつけられることはなくなるみたいだ」
「そうなんだ」
「そうなれば、この虫と生活することは苦じゃなくなる。むしろ楽しいぞ」
 茶々が笑った。
「楽しいの?」
 龍生には理解できなかった。
「そう、一緒に遊べるしな」
「遊べる?」
「そうだ。見るか?」
「見るって、何を?」
「虫だよ、虫」
「えーっ!? 虫って、ちゃーちゃんの体内にいるんでしょ? どうやって見るの?」
 龍生は目を丸くして驚いている。
「百聞は一見に如かずって言うよな。見せてやろうか?」
 ここまで来たら萌を見せてもいいだろうと思った。
「うん、見せて」
 龍生も自分でもよくわからない決心をした。
「萌、ごめん、ちょっと首から顔出してくれる?」
 鎖骨に巻き付いて昼寝している萌に声をかけた。
〝え、あ、いいわよ〟
「龍生、ここ見ろ。ここに虫がいるから」
 茶々は、ブラウスのボタンを外して胸を広げてみせた。
 白いブラウスの中から淡いグリーンのブラジャーと、そこからあふれそうなまん丸の乳房が現れた。
 龍生は、茶々の乳房に目が釘付けになった。
 初めて間近でブラジャーに包まれた女性の乳房を見た。
「見るとこが違う。ここだ、こっちの鎖骨のとこ。もこもこしてんだろ。ここに虫が巻き付いてるんだ。触ってみるか? 今からこの虫が動いてあたしの首から出てくるんで、腰抜かすんじゃねえぞ」
 茶々は楽しかった。
 龍生に肌を晒すのが快感になるとは知らなかった。
 水着のときは、まったくそういう気持ちにはならなかった。
 しかし、普通見せない状況で、普通見せない下着を見せるということがアブノーマルな喜びになっていた。
 龍生が乳房から鎖骨に目を移した。
 萌が動き始める。
「あ、動いた!」
 龍生が驚いて声を出し、後ずさった。
 萌は、自分の移動が見やすいように、皮下の浅いところを移動した。
 ミミズ腫れが、鎖骨から首の付け根へと移り、首を顎に向かって上り始めた。
 龍生は固唾を呑んで見入っている。
「痛くないの?」
 龍生が茶々に訊いた。
「ちゃんと麻酔成分を出しながら移動してくれるから全然痛くない」
 茶々は、恍惚の表情を浮かべている。
 首の中ほどまで上った萌は、皮膚を破るため中から外側に力を加えた。
 茶々の首から皮膚がべろんと剥がれてめくれた。
「おえっ」
 皮膚の裏側と、皮下の筋肉が見える状態になったのを直視してしまった龍生は、吐き気を催した。
「最初は気持ち悪いけど慣れるから。あたしもそうだった」
 龍生の気持ちを察して安心させようと思った。
「そうなんだ。慣れるもんなんだね」
 龍生は、手で口を押さえたまま答えた。
 皮膚が破けたところの筋肉から白い極太のミミズのような生き物が顔を出した。
「うわっ! 出た!」
 龍生が驚いて5メートルくらい後ろに飛び退いた。
 そして、そこで腰を抜かしている。
「あーあ、だから腰を抜かすなって言ったろ」
 茶々は大笑いしている。
 萌は、破いた皮膚の穴から10センチメートルくらい身体を出して、チンアナゴのように垂直に立った。
 腰を抜かした龍生は、四つん這いになり少しずつ茶々に近づいてきている。
「この虫は、萌っていう名前。呼んでみろよ」
「え、俺が呼んでも聞こえないんじゃない?」
「大丈夫、あたしが聞いた龍生の声を、萌があたしの意識から拾い上げてくれるから」
 茶々は余裕たっぷりに答えた。
「ふーん、じゃあ呼ぶよ」
「うん」
「も、萌さん」
 龍生は、萌から50センチメートルくらいまで近づいて声をかけた。
 萌がぺこりとお辞儀をした。
「わっ! お辞儀をしたよ! ほんとに聞こえてるの? ていうか、聞こえてるとしてもそれを言葉として理解できてるってすごい!」
 龍生が驚きながら喜んだ。
「ねえ萌」
〝なに?〟
「ちょっといたずらしちゃおうか」
〝えー、なにするの?〟
 萌が笑いながら誘いに乗ってきた。
「龍生の指に食いついてよ。そうしたら龍生、驚いて指を引っ込めるでしょ。そのまま萌がずるずる着いてきたら、龍生のやつめっちゃ驚くに違いないよ」
 茶々が意識の中で萌といたずらの打ち合わせをした。
〝ぷっ、面白そうね〟
 話がついた。
「なあ龍生」
「なに?」
 龍生は、萌から目が離せない。
 が、ときどき目を離して茶々の胸を見ているのは茶々も分かっている。
 茶々は、萌が首に移ったのでブラウスの前を閉めた。
 龍生が残念そうな顔をした。
「萌に触ってみ。頭の先を指先でちょこんって」
「え、触るの? なんか怖いんだけど」
「大丈夫。毒はないから」
「ほんとに?」
「ほんとだって」
 茶々に促されて、龍生は萌に右手の人差指を伸ばした。
 龍生の指が萌に振れた瞬間。
 ぱくっ
「う、うわーっ! 噛みつかれた!」
 萌が龍生の指に食いついた。
 龍生は、反射的に指を引っ込めた。
 人差し指に食いついた萌がずるずると茶々の首から引きずり出された。
「わー! わー! わー!」
 龍生がパニックに陥っている。
 それもそうだ。
 正体不明の寄生虫が自分の指に食いついて、指先にぶら下がっている。
 平常心でいられるわけがない。
 それを見て茶々はニヤニヤ笑っている。
「ちゃーちゃん、助けて!」
 龍生が助けを求めた。
「やっぱり驚くか」
「当たり前だよ。頼むから早く助けて」
 龍生は涙目になっている。
「萌、離してあげて」
 茶々は、龍生の指にぶら下がっている萌を優しく手で包んだ。
 くぽっ
 萌が口を離した。
「はー、びっくりした」
 龍生が指先を気にしながら肩で息をしている。
「萌、ありがとう。戻ってくれていいわよ」
 そう言って茶々は、手に包んだ萌を自分の首に開いた穴に差し込んだ。
 萌がにゅるにゅると穴に潜っていく。
 茶々は、その感覚を楽しんでいる。
 一旦、全身を茶々の体内に入れて身体を湿らせた萌は、もう一度穴から顔を出した。
「ね、かわいいでしょ」
 茶々が萌の頭を撫でながら言った。
「うーん、よく見ればそんなに気持ち悪くないかも」
 龍生が落ち着きを取り戻し、萌をじっと観察している。
「ねえ、ちゃーちゃん」
「なんだ」
「さっき、萌さんのライフサイクルを教えてもらったよね」
「ああ、エッチで感染するってことな」
「そうそう」
「だから、あたしはエッチできない身体になっちまったってこと分かったな?」
「必ずしもそうじゃないんじゃない?」
 龍生が何か思いついたようだ。
「どういうことよ?」
「ほら、萌さんと会話できることがわかっていれば、感染しても発狂しないわけでしょ」
「そうだな」
「で、萌さんがエッチで、ちゃーちゃんから相手の男に感染したら成虫になるわけじゃん」
「そうだよ」
「その男の精液に萌さんの卵が混ざる、と」
「そうそう」
「その男と女の人がエッチすると、その女の人に卵が産み付けられるわけだね」
「そういうこと」
「ということはね」
「ということは?」
「ちゃーちゃんと俺との間だったら、萌さんを循環させることができるんじゃない?」
「はい?」
 茶々は、龍生のアイデアの意味は理解した。
 萌の生態を知っている男女間なら、萌を循環させることができるのではないか。
 確かにそうだ。
 しかし、なぜそこに自分と龍生を持ってくる。
 この男は、付き合ってもいない自分とエッチをすることを前提とした話をして、おかしいと思わないのか。
 茶々は、正直嬉しかったが、顔には出さなかった。
「あのね龍生、なんであたしとお前がエッチする前提なの? バカなの?」
 茶々は、わざと怒ったような言い方をした。
「あ!」
 龍生は、自分が言った言葉の意味をようやく理解したようだった。
「ごめん! 今言ったことは取り消し! なし!」
 慌てて発言を取り消そうとした。
「ダメだ。一度言ったことは取り消しできない」
 茶々が無愛想に遮った。
「えー、ダメなの?」
 龍生が困ったような顔をした。
「今の発言は、セクハラだから。罰として帰りにアイスおごれ」
「それで許してもらえるならいいよ」
 龍生が渋々承服した。
「そこでだ、ここまでがニクシロンの画像生成の前振りなんだよ」
 茶々が思い出したように話題を元に戻した。
「いや、なんていうか前振りが衝撃的すぎて本題なんてどうでもいい感じになったんだけど」
 龍生が汗を拭いた。
「じゃあ、やめとくか」
 茶々がニヤリとした。
「あ、ごめん。そうじゃなくて、聞きたいです」
「そうだろ。よし、教えてやるよ」
 茶々がわざとらしく咳払いをひとつした。
「萌は、言語能力がすげえんだ。あたしが口に出さなくても頭で考えただけで全部読み取っちまう。いいことも悪いことも全部だ」
「ふんふん、なるほど」
 龍生が頷いた。
「それでだ。あたしの思考を横取りできるんだから、頭で考えた視覚イメージもセッションハイジャックできるんじゃねえかって考えたわけよ」
 茶々が得意気に続けた。
「もしセッションハイジャックできたとして、それがバイナリだったら萌には表現のしようがないわけだろ? だから、バイナリをテキスト化できるように萌にBASE64のRFCをレクチャーしたさ」
「それは、さすがの萌さんでも無理なんじゃないの?」
 龍生が首をひねった。
「ていうか、龍生、お前セッションハイジャックとかBASE64とか説明なしで分かんのけ?」
 茶々は、龍生がごく自然に専門用語を理解してしまったことに驚いた。
「あ、うん、それくらいの知識はあるから」
 龍生が少し慌てたような様子で答えた。
「そうなんだ。勉強だけじゃねえんだな。頼もしいわ」
 茶々が嬉しそうな顔をした。
 龍生とコンピュータ関連で話が合うかもしれないと思った。
「あたしもさ、最初は無理だろうと思っていたんだ。でも、BASE64のRFCを説明したら、萌は、あっさりこれを理解しちゃってさ。もしかしたらできるんじゃないかって思うようになったんだ」
「へー、萌さんってすごいんだね」
 龍生も感心しながら萌を見つめた。
 萌が身体を左右に揺らして応えた。
「ていうことで、あたしがニクシロンの顔を思い浮かべて、それを萌がセッションハイジャックしたらBASE64でエンコードするっていう作業に挑戦したんだな、これが」
「それは、確かにすごいハックだよ」
 龍生が興奮気味に言った。
「だろ」
 茶々の鼻が広がった。
「萌が画像イメージをセッションハイジャックするまで、ちょっと時間がかかったけど、ちゃんとヘッダーからエンコードできたんだよ!」
「すごいね! それがあの画像っていうわけだ!」
 龍生が萌の頭をつんつんしながら楽しそうに言った。
「そうそう。世界初の寄生虫による思考の可視化だぜ」
「学会発表したら大騒ぎになりそうだね」
「そうだな。でも、あたしは萌との関係を公表したくねえから、お前にしか言わない」
「うん、教えてくれてありがとう。ところで」
 龍生が礼を言った。
「ところで?」
 茶々が龍性を見つめた。
「萌さんがちゃーちゃんの思考を横取りできるっていうことだけど、ちゃーちゃんがエッチなことを考えたら、それも萌さんに横取りされるの?
 龍生が真剣に訊いた。
「お前、実は、とんでもない変態なんじゃねえのか?」
 茶々が呆れ顔をした。
「もちろん。あたしが考えればそうなるけどよ」
「へー、じゃあ、ひとつ俺が萌さんに質問してみたいんだけど」
 龍生はニコニコしている。
「エッチなことっていうところで出てきた質問が嫌なんだけど」
 茶々が警戒した。
「あ、全然エッチなことじゃないよ」
 龍生が手を振って否定した。
「そうか、ならいいぜ。萌に訊いてみろよ。待てよ、萌に断らないと。萌、いいかしら?」
〝龍生君の質問に答えるコーナーね、いいわよ〟
「いいってよ」
 茶々が萌の答えを龍生に伝えた。
「萌さん、ありがとう。じゃあ、質問は一つだけです」
 そう言うと、龍生は少しの間沈黙した後、意を決したように顔を上げた。
「萌さん、ちゃーちゃんは、俺のことが好きですか?」
 一瞬の沈黙。
「って、おい! 龍生、てめー、なんてこと訊いてんだよ!」
 茶々が顔を真っ赤にして怒った。
 ただし、その目にはいつもの凶悪さがない。
〝宿主殿〟
「答えなくていい! 答えなくていいから! ね、ね」
 茶々は、萌に懇願した。
〝でも、質問に答えるっていう約束よ。これは私と龍生君との間の約束だわ。宿主殿に止める権利はないわよ〟
「う……そりゃそうだけど……でも、思考を抜かれるのは私なのよ。その私が関与できないって、その質問は反則よぉ」
 茶々の眉毛は、これ以上下りようがないというくらい下がってハの字を描いている。
「ねえ萌、萌の答えは私しか聞けないでしょ。答えはちゃんと言ってくれていいけど、私がちょっと意訳して伝えてもいいかしら?」
 茶々は、妥協案というか、なんとかごまかせる手はないかと考えた。
〝茶々〟
「はい」
 萌が茶々を宿主殿と呼ばずに名前で呼ぶときは注意が必要だ。
〝あなたは私に?〟
「隷属してます」
〝私が命じたら?〟
「服従します」
〝私の言う答えを伝えなさい〟
 萌は優しく諭した。
「は、はい」
 茶々は、従うしかなかった。
 ここで逆らったら、どんなひどい目に遭わされるか分かったものではない。
 本当に殺されるかもしれない。
〝これは、私と龍生君の間の約束。あなたはただの口伝者でしかないの。私が言うとおり、一言一句間違いなく龍生君に伝えてね。改変も加除も許しません〟
「わ、わかりました」
〝いい子ね。じゃあ言うわよ〟
 茶々は、その場を走り去りたくなった。
〝茶々は〟
「茶々は」
 茶々が声に出して萌の言葉を復唱した。
〝龍生君を〟
「龍生君を」
 茶々は、恥ずかしくて涙が出てきた。
〝好き〟
「好き」
 とうとう茶々が両手で顔を覆った。
〝かどうか、私、萌には分かりません〟
「かどうか、私、萌には分かりません」
「えっ?」
 復唱した直後、茶々が顔を上げた。
「そっかあ、萌さんにも分からないんだね」
 龍生が苦笑した。
「ちょ、なんで分かんないの?」
 茶々が萌に訊いた。
〝言葉として読める情報がないからよ〟
「そ、そうなのね」
 茶々は、安堵した。
「なんで私の感情が読めないの?」
 茶々が萌に訊いた。
 なんでも読まれているので、てっきり自分の龍生に対する感情も読まれているものだと思っていた。
〝恋心は、昔から人々が可視化しようと努力してきてるわ〟
「恋愛小説とか詩とか歌とかっていうこと?」
〝そうよ。古くからたくさんの作家や詩人なんかが、様々な言葉や表現を使って可視化、要は言語化を試みてきてるわね〟
「うん」
〝でもね、言語化した途端、恋心は本人の感情から離れて、別の人の解釈によって理解されるものになってしまうのよ〟
〝だから、恋心を言語化するのは無理っていうこと。言語化できない感情こそが恋心なの〟
〝さっき龍生君に、宿主殿が龍生君を好きかどうか読んでくれって頼まれたけど、私には恋心を読むことができないの。『言語化されない感情』だから〟
〝宿主殿には分かるでしょ、この理屈。宿主殿がご自分でも龍生君への気持ちを言葉にして説明できないってこと〟
「分かりすぎるくらい分かる!」
〝ふふ〟
 萌が含み笑いをした。
〝宿主殿は、素直なお方ね。犯罪者には向かないわ〟
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