とがはらみ

藍上央理

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シーン2

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 美千代が、浅く息をつき、
「希の部屋を使いなさい。もう案内されたでしょう?」
 弱々しく命令した。
 戻ってきてはいない、帰るつもりだ、と叶は内心思ったが、まだそれを言う雰囲気ではない気がして黙っておいた。
 ちょうどお茶が持ってこられて、会話は途切れた。
 美千代の呼吸が「はっはっ」と小刻みになってきた。顔色も悪い。
「美千代さん、部屋に戻りましょう。手伝ってやってくれませんか」
 と、一夜がお茶を持ってきた女性に天水が言った。
「いいえ、まだ伝えることがあります。手伝う必要はありません。さがりなさい」
 女性は美千代の様子を気にしながら客間から出て行った。
 天水一夜が差し出した手を押しとどめ、美千代が続ける。
「今日から一夜は叶の婚約者です。一夜、いいですね?」
 叶は間髪入れずに、言い返す。
「あの、そんなこと聞いてません。私は姉のお葬式に来ただけです。お葬式が終わったらすぐ帰ります。なんで、勝手に婚約とか決めるんですか!」
「希が死んだのです。今から叶は菟上の当主なのですよ。当主は美豆神社の宮司と結婚するのは昔からの取り決めなのです。嫌も何もありません」
「当主になるとか結婚とか、全然納得できません。お葬式が終わったら帰りますから」
 感情のままに今すぐ帰ってしまったら、母親に迷惑がかかるかも、と叶は気持ちを抑えた。
 それまで険しい顔つきで叶を見据えていた美千代が、苦しそうに胸を押さえている。
「美千代さん……、部屋に戻りましょう」
 一夜が廊下に向かってさっきの女性を呼んだ。やってきた女性が美千代を支えて、部屋を出ていった。
 事情がわからない叶は、呆然とその様子を見ているしかなかった。
「あの……、美千代さんは」
 叶が一夜に訊ねると、
「美千代さんは病気なんだ。今日は無理をして君を出迎えたんだ」
 そうだったのか……、と叶は自分が美千代に対して語気を荒げたことを後悔する。
「すみません」
「君は知らなかったんだし、それに急にあんなことを言われたら、だれでも驚くよね」
 一夜が淡々と答えた。
 希が亡くなったとわかって、すぐに叶の婚約者だと言われたのに、なぜこんなに冷静でいられるんだろうか、と叶は不思議に思った。
「希さんが戻ってくるのは三時過ぎるらしいから、もう少し話をしていられる。その後は忙しくなるからゆっくり話す時間がないんだ。聞きたいことがあれば言ってほしい」
 改めてそう言われると、すぐに質問が浮かばない。まずは気分を落ち着かせなければ。
「その前に……、あの、すみません。お手洗いは……?」
 トイレに行きたいわけではなかったが、一人になりたくて訊ねた。
 叶の言葉に一夜が立ち上がり、ふすまを開ける。
「廊下を玄関まで行って、左に曲がった突き当たりがお手洗いだよ。一人で行ける?」
「大丈夫です」
 叶は慌てて立ち、部屋から出た。
 葬儀の準備は終わったようで、準備にバタバタしていた分家の親族たちが、希が戻ってくるのを茶で一服しながら待っている。
 玄関から左に曲がると、途端に廊下が薄暗くなる。窓もない廊下の先にお手洗いがあるようだ。
 胸の内でどうやって葬儀後、抜け出せるか考えながら廊下を進む。
 なぜだか暗がりが天井や廊下にもわだかまっている。効き過ぎた冷房の風なのか、ひんやりとした空気が頬をなでた。
 ふと、叶は足を止める。左肩に圧を感じる。だれかが立っている気がした。じっと息を潜めて叶を見ている。
 そのままじっとしていたが、相手も微動だにしない。振り向こうとするも、体が意思と関係なく動かない。
「カエレ」
 地を這うような冷たい声が、耳元で囁かれた。左側の耳の産毛がぞわりと逆立ち、首へと伝っていく。声の主が睨めつけるように自分を見ているのだ。
 眼球をゆっくりと左側に動かした。左の視界の端に影が映った。黒い着物姿で長い髪の女が立っている。気付けば、女の髪は濡れそぼっていて、ポタポタと水滴が落ちる音がする。
 吐く息が白い気がする。寒くて歯の根が合わなくなってくる。
 カチカチカチカチ。
 自分の出している音かと思ったが、違う。うつむいて立っている女が歯を鳴らしている。
 それは聞き慣れた音だ。寒気とは別に怖気が走る。
 叶は気づいた。女は寒くて歯を鳴らしている。今の叶のように、体の芯まで冷え切っているのだ。だから歯を鳴らす。
 どのくらい、じっとしていただろう。叶は思い切って、顔を上げ振り向いたが、やはりそこにはだれもいなかった。確かに人が佇んでいたのに、廊下には人が立てる隙間などなかった。
 蟻が這い上がるようにうなじの毛が逆立つ。怖い感覚よりも先に、体が反応した。
 なぜ、黒い着物姿の女がいるのだ。屋内に入られないのではなかったか。しかも、氷川家で見るよりも姿形がはっきりしている。
 次第に恐怖に手足が痺れてきた。何度も腕をさすって、叶は周囲を見回した。
 皆、祭壇のある座敷にいるのだろう、そちらから弔問客のさざめきが聞こえてくる。
 お手洗いで一人きりになるのが急に怖くなって、叶は客間に早足で戻った。
 後ろ手でふすまを閉じて、いそいそと座布団に座した。
 叶はざわめく気持ちをごまかすために、一夜を見て息を吸った。
「あの、母に会いたいんですけど、母はいないんですか」
 お母さんとは言い辛かった。氷川の母親が本当の母親だと思っていたからだ。当然のように天水に対しても同じ思いがある。
 すると、一夜が寂しげな笑みを向けてくる。
「君のお母さん——美都子さんは君と希さんを産んですぐに亡くなったよ」
「あ……、すみません」
 失言したと思って、叶は謝った。てっきり母、衣織は生きていると思っていたので、予想外の答えに驚いた。
「知らなかったんだから、仕方ないさ」
「あの、美都子さんはどんな人だったんですか?」
 自分を産む前の衣織はどんな女性だったのだろう。天水とはどのように出会って結婚したのか、興味があった。
「ごめん、美都子さんの事は俺もよく知らないんだ」
 叶はそれを聞いてガックリと肩を落とした。
「じゃあ、父は?」
 なんとしても自分の父母について知っておかないと、ここに来た意味がない。叶は食い下がるように訊ねた。
「君の父親は天水家の屋敷にいるよ。希さんの葬儀で俺と代替わりするから、葬儀の時に本家に来る。そのときに会うといいよ」
 葬儀が終われば、手が空くだろうからと聞き、葬儀が終わるまではおとなしくここにいるしかなさそうだった。
「一夜さんも美豆神社の宮司なんですか? もしかして葬儀が神式なのは何か関係があるんですか」
「俺は養父さんの跡を継ぐんだ。菟上家が祀っている『おかみさま』は、美豆神社のご祭神、淤加美神おかみのかみだからね。冠婚葬祭はすべて美豆神社が取り仕切ることになっているんだ」
 話では菟上家の当主は巫女だと聞いた。

「希が巫女になるまでの間、だれが巫女だったんですか?」
「美千代さんだ」
 叶は首をひねる。
「でも、美千代さんは霊力がなかったんじゃ? 私がみつちさんに魅入られたとき、祓ったのは美千代さんだって聞きました」
「うん、美千代さんには霊力はない。それに美千代さん以外、お祓いの作法を知っている人がいなかった」
 しつこいと言われるかもしれないが、叶はもう一度訊ねる。
「希が生まれてなかったら、だれが巫女になるんですか?」
「君だよ。本当にだれもいないときは、霊力があろうとなかろうと直系の娘が継ぐ。娘がいなければ、霊力のある分家の娘が巫女になる、美千代さんが継いだときにそう決めた」
 先ほどから一夜が言う霊力のことが気になった叶は、単刀直入に疑問を投げかける。
「霊力がなかったら、そもそも巫女として役に立たないんじゃないですか? 菟上家は祈祷師の家系じゃないですか」
「美千代さんの代から、霊力の強い女性が亡くなることが続いたんだよ。今も美千代さんが引き続き代理を務めているけど、見ての通り、美千代さんの病気が重たくて。菟上本家が君の肩にかかっているのは確かだよ。本家の後継者で生き残っているのは、君だけだから」
「本当に、ほかに本家の人はいないんですか」
「本家の人間は、君以外にいないんだ」
 だからといって、素直に当主になるわけがない。
「じゃあ、さっき言った通りに、霊力のある分家の女性に後を継がせればいいんじゃないですか」
「それは最後の手段だよ」
 何を言ってものれんに腕押しだ。叶を当主にと望む意志を曲げそうになかった。
「本当に、今まで分家の女性が巫女になることはなかったんですか?」
 一夜が強く言い切る。
「神様が望むのは菟上家直系の娘なんだ。確かに分家の霊力のある娘を連れてきてもいいけど、一人でも直系の血筋の女性がいれば、そちらを選ぶよ」
 みつちさんに魅入られたからと、お祓いをして分家へ養女に出しておいて、希が死んだら手のひらを返して当主になれなんて、都合が良すぎて納得がいかない。
「私は霊力なんてないです。だから当主にも巫女にも向いてないです」
 一夜の優しかった口調が厳しくなる。
「それでも巫女になるんだ。巫女がいなければ、菟上家は滅びてしまう」
「巫女がいなければ菟上家が滅ぶってどういう意味ですか?」
 一夜が、一瞬複雑そうな表情を浮かべる。
「美千代さんには水葉という妹がいたんだ。とても霊力が強くてね、巫女として遜色がなかった。けれど、水葉さんが亡くなって、美千代さんが継いでから本家に不幸が続いてね、美千代さんが出産するまでそれは続いた。美千代さんは『おかみさま』の祟りだと説明したそうだ。霊力のある美都子さんが生まれて、ぱったりと祟りが鎮まったことから、霊力がない巫女でも跡継ぎさえ産めば、祟りは鎮まるとみんな信じるようになったってわけだ」
 叶はその話を聞いて、引っかかるものを感じる。
「美千代さん——巫女だけじゃ、祟りは抑えられなかった……? 結局は霊力のある跡継ぎが生まれないとだめなんじゃ?」
 そう考えると、本家の娘は跡継ぎを産むための道具でしかない。叶は嫌悪を感じて眉をひそめる。
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