とがはらみ

藍上央理

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シーン3

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「何故、希が逃げ出したと分かるのです」
 叶は失敗したと思って口をつぐんだ。
 美千代が諦めたように顔を俯ける。
「希がいなくなったのは婚約したすぐあとなのです。それまで何にも不平を言わなかった……。嫌がりもしないどころか、一夜のことを気に入っていた様子でした。けれど、この婚儀は絶対におこなわねばならないことなのです。菟上家当主の義務なのですよ。結婚してかりはらの役目を全うしたら、後はあなたの好きになさい。かりはらさえできれば、充分ですからね」
「かりはらって何ですか!」
 頭に血が上って叶は勢いよく立ち上がった。
「結婚しろって、勝手に決めないで下さい。結婚も私が————」
 言い終わらないうちに、座卓の上の湯飲みが、さーっとスライドして卓上から落ち、あっという間に畳に茶が染む。
 何が起こったか、一瞬戸惑ったが、勢いに任せて叶は続ける。
「とにかく、結婚は私が決めます! 私、帰りますから!」
 叶は感情のままに部屋を飛び出して、足音を立てながら、早足に希の部屋にハンドバッグを取りに向かった。
 バッグを肩に掛けて車のキーを取り出すと、きちんと揃えられた自分のスニーカーを履いて、雨が降り続けていたが気にもせず飛び出した。
 ばらばらと大粒の雨が頬を打つ。
 あっという間に髪が濡れそぼり、ぺたりと首に張り付いた。額から雨粒が垂れてきて、瞼を伝って頬に落ちる。目をしばたかせ、自分の車を探し、ハンズフリーでドアを開けた。助手席にバッグを投げ入れて、ドアを閉める。
 雨で冷えた車内に、濡れそぼった体から湯気が立つのが見えた。エンジンをかけて、思わずエアコンを暖房に切り替える。思った以上に寒くて、今が梅雨の時期とは思えなかった。
 ハンドルを回し、縦列駐車している車のタイヤを切り返そうとしたとき、ありえない異音とともにガクンと車体が揺れた。
「え?」
 エンジンはかかる。けれど、砂利にタイヤが滑っているのか、それとも何かが挟まっているのか、スタックしたように空回る。車体がガツガツと不安を煽る音をさせた。
 叶は不審げに車を降り、体をかがめてタイヤを見て、「はぁ? 何これ!」と声を上げた。
 ずぶ濡れになりながら、ズタズタに刃物か何かで切り裂かれたタイヤを呆然と見ていた。
 一時いっときタイヤを見つめていたが、我に返ってドアを開け、助手席からバッグを取ると、雨水に沈む砂利道を、水しぶきを立てて駆けていく。足下もスカートも何もかも泥と雨で濡れそぼる。
 菟足村に行けば、なんとかなるんじゃないか。バスが通っているかも知れないし、タクシーだって呼べるだろう。何なら、村から二十分離れた柚原ゆずばる駅まで歩けばいい。
 県道まで出たところで息が上がってきて、一旦立ち止まり、周囲を見渡すとガードレール越しに廃墟があった。遠目に見える左手にはせり出した畔と鳥居がある。
 菟足村への道は左右どちらにあったか、叶はバッグからスマホを取り出した。バッグに入れっぱなしだった折りたたみ傘を広げて、今更だが雨を凌ぐ。ポタポタと髪から雫が垂れて、スマホの画面に滴った。
 防水のスマホで良かった、と思いながら地図アプリを開いて、自分の位置を確認した。どうやら左の遊歩道を行けばいいようだ。
 こんな雨の中、公道を通る気がしなかった。どうしても魔のS字カーブでかれた希の夢を思い出してしまう。
 だれも自分を追ってこないのを確かめてから、再び歩き始める。傘で前方の視界が半分遮られていて視界が悪い。雨で景色がけぶって、さらに見通しが利かなかった。
「待って、叶さん」
 背後から一夜の声が叶を呼び止めた。雨の中、追いかけて来たのだろう。叶は険のある声音で、
「私、だれがなんと言おうと戻りませんからね!」
 と、言いながら振り返った。
 ザァッと降りしきる雨のカーテンの向こうにはだれもいなかった。
「え?」
 一瞬わけが分からなくて、叶は声がしたほうへ目を凝らす。だれもいないし、何もない。急に濡れた喪服の布越しに、冷たい風を吹き付けられたような寒気がした。
 体が冷え切って、シャリ感のある濡れた喪服が素肌にこすれて気持ち悪い。髪も濡れそぼり、頭皮まで雨が染み渡っていて、早く乾いたタオルで頭をぬぐいたかった。唐突に、屋敷に戻って快適な場所で安心してくつろぎたくなった。
 けれど、そんな誘惑に負けてはいけない、と叶は再び歩を進める。スニーカーの中まで濡れて、歩く度にぐじゅぐじゅと靴が音を立てる。
 とにかく寒くて仕方ない。
「叶、寒いでしょ? 拭いてあげるから」
 母親の声が背後から追ってくる。優しくて温かな、心から大好きな母親の声だ。小さい頃、雨で濡れて帰ってきた自分を大きなタオルで拭ってくれて、お風呂に入れてくれた母だ。
 でも、違う。先ほどの一夜の声で悟った。
「叶」
「叶」
「叶」
 父親の声、友人、自分が知っている知人の声で、背後から叶を呼ぶ。それらは全部、本物ではない。振り返っても、きっとだれもいない。叶は耳を押さえて、そのまましゃがみ込んだ。
 突然、呼び声を遮るようにスマホの着信音が鳴った。その音を聞いて、叶は心臓がすくみ上がる。あまりにも大きな音で手の中のスマホが震えながら鳴っている。慌てて、叶はスマホの画面を凝視した。
 画面に知らない番号が表示されている。切ろうか切るまいか悩んだ。しかし、切ってしまえば、得体の知れない呼び声に耐えながら村まで行かねばならない。
 それにこの呼び声は間違いなくみつちさんなのだ。みつちさんに答えたらおみず沼に引き込まれる、という嫌な怪談を思い出した。それ以上に、幼い頃にみつちさんに答えてしまって、美千代にお祓いしてもらったが、結局村から出されてしまったことが頭をよぎる。
 幼い頃は封印がしっかりされていただろう。廃墟の道祖神も壊れていなかったと思う。けれど、今は違う。いつ、みつちさんに連れていかれてもおかしくない。
 一人でここにいれば、いずれおみず沼に誘い込まれてしまうかも知れない。電話で話していれば、少なからず一人ではない気がした。
「もしもし」
 通話マークをタップして、寒さに震える声で、電話に出た。
『叶さん。今どこ? 雨が降っているときに外で出たらだめだって言ったじゃないか』
 一夜の声だった。まさか、電話を使ってみつちさんが話しかけてきているのかと錯覚して、
「本当に一夜さんですか?」
 と訊ねてしまった。
『……みつちさんに答えたの?』
 言い当てられた叶は泣きたくなった。菟上家から逃げられない絶望感が体の内側から湧き上がってくる。
「答えました」
『わかった。すぐにそこに行くから、どの辺りにいるか場所を教えて』
「雨が降ってるのに」
 どうしようもない状況だと分かっていたが、自分の為に危ない橋を渡ろうとしている一夜が信じられなかった。
「来たら、一夜さんも呼ばれますよ」
『それは運じゃない? そうならないように気をつけるよ』
 叶が告げた場所は、悲しくなるくらい屋敷から近い場所だった。逃げる前にみつちさんに捕まってしまい、怯えたウサギのように遊歩道にしゃがみ込んでいる。
 自分は無能だ、と叶は自己嫌悪に陥った。強気で啖呵を切って出てきたのに、タイヤを切り刻まれて、挙げ句にみつちさんに答えてしまった。タイヤを切ったのはどうせ美千代の指図で屋敷のだれかがやったに違いないが、話など聞かず、葬儀が済んだらさっさと帰ってしまわなかった自分が悪い。自分の好奇心や詰めの甘さがこんな事態を招いたのだ。
 悔しくて、叶は唸った。
 気付けば、いつの間にか雨は止んでいたが、どんよりと落ちてきそうな雲が、まだ降り足りないと言っているようだった。
「叶さん!」
 バチャバチャと足音が近づいてきた。
 そこでも叶はハッとする。名前を呼ばれたとき、足音など聞こえなかった。それに気付いていたら、返事などしなかった。
「叶さん。さ、戻ろう」
 一夜が静かに叶に立つように促し、右手を差し出した。
 叶は自分ではどうにもならないことがあるのだと痛感し、右手に掴まって、力なく立ち上がると、一夜に伴われて屋敷に戻った。
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