とがはらみ

藍上央理

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【水葉】

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「ほんと、だめねぇ」
 水葉は、自分に巫女装束を着付けている姉の美千代に言い放った。
「衿が整ってない。歪んでる。舞っているときに着崩れるでしょ」
 美千代とは五歳、年が離れている。けれど、水葉にとって、年上の美千代は自分の世話係でしかなかった。でもそれを不思議だとかおかしなことだとは思っていない。周りの人間も跡取りの水葉を優先して、美千代をないがしろにしていたからだ。
 それにこの目つきが気に入らない。ふてぶてしい、と水葉は反抗的な目で見てくる美千代に対して思っていた。美千代が自分の処遇に満足してないことくらいお見通しだ。それを何故だと疑問に思っている。厚かましい、たかが霊力と馬鹿にしているのも水葉は知っているのだ。
 姿見を覗き込み、人前に出てもおかしくないか確かめる。多少時間がかかったが、まぁまぁ具合が良いだろう。
「ほんと、のろまなんだから……」
 黒地に宝尽くし柄の振り袖は、菟上家が祀っている神様の巫女が着る装束だ。何故振り袖なのか、黒なのか、宝尽くし柄なのか、口伝では神様が好むからだと聞いた。
 口伝は幼いうちにおこなわれて、そのあと、母が亡くなった。父もそろそろ婚約者の文蔵に宮司の跡を譲る時期だろう。三ヶ月後に婚儀が控えているから。
 姉が文蔵に懸想していることを知っている水葉は、そんな姉のことを浅ましいと思っている。美豆神社と神様の巫女は切っても切り離せないえにしがあるのだ。それは記録として残されていない。口伝によってだけ伝えられる約束事だ。だから、水葉と文蔵は結ばれる運命にある。
 水葉は意地悪く微笑む。それでも涼やかな薄笑いに見えるくらい、水葉は透き通るような美しさがあった。
 美千代が水葉の後ろをしずしず付いてくる。姉と水葉はまるで血が繋がっていないと思えるほど、似ていない。
 霊力を持って生まれた水葉は当然、菟上家の当主になり、神様の巫女になる。おみず沼で、先祖が『みつちさま』と約束したときから、ずっと守られてきたことだから、どんなに美千代が妬もうが、変えられることではない。
 それに美千代には一生分からない。かりはらの役目を負うことは、どんなに嫌でも受け入れなければいけない。そして、誇りに思うべきだ。
 水葉は幼い頃からの婚約者だが、文蔵を愛していた。子を産んだら、男は必要なくなる為に離婚する習わしだが、水葉に離婚する気は毛頭ない。どっちにしろ、いずれ、水葉は神様の下に行かねばならない。
 人身御供、生け贄のようなものだが、本当に『みつちさま』はそんなことを望んでいるのだろうか。けれど、幼い頃、母にそう教えられた。昔からやってきたことだから、水葉も覚悟しろ、と。
 今日、水葉は雨乞いの儀式をする。
 この夏は雨が降らない。干ばつで米が取れないと、菟足村よりも里にある村から訴えがあった。今までもこれからも水葉は民の為に雨乞いをするだろう。それは誇らしいことだから、水葉は自分の運命を受け入れていた。
 外に出て、山道を下りていく。足下の土が砂埃を立てるほどカラカラに乾いている。この夏は梅雨から雨が少なく、山の木立に立ち枯れた木々が目立つ。農業用水のため池はあとほんの少しで底が見えるらしい。
 テレビでも「節水節水」と喧伝しているくらいだ。
 そうなると雨乞いをしている菟上家は忙しくなる。今年の雨乞いの回数は例年よりやはり多い。それだけ干ばつに苦しむ地域が多いと言うことだ。そのために、水葉は朝から晩までご祈祷をしている。
 雨乞いを依頼してくる偉そうな老人たちが惜しみなく寄進して、水葉を褒めそやし崇めたて、傍からはちやほやされているように見える。贈られた典雅な振り袖を着て対応する水葉は、驚くほどに優美だった。
 それを羨む美千代は、本当に浅ましい。
 おみず沼の木立を抜けると、沼にせり出した祈祷場に辿り着く。
 つい先日、水葉は大叔母と伯母が、おみず沼に自然公園を整備したいと訪ねてきた二人の男と、座敷で話をしているのを立ち聞きした。おみず沼周辺に自然公園を作るのだという。
 菟上家は県保有林の一部に私有地を持っている。そのため、自然公園整備事業に関して説明に来たらしい。大叔母は私有地ではないが、古い祠がある山側の土地に固執していた。伯母はその祠の移動について男たちと話をしている。
 当主の水葉を無視して、大伯母たちだけで話をしているのが気に食わなかったのか、水葉はふすま越しに声を掛ける。乗り込んでいって、水葉が答えを決める気でいた。
「水葉かい」
 大叔母に許されて、水葉は話し合いの場に分け入った。
「大叔母様、あの祠の所在についてお話し合い中なんですのね? 私は伯母様の言うように移転しても良いと思いますわ」
 図々しいとでも言いたげに、大叔母がぴしゃりと言い放つ。
「当主として、あの祠が如何に大切なものか、おまえには分かっているはず。私も代々あの祠を護るように言われてきました。特に水葉、おまえはあの祠から何も得ていないようだ。この話に口を挟む資格はないですよ」
 悔しげに水葉は口をつぐんだ。水葉が当主といえど、菟上家で権限を持つのは、結局は長く仕切ってきた巫女の姉妹たちなのだ。
 話し合いは平行線を辿り、男たちは帰っていった。整備事業などの県が絡む開発事業は数年単位ではなく十年単位でおこなわれてもおかしくない。そのうち大叔母が死んだら、今度は伯母が幅を利かせるようになるのだろうが、私は許さない、と水葉は苦々しく考えていた。
 神様の神意を聞くのは水葉だ。こちらの願いを必死になって届けるのも。それなのに、水葉を道具としか思ってない大叔母たちが憎らしい。
 美千代は美千代で何を勘違いしているのか、巫女という立場や当主というものをうらやんでいるようだ。ならば、自分の代わりに美千代が巫女になればいいのだ、と皮肉をぶつけてやりたくなる。
 大叔母や伯母は美千代に厳しくも甘い。美千代がどんなに素行が悪くても、何も言わないでいる。きっとこれから長い付き合いになると分かっているからだ。
 そんなことを思い返しながら、畔に立ち水葉はきゅっと口の端を結んだ。右手には、大太鼓を前にする文蔵が、水葉の祈祷が始まるのを待っている。
 祭壇に向かって、深く二拝し、二拍手、また深く一拝。
 ぬさを掲げながら手に取り、神道のやり方で周りを浄める。祭文をする所までは神道のように見える。太鼓の音がリズムを刻み、空気を轟かせるのに合わせて、舞を舞う様は、まるで古代から引き継がれた民族舞踏のようだ。
 水葉は手にした神楽鈴を鳴らし続ける。太鼓と鈴の音で意識が高揚していき、いつしか酩酊する。定められた身振りを繰り返しているだけだが、その速度が速まっていく。忘我の境地に至り、意識と体が分離する。
 おみず沼から大きな存在が上がってくるのを感じる。自分の体に寄り沿うように何かが重なる。自分の影ではない。おみず沼からやってくる存在だ。その存在が、舞の意味を紡いで、『みつちさま』に繋ぐ。
 おみず沼を覆い尽くすほどの巨大な何かが、紡いだ縁をかぎ爪でたぐり寄せて天へ昇っていく。宙でとぐろを巻き、太鼓の音を纏い始め、神楽鈴のきらめきを宙に映す。
 天と『みつちさま』が、舞の意味をくみ取って願いを叶えてくれるまでそれを繰り返す。
 その舞を朝まで続けた。願いが届けば、雨が降り始め、水葉は倒れて気を失う。必ず、翌日の水葉は熱を出して寝込んだ。
 水葉の強い霊力は非常に有名で、雨乞い以外の祈祷でもひっきりなしに依頼者が来た。知る人ぞ知る、という霊能力者として知られていたようだ。
 だからといって、水葉が贅を尽くしていたことはなく、金銭面は全て大叔母や伯母が握っていた。反対に水葉のほうが、美千代以上に実権を握る大叔母たちを羨んでいたかも知れない。どうせ、水葉の死後、美千代が実権を握り、水葉の産んだ神の子をいいように操るのだろう。
 そんな水葉の静かな不満を、美千代は理解していなかった。
 

 婚儀を三ヶ月後に控えて、着実に婚儀の準備は整っていった。水葉はようやく文蔵と結ばれると内心嬉しくて仕方なかった。
 朝からの祈祷を終え、日暮れ時に、日課でもあるおみず沼の畔を散策しに出掛けた。祈祷の合間の気晴らしだった。
 いつもの振り袖ではなく、気軽な洋装だ。Aラインの袖のないワンピースを着ている。なかなか私服を着られないので、近場の散策でも気分転換になって楽しい。
 辺りは薄暗く、多分向かいからだれか来ても、その顔を判別できないような逢魔が時だ。懐中電灯も持たずに、歩き慣れた道をぶらぶらしていた。
 空が紅色から灰青色に移り変わる。グラデーションに彩られた天弓に、チカチカとした星々が現れた。
 そろそろ帰ろう、と水葉は畔を引き返し始める。こんな夕暮れにおみず沼の周辺を歩く人影はない。菟足村の人でも、夜のおみず沼を怖がっている。本当はみつちさんを怖がっているのだろう。
 水葉はみつちさんが道祖神で組んだ結界に阻まれて、祈祷場周辺から離れられないのを知っているので、無闇に怖がることはない。
 ふと気付くと、自分の足音とは別の足音が付いてきている。
 左手の林を見やるが、黒々とした木立の影が視界を遮っている。動物だろうかと立ち止まると、足音も止まり、さらに気配が濃厚になった。ただ、霊的なものではないのはわかる。
「だれ?」
 思わず、声を掛けた。幽霊相手なら少しも怖くないが、正体の分からない人間となると恐怖しか湧かない。


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