とがはらみ

藍上央理

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シーン6

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 遺書の内容を伝え終え、叶の処遇が定まり、立て続けの葬儀もやっと一段落付いたところで、ぞろぞろと分家の親族は帰っていった。
 叶は広縁のガラス障子が嵌まっていた敷居をしげしげと眺めた。障子は単に嵌まっていたのではなかった。一度持ち上げて内側に外さねばならない。
 ということは、一斉に障子が外れて倒れると言うことは普通ならできない。できたとしたら障子は内側に倒れるはずだ。それなのに一斉に外側に倒れた。
 そこに考えが至り、叶はぞっとして震えが走った。確かにここには尋常でないものがいて、叶の意思を挫こうと邪魔をしている。
 その存在が、あの蔵の夜に現れた異形のものだ、と叶は直感した。
 今まで叶の前に現れた幽霊たちは、どれも黒地柄の振り袖を着ていた。これで菟上家の巫女に関係する幽霊だと分かる。
 氷川家に現れた濡れた足の幽霊、叶に「クルナ」と囁いたのは希なのだ。今の状況になることを知っていて叶に警告していた。しかし、叶にはその真意が分からなかった。そのせいでとんでもない目に遭っている。
 雨の日に現れては、叶に恐怖心を植え付けていたのはみつちさんだろう。おみず沼がないおかげで、氷川家にいた頃は死なずに済んだ。今はそれも分からない。
 おみず沼の鳥居で見た幽霊は間違いなく水葉だ。背が高いと思っていたのは錯覚で、実は首を吊った姿を見たのだ。だから首が鳥居の貫部分にあって、爪先が宙に浮いていた。
 では、蔵に現れたものはだれだろうか。ずぶ濡れの足の幽霊はもちろん希だ。ずっと付いてくれているのは、もしかすると叶のことを気にかけているからだ。歩き回って叶を覗き込んだのは美都子だ。そして座卓下から這い寄ってきたのは、間違いなく悪霊化した水葉だ。
 では最後に自分の中に入ってきた黒い靄は何だろう……。
 屋敷の奥に消えた黒い異形と、この黒い靄は同じものだと感じた。少しずつ形が見え始めているように思ったが、いつも一部だけなので全容はわかり得ない。
 叶が考え込んでいると、一夜が話しかけてきた。
「どうしたの」
 叶は顔を上げて、広縁の掃き出し窓を見た。雨戸が閉められて鏡面になったガラスが二人を映し出す。勝手に話を進めてしまった天水と一夜に対してわだかまりを持っている。その気持ちが叶に疑いを持たせてしまう。
「まさか、車のタイヤに傷を付けたの、一夜さんじゃないですよね?」
 急にそんなことを言われて、一夜は面食らったような表情を浮かべた。
「違うよ。どうしてそう思ったの」
「天水さんも一夜さんも、私に帰ってほしくなかったからじゃないですか?」
 一夜が面白そうに笑う。
「例えそうでも証拠なんてないし、ましてやタイヤを修理したんだから、いたずらするなんて意味がないよ」
「いたずら……? あれは度が過ぎます!」
 もしかすると、足止めをして時間稼ぎがしたかったんじゃないか、と叶は思った。
 遺書開封の場に叶にいてもらわねばならなかったのだ。
『巫女不在にしてはならない』という言葉は誇張ではなかった? ただ、叶が巫女になったとしても、巫女がいない状況と変わらないのではないか。自分には強い霊力、希と遜色のない力があるとは思えなかった。
 けれど、もし霊力があるとしても、菟上家にいること自体、不吉としか言いようがない。
「じゃあ、一夜さんはだれが私の車のタイヤ、傷つけたか分かりますか?」
 一夜が素直に答えないのは分かっているし、こんなことを今更聞いても埒があかないのも承知しているが、少しでも情報を集めて、ここから逃げ出す方法を考えたかった。物理的に距離を稼ぐ為に車で逃げても、きっと人でないものが追ってくるから。廃墟の結界が破られているのは偶然じゃない。修理されなかったのも実際のところ、直す気などなかったのだ。
「もしも、養父さんを疑っているなら、それは違うと思うよ。君は自覚ないけど、菟上本家だけじゃなく、分家も疑ったほうがいい。巫女不在で、昔、菟上家が祟られたときのことを覚えているひとは多いから」
 だから、君を巫女にしたい人間はたくさんいるんだ、と一夜が言った。
 叶はしばらく黙ったまま、一夜を睨みつけていた。
「君を怒らせたなら、謝るよ。君がここに来て、不本意なことばかり押しつけられて腹を立てる気持ちも分かる。実際、俺も最初はそうだった。ただ、希さんとの婚約が決まったのは、俺がみつちさんを祓ってもらったのがきっかけだったんだ」
 叶は疑わしげに、一夜の話を聞いていた。
「でも、美千代さんに勝手に決められたことは変わらないんじゃないですか」
「結果的にはそうなったけど、それまでの間に俺と希さんはよく話をするようにはなってたよ。もちろん、俺が天水の養子に入ったせいもあるけど」
「じゃあ、好きでもないのに結婚を決められたわけじゃないんですか」
「俺は、俺なりに希さんのことを好きだったけどな」
 それなら、何故その思いを抱き続けずに、美千代の言いなりになんかなるんだ。叶は希と一夜が恋人同士だと信じて、叶との婚約を承知したことを、死んだ希への冒涜だと憤慨した。
「そうだったら、かなり失礼ですよね?」
 叶自身に対しても、いい加減な気持ちを向けられては敵わない。
「そんなことを言われても、俺にとって希さんはもう一年前に亡くなってたんだから、仕方ないよ。気持ちが昔みたいになれなくても」
 一年の空白が、一夜の希への思いを冷めさせるには充分すぎるのか。だれかに恋されて恋愛をする関係を持ったことのない叶には、一夜の気持ちはとても冷たいと感じられた。
「それに、美豆神社の宮司にとって、菟上家の巫女は、だれであろうと花嫁でなくてはならないんだ。しきたり以上の関係があるんだよ。それは、宮司を継いだ俺にはよく分かる」
「しきたり以上の関係?」
 叶は、首をかしげた。説明してもらおうと一夜を見上げた。
「君さ、まだ家に帰ろうと思ってる? 逃げたりしたらどうなっても知らないからね」
 脅しとも取れる言葉に、叶はあっけにとられた。もちろん家に帰るつもりだ、と言おうと口を開きかけたが、一夜が後ろを振り返ったので、釣られて叶もそちらに目をやった。
 ちょうど、天水がやって来た所だった。
「二人ともどうしたんだ? 叶、疲れているだろうが、巫女舞の一夜漬けだ。遺書には明日から三日間、鎮魂祭をしないといけないとあっただろう? 巫女が鎮魂の舞を舞わないと、どうにもならないからね」
 天水に促され、彼の後ろを付いていく。一夜も一緒に付いてくるので、叶は訝しげに天水を見やった。
「巫女舞に一夜さんが必要なんですか?」
 すると、天水が後ろを振り向かずにその問いに答える。
「一夜は宮司だからね。重要な役割があるよ。巫女舞には本来、雅楽も必要なんだが、『おかみさま』——本当は『みつちさま』だが……、神様へ奉納するときは太鼓が使われるんだ。号鼓ごうことして使う場合と、『みつちさま』に祝詞奏上する際に同時に奉納太鼓をする場合がある。太鼓の音が雷鳴に似ていると、龍神である『みつちさま』が喜ばれると言い伝えられているんだ。その太鼓を打つのが一夜の仕事だ」
 それで、みつちさんをお祓いするときに、一夜が太鼓を打ち鳴らしていたのだと合点がいった。夢で美都子が天水のお祓いをしたときに、巫女舞を舞いながら、文蔵の打つ太鼓と神楽鈴の音に合わせて、次第に高揚としていき、いわゆるトランス状態になったことを思い出した。
 要するに、これから叶自身も、美都子のように太鼓の音に合わせて舞い、トランス状態にならなければいけないと言うことだろう。できるわけがないと思っていると、今朝まで閉じ込められていた蔵へ続く扉の前に立っていた。
「あまり良い印象はないと思うが、ここで皆練習をしてきた。ここなら、太鼓も舞も同時に練習できるからね。まぁ、今日は舞だけ覚えてもらうんだが」
 明日までに、『鎮魂の舞』を覚えなければならないらしい。
「食事を終えてから、着替えてここで巫女舞の練習だ。講の方々に手伝いをしてもらう手はずは整っている。舞の型を知っている人に手本を見せてもらいなさい」
 その後、叶は食堂に通されて、軽く夕飯を食べた。天水と一夜がいないので家政婦に訊ねると、二人は一旦天水家に戻ってからまた来るらしい。
 夕食を終えると、広めの座敷に連れていかれ、信者二人がかりでまたも黒い振り袖を着せられた。
 振り袖を着付けられて、姿見が持ってこられる。きっと叶がロングヘアだったら、遺影の中の希にそっくりに見える。皆は、叶が希として立ち振る舞うのが一番正しいあり方だと思っているようだが、如何にこの状況がおかしいのか、希の幽霊が教えてくれていた。
 三歳の時に別れたきり、会うこともなかった実の姉。彼女はこの暗澹とした菟上家で、どんな思いで成長し、何を恐れて逃げ出したのだろう。彼女の忠告は何一つ叶に届かなかった。もし、ここに来なければ、もし、あの時なんとしても逃げていれば……、今更そんなことを考えても仕方ないのだが。
 巫女と当主の席を継いだのならば、これに乗じて結界を張り直してもらうことができる。婚約の儀前までにそれを成し遂げよう。今のところは言うなりになっている振りをすればいい。
 着替えてしばらくしたら、天水と一夜が屋敷に戻ってきた。彼らも衣冠し、正装している。巫女舞のことをスマホで調べていたら、動画で上がってくるのは神楽のことばかりだった。厳かに、笙と笛の音を中心に、ゆったりと巫女が舞っている。
 神様の巫女舞は、白昼夢で見た限り、舞踏に近い形なのかも知れない。振り袖のことも調べると、この長い袖の振り方に魔を祓う意味があるそうだ。天水が言うには長い袖の着物が巫女装束となったのは江戸時代からのようだが、黒地に宝尽くし柄には何か意味があるのだろうか。
 雨乞いの踊りも、踊りと称するほど賑やかで楽しいものが多かった。山車を引き回して龍蛇に祈願する方法もあった。
『おかみさま』——『みつちさま』の雨乞いも、大人数でおこなうくらい激しいものなのだろうか。他の雨乞いは大人数でおこなうのが当たり前のようだ。国指定無形民俗文化財に認定されるほど、由緒のある踊りもあって、それは風流踊と呼ばれている。特に巫女が踊る、男性は踊れないというわけではなさそうだ。
『おかみさま』信仰がいつからおこなわれていたか。叶自身が県別郷土資料集を参考にレポートを書いたとおり、菟上神という名称が出るくらいだからおそらく神代からと言うことにしたいのだろう。
 儀式を数少ない古文書に残している分家がいて、彼らから儀式作法を教わりながら、鎮魂の舞を舞っていく。『おかみさま』信仰は、菟上家よりも講の信者のほうが詳しく、根強い民間信仰なのだ。
 巫女舞の所作は、思っていたほど難しくなかった。とにかく、太鼓の音に合わせて神楽鈴を鳴らしながら、円を描くといったものだ。それ自体は、お祓いの巫女舞とさほど変わらないが、太鼓のリズムが違った。
 覚えなければならないする祭文がそれぞれ違うことだけが、叶には難しかった。ただ、祭文は天水と一夜が覚えているので、叶が覚えるまでは彼らが唱えたらいいと言うことになった。叶は、必ず家に戻ると決意していたので、一言も覚えるつもりはなかった。
 その代わり、叶が見た美都子が舞った巫女舞を覚えていた。俯瞰で見つつ、美都子の中にもいたおかげで、何が起こっているのか夢の中ではよく理解できていた。
 彼女たちの思いや考え、感情が、ダイレクトに叶にぶつかってくる。叶はその感情を噛みしめ、彼女たちの知っている神様に思いをはせる。
 あくまで、『おかみさま』は後付けの祭神で、巫女が仕えているのは『おかみさま』ではない。みつちさんは『みつちさま』が零落した存在だと思っていたが、今では別ものだと思っている。『みつちさま』が巫女の姿形を真似るとは思えなかった。
 祟りは、霊力のない巫女が三代続いてしまったことが要因だろう。祭祀に必要な霊力が足らないせいで、起こったことなのだ。
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