とがはらみ

藍上央理

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シーン6

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 気がつくと、巫女舞は終わっていた。舞っている間の記憶がすっぽり抜け落ちている。しかし、何が巫女に取り憑いているのかを見た、それだけは覚えている。
 体に入ってきた、あれ・・が腹の中に巣くっている。
「大丈夫? 休む?」
 一夜が叶に声を掛けてきた。
 下腹部に手を当てると、ぐねぐねと蠢く得体の知れないものを感じた。
 もう遅いんだ……。もう元に戻らない……。一体、巫女は何を孕んでいるんだ。腹の中にいるものは、『みつちさま』ではない。巫女舞をしている最中に見た異形の怨霊を思い出す。
 異形が人の胎を借りて受肉した存在は、一体何なんだろう。本当に神の子なのか?
 これが菟上家の巫女の運命なのか。
「顔色が悪いよ。椅子に座って冷たい飲み物でも飲んで」
 一夜が心配そうにしている。
「どうしたんだ?」
 様子を見ていた天水も寄ってきた。叶は折りたたみ椅子に座らせてもらい、飲み物を受け取った。
「鎮魂祭は納めたし、無理してここにいる必要はないぞ」
 そう言いつつ、天水が空を仰ぐ。
 雲間から青い空が見え、雨が降りそうな天気ではないが、天水が落ち着かない様子で周りを見渡している。
 水葉は、得体の知れないものを孕むことを喜んでいた。美千代は自分の中に入ってきたものを恐れなかったのか。美都子は諦めていた。
 これを喜ぶ神経が分からない。どう考えてもあれは神なんかじゃない。
 死んだ巫女の集合体の一部が腹に入り、生まれて、そして巫女は人身御供として死ぬ。死んで怨霊の集合体の一部になり、いつかまた巫女の腹に宿る。この連鎖が、最初に人身御供として巫女を捧げられたときから続いている。これが、かりはらの実態なのだ。

 ——私は一体、何……?

 叶の背筋に悪寒が走った。
 叶はそこでようやく思い当たる。
 水葉からかりはらについて聞いた美千代は、叶をわざと蔵に閉じ込めたのだ。
 でも一夜たちは知らないのだ。鎮魂祭で収まるものではない。怨霊はこんなことを望んでない。
 蔵でのことが思い浮かぶ。『みつちさま』は蔵に来なかった。蔵に来たのは、巫女たちのなれの果てだ。
 希が恐れた異形に、菟上家はいまだに祟られている。菟上家を祟っていたのは正確には水葉ではないのだ。
 自分の体に腕を絡ませて、叶は顔を上げて、天水を見やる。
「天水さん、道祖神、早く修復しましょう」
 天水が目を見開く。
「何かあったのか? 巫女舞で様子がおかしかったが」
 思わず、声が震えてしまう。
「巫女舞をしているときに、恐いものがおみず沼から出てくるのを、見たんです」
「恐いもの?」
 叶は口をつぐむ。果たして話していいものなのだろうか。体に得体の知れないものを宿したことや、おみず沼からやってくるものを封じないといけないこと、祟りは収まっていなくて生き残った叶も例外ではないこと。
「とにかく、早く。早く修復して下さい!」
 叶の剣幕に気圧されて天水は頷いた。多分、彼は鎮魂祭が終わってから修復するつもりだったのだろう。スマホを取り出して、業者に電話をしてくれた。
 ここから逃げないと。ここを離れて、町に戻らないといけない。おみず沼から、異形から、菟上家から離れないと取り込まれてしまう。
 震える叶を見て、天水たちは今日の鎮魂祭は終うことにしたようだ。
 一夜が自分を見ているのに気付き、彼に視線を向ける。うっすらと微笑む一夜が、叶に寄り添った。囁くように声を低めて、
「見えたんだ? 君も見たんだね」
 驚いて、叶は一夜を見上げる。
「何をですか」
「みつちさんが来たんだろう?」
「どうしてそんなこと言うんですか」
 すると、一夜が嬉しそうに続ける。
「なぜ、美豆神社の宮司と結婚しないといけないと思う?」
 叶は訝しげに一夜を凝視する。
「君で最後だから教えてあげよう。美豆神社は、『おかみさま』を祀っている。知ってるよね? でもね、俺たちが祀っているのは今もずっと祀っているのは『みつちさま』なんだよ。『みつちさま』は零落なんてしていない。龍神は俺たちにも同じ神意を告げるんだ。あまたの乙女を花嫁として捧げよ、とね。君のおかげで、大蛟だった『みつちさま』は、花嫁になる前に殺された『巫女』と、やっと夫婦になれる。俺の中の『みつちさま』が喜んでいる。君は俺に『黒姫伝説』の話を教えてくれたね。まるで俺たちのことを言ってるようだった。最後に残った君が、希と双子で良かった。希と同じ力を持っていることが分かって、とても嬉しいんだ」
 俺の中の『みつちさま』が喜んでいる、と一夜は言った。
 叶が恐れているもの、何もかも一夜は知っていたのだ。
「じゃ、じゃあ、巫女が祀っている『みつちさま』は……?」
「本当に『みつちさま』だと信じているの?」
 巫女が祀っているのは、『みつちさま』じゃないのか?
「君たちが神様と言って祀っているのは、みつちさんだ。君が巫女舞で見たものだよ。だから唯一、みつちさんを祓えるんじゃないか。水葉さんと希さんはみつちさんを宿せなかった。美都子さんは自殺したから、結局三人ともみつちさんになれなかった。だから今もふらふらと漂っているじゃないか。今度こそ、上手くいく。怖がらなくていいんだ。君もみつちさんじゃないか。ちゃんとみつちさんを産めばいい。『みつちさま』が求めた巫女になれる。『みつちさま』はそれを望んでいるんだよ、自分だけの黒姫・・を欲しがってる」
 熱に浮かされたように一夜がまくし立てるのを見て、叶は息を飲む。
 自分の考えが正しかったと震えた。衝動的に走り出したくなった。でも今逃げても封印されてないみつちさんに捕まってしまうだけだ。
「な、何を言っているのか分かりません」
「そのうち分かるよ」
 一瞬、一夜の顔がほくそ笑む蛇のように見えた。
 叶は少しずつ一夜から離れ、天水に何事もなかったように話しかける。
「業者さん、なんて言ってました?」
 奥歯がガチガチと鳴るけれど、精一杯平然とした表情を取り繕った。
「これから来ると言っていた。今日中に修復してくれるそうだ。安心したかい?」
「ありがとうございます、我が儘を言ってすみません」
 天水も一夜の仲間であるはずなのに、一夜のような気味悪さがない。
「いいよ、全然我が儘じゃない。確かに結界が破れていたら不安だろう」
「そうですね……」
「思っていた以上に一夜も初仕事をやり遂げていて、安心したよ」
 天水が自分の肩を叩きながら、深いため息を吐いた。
「さて、雨が降ったらいけない。片づけて屋敷に戻ろうか」
 叶は一夜を振り返ると、彼も片付けを始めていた。明日、また祭壇を一から作り、鎮魂祭をする。
 しかし、明日の鎮魂祭をやるつもりなど毛頭なかった。
 封印がなされたら、今夜逃げる。身一つで逃げないと、勘づかれてしまうだろう。氷川の家まで逃げれば、封印されたみつちさんは追って来られない。さすがに力尽くで一夜が自分を菟上家に連れ戻すとは考えづらい。
 もし、力尽くでできるなら、とっくの昔にそうしているだろうから、おみず沼から離れると、神様の力も及ばないのだろう。
 だから、逃げるなら今夜しかない。腹に宿ったものがどうなるか分からないけれど、おみず沼から離れた時点で力をなくす可能性だってある。
 そう、信じたい。
 おとなしく天水の後ろを付いていき、菟上家の屋敷に戻った。
 夕方には割れた道祖神が修復されたという連絡を天水から受けた。叶の考えが正しければ、みつちさんはもうおみず沼から離れられないはずだ。
 叶はおとなしく夜が来るのを待った。


 夜半過ぎになるまで、叶は部屋でじっと待った。
 時間が経つのが自棄に遅く感じられた。何度もおぞましい考えが頭に浮かぶけれど、蓋をするように覆いをかぶせて、今は考えないようにした。
 鎮魂祭のあと、屋敷に戻って黒い振り袖を脱いだときは、靄のようにこびりついていたものが取れた気がした。けれど、それは錯覚だと分かっている。
 悟ってしまってからずっと、わめき散らして、何もかも壊してしまいたい衝動に駆られる。でも、そんなことをしても、思い至った答えは覆らない。希もきっと自分の運命を悟ったとき、同じ思いに駆られたかも知れない。
 夜が深くなるにつれて、少しずつ人の気配がしなくなる。ようやく静まりかえった頃には、夜中の一時半を過ぎていた。
 ドアをそっと開けて、叶はハンドバッグを抱きしめながら、廊下を忍び足で玄関へ向かう。建て付けの悪い屋敷でなくて良かった、と安堵する。廊下を踏みしめても家鳴りがしない。
 玄関の靴箱から自分のスニーカーを取り出す。音を立てないように内鍵を開けて、外に出た。
 風が強くて、ボブカットの髪が風に煽られて乱れる。月は雲に隠れ、じっとりした空気が肌を舐めた。雨がいつ降ってきてもおかしくない。
 叶は車の鍵を取り出して、急いで中に乗り込んだ。車を出したら、その物音で屋敷のだれかに気付かれるかも知れないが、そのときには車はあっという間におみず沼周りの公道を抜けて、市街地へ向かっているだろう。
 案の定、何事もなく屋敷の敷地内から出ることができた。
 車を走らせた頃合いに、ぽつぽつと雨が降ってきた。
 外灯もない公道は暗く沈み、ライトの当たっている所だけが浮き上がって見え、他は闇に黒く塗りつぶされている。その心許ない明かりも、次第に激しくなってきた雨で見通しが悪くなった。
 急いでおみず沼から離れたくて、叶は無意識にスピードを上げていた。見通しの悪い雨の中、カーブの多い、山池周辺の公道を法定速度ギリギリで走る。
 おみず沼の周りに点在する、心霊スポットを巡ったときに通った道を、今は逆方向に市街地を目指している。
 ガクンと運転席が揺れて、白い指が、叶の髪を掴んだ。
「ひぅっ……」
 息を飲む音が喉から漏れる。後ろから肩と首に指が絡まってきて、ハンドルを握る叶の手にまで長くて白い腕が何本も伸びてくる。気を抜くとハンドルから手が離れそうになる。
 耳を指が、髪を無数の手が掴む。首に手が絡まって強く絞め始めた。喉から潰れた蛙のような声が漏れた。
 叶はアクセルを踏み、さらに速度を上げた。
 おみず沼から、離れないと……!
 あともう少しで結界の外に出る。それまで耐えないと。みつちさんに連れていかれてしまう。
 ぐねぐねと曲がる公道をなんとかハンドルを切って走らせた。顎を取られ、口の中にまで指が入り込む。少しずつ顔がのけぞっていく。
 首を折ろうとしているのか。もうすぐ、四つ目の道祖神を過ぎる。それがおみず沼を巡らされた結界の境界線だ。
 あともう少し。あともう少しだけ。
 叶の足がさらにアクセルを踏む。
 ライトで照らし出された道祖神の横を通りすぎていった。
 ざわざわと指が少しずつ叶から離れていく。指が爪を立てて、叶の首に傷を付ける。
 それを最後に、気配は消え去った。
 荒く息をつき、なんとか呼吸を整える。
 道祖神を修復したおかげなのか、みつちさんは追ってこられない様子だ。
 たった三日間のことなのに、叶にはとても長い時間に思えていた。三日前に通り過ぎた道すら、一年ぶりくらいに思える。
 前方にトンネルが見えてきたとき、車内が急に冷えてきた。フロントウィンドウが温度差で曇り始める。叶はチラチラとパネルを見ながら、フロントウィンドウに温風を当てる為のスイッチを探した。
 ふぅっと冷たい風が叶の耳元を掠める。
 何か変だ。
 みつちさん? 叶の脳裏に恐ろしい異形の姿がよぎる。いや、先ほど結界の外に出たから、追ってこれないはずなのに。
 車内の温度がより一層下がり、息が白くなる。半袖のワンピースでは寒くて、仕方ない。
 背後から人の気配がする。
 だれかいるのか? まさか一夜が潜んでいるなんてことはないか、と訝しむ。
「だれ?」
 小声で声を掛けた。
 答えなどない。やはりだれもいないのだ。
 それなのに、冷たい凍えるような気配が背後で膨らみ続け、ぎゅうぎゅうにひしめき合い、運転席に座る叶も息苦しくなってくる。
 だれかがいるけれど、だれか分からない。ただ、尋常でないことだけ分かる。
 車がトンネルの中に入った。ライトが自動的にハイビームになる。トンネルにはナトリウムランプの心細いオレンジの光が点っている。ライトが届かない暗い影のほうが、照らされた場所より大きい。暗闇を抜けるとまたオレンジの光に照らされる、を繰り返す。
 その間も、氷のような気配は叶の背後から近づいてきて、その息づかいが耳元で聞こえる。
 怖くて目をつぶってしまいたい。目を開けていたら視界に入るかも知れない。
 左側の首筋から腕に掛けて、鳥肌が立っている。怖気が体の表面を移動する。
 地の底を這うようなため息を耳元で吐かれた。
 叶は体を硬くする。
 前方だけを見るように意識を集中する。
 目の端に何かが映る。それがゆっくりと、背後から突き出てきた。
 異様に長い首を伸ばし、垂れた黒髪で隠れた顔がこちらを見つめている。
 カクンと首が九十度に曲がり、女の顔が横に倒れる。地獄の底から這い上がるような声が頭の中で響いた。
「おまえか?」
 みつちさんは結界を超えられない。けれど、水葉の悪霊にそれは関係ない。
 まさか、こんなことが……。信じられない思いに駆られて、悲鳴が漏れそうだ。辛うじて、叶は「私じゃない!」と叫んで目を一瞬つぶった。
 目を開けたとき、車はトンネルを抜けていた。暗闇に目が慣れる前に、急なS字カーブにさしかかったことに気付いた。
 急いで、右にハンドルを切る。離合の難しい狭いカーブだ。
 なんとかカーブを曲がれたと思ったとき、目がくらむようなライトの明かりが目の前にあった。
 つんざくようなクラクションの音。
 トラックの前面を軽自動車のライトが照らし出す。
 叶は目一杯ブレーキを踏んだ。
 避けようとして、思わずハンドルをガードレールに向けて左に切った。
 左に切ったが間に合わず、激しい音を立てて車の側面がトラックに衝突した。
 ひしゃげた車体が横転し、ガードレールに火花を散らしながらぶつかると、雨で滑りやすくなった路面を転がっていく。
 ガードレールが切れたところで、軽自動車は崖に投げ出された。
 叶は叫ぶまもなく、車と共におみず沼に落ちていった。
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