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1巻

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  【プロローグ】

「いいなあ、わたしもヒロインのような恋がしたい」

 リバティ調の花柄カバーをかけたベッドで、わたしは読み終わった本を閉じた。とっぷりと物語の余韻にひたりながら、ほうっと息を吐く。
 恋するギルティ――これが本のタイトル。海外の女性向けラブロマンス小説だ。
 どんなに紆余曲折うよきょくせつあっても、ヒロインはヒーローと結ばれ、愛のもとに幸せになる。それがこのジャンルの約束、不文律ふぶんりつだ。
 わたしはころんと横になると再び本を開き、お気に入りとなったプロポーズのシーンを読み返す。
 行き違いの末、ヒロインがヒーローとの別れを決意したとき、彼が心からの告白をして結婚を申し込む場面だ。大勢の人がいる中、戸惑うヒロインに向かって、忠誠を誓う騎士のごとく片膝をついたヒーローは指輪を差し出して――

「良いよねえ、このシーン」

 実際に往来でそんなプロポーズされちゃったら、人目が気になって恥ずかしいと思うんだけど、これは小説だから。物語だから。
 わたしはうっとりと脳裏のうりにそのシーンを思い浮かべた。

『恋愛が罪なら、私は有罪ね。だってあなたを愛してるんだもの』

 ヒロインは、弁護士であるヒーローにそう言って、指輪を受け取るのだ。
 ラストは結婚式のシーン。チャペルにウェディングベルが鳴り響き、これでもかっていうくらいのフラワーシャワーが描写されている。
 ヒロインに感情移入して読んでいたわたしは、その結末に「良かったね」と祝福を贈った。自分の結婚式では花だけじゃなくてキャンディやチョコレートも一緒に降らせるんだと想像しながら。
 もっとも、現実ではわたしに恋人と呼べるような存在はなし。それどころか、プライベートでつき合いのある男性など影も形もなく、友人枠すらもいない。結婚がすべてではないのよと、我が身をなぐさめるのが日常だ。
 本音では運命の人と出会い、ロマンティックな恋をして結ばれたいと願っているのに。
 そんなわたしは、みやはら、二十九歳。住宅メーカー〈菱澤ひしさわ工務店〉に入社して七年のOLだ。
 中肉中背で標準サイズ。特別美人ということもなく、すべてにおいて並み。
 ただ少し気が強かったり口が達者だったりするもんだから、周囲からは頼られるか鬱陶うっとうしがられるかで、おつぼね街道をまっしぐらに走っている。
 要は、彼氏ナシのいろいろこじらせているがけっぷちのアラサーなのだった。
 だがしかし、仮にわたしがおつぼねじゃなかったとしても、こんな物語みたいな恋などできる気がしない。
 イケメンのヒーローなんて、そうそういないでしょ。ましてや弁護士なんて、ドラマじゃあるまいし、どうやって知り合えと?
 まあ、イケメンというだけなら約一名、心当たりがないこともない。
 隣の課のむろけいすけだ。彼は二年前、営業所から本社営業に異動してきた。
 百八十センチ近い長身で、スーツをモデル並みに着こなし、涼やかな目もとにすっきりした鼻梁びりょう、口数少なく人を寄せつけないクールな態度も、気難しげに眉間に寄っているたてじわさえもカッコ良いと女子の関心を集めている。その仕事ぶりは目を見張るものがあり、営業成績は常にトップ。営業部のエースと呼ばれ、今では結婚したい男ナンバーワン。
 確かに見目良い男だけど――
 彼には、完璧すぎて近寄りがたさのようなものがあった。というか、なんとなく馬鹿にされているような気がして、好きになれないのだ。
 どの道、課も違うから仕事でかかわり合いになることはほぼなく、ゆえにただの顔見知り。つまりわたしのヒーローにあらず。
 わたしはまた、ほうっと息をついた。今度はさっきとは違う、自己嫌悪のにじんだ溜め息だ。
 切実に恋がしたいと願う一方で、実のところ、わたしは恋をすることが怖い。
 もっと簡潔に言うなら、男が怖い。いや、その先にあるセックスが怖いのだ。
 こうなってしまったきっかけは、わかっている。
 入社して間もない頃、学生時代からつき合っていた恋人との初体験で失敗したのが原因だ。
 彼といずれ結婚して幸せな家庭をきずきたいと夢を見ていたわたしは、小説のフレーズでいうところの「純潔をささげた」のだけど……
 その体験は最悪だった。
 だいたい『好きだったら濡れるはず』って、何よ、なんなの、わたしのせいなの? 挙句の果てに『これだから処女は面倒くさい』と捨てゼリフ。
 世の恋人同士は本当に皆、コレをしているのだろうか?
 痛くてたまらないのに、動くなと言われてじっとしていなくちゃいけないとは。
 何をどうしたら気持ちが良いんだっていうの。
 物語にあるような、熱くて甘くてとろかされ、得も言われぬ、めくるめくヨロコビを感じて、至上の時間を過ごすなんて嘘。嘘よ嘘!!
 本当に痛かったんだから。ごりごりとまれてくるアレが最悪。
 話に聞いていたのとは、まったく違う。どこが愛のいとなみよ。どこに愛。痛いだけで、ぜんぜん良いことなかった。
 だから男はコリゴリ――なんだけど、ああ、でも恋はしたい。
 こう胸をね、きゅんきゅんとときめかして、ドッキドキな。身も心もうっとり甘く、とろりとろけて愛し愛される恋愛がしたい。
 そんな矛盾する思いを胸に、わたしはもう一度、本を読み返し始めた。



  【1】

 朝。セミロングの髪をサイドアップにして、ジャケットにタイトスカートでかっちりバッチリ決めたわたしは、いつもより少し早めに出社した。
 昨日は売り上げ締め日で、わたしが所属する営業部三課は残念ながら予算未達成、営業部中最下位で終わっている。今日からまた心機一転、新たな気持ちで頑張るのだ。
 地下のロッカールームで制服に着替えていると、ロッカーの向こうから例の営業部エース室生さんのファンによるミーティング――要は情報交換という名の噂話をする声が聞こえてきた。そんなことに興味のないわたしは、さっさとロッカールームをあとにする。
 満員電車並みのぎゅうぎゅう詰めになったエレベーターを四階の営業部フロアで降り、部署に向かう途中、中から出てきた人とすれ違った。同期で同じ三課の営業、山口やまぐちだ。

「おはよう。今日出張じゃなかった?」
「宮原、悪い。机の上に置いといたんで、あと頼むな」
「あと頼むって、山口さん!?」

 いったい何を、と思いつつ、三課の自分の席にきてみると――
 なんなの!? これっ!?
 机の上には、山と積まれた未処理の伝票のたばがあった。
 目をこすり、まばたきを数回して、それでも見間違いでないことに茫然ぼうぜんとなる。
 売り上げ締め日の昨日、残業してまで全部片づけたはずの伝票がそこにあったのだ。
 わたしはキツネにつままれたような気持ちで、伝票に手を伸ばす。すると、はらりと紙片が落ちた。どうやら一緒に置かれていたらしい。
 なんだろうと思いつつ書かれていた文字に目を落とす。
 ふざけんなっ、山口っ!! 回すのを忘れていただとっ!?
 昨日、あれだけ未処理の伝票をすべて出すように言ったのに、まだ持っていたと――
 メモ紙を握り締めたわたしは、山口を追いかけるため部署を出た。エレベーターの前でつかまえられるかなと予想したのに、彼の姿はすでになく、目にしたのは下降していく階数表示だ。
 こうなったら階段と、エレベーターホールの脇にある非常階段に向かおうとしたとき、防火扉の陰から出てきた人に思いきりぶつかった。

「きゃっ! すみませ――うっ」

 ど、どうしよう……
 そこにいたのはまさかの室生圭佑だった。

「――っ。どこ見てるんだ、君は」

 室生さんはみぞおちの辺りを押さえて、顔をしかめている。

「あ……いえ……すみません」

 前方不注意だったのはわたしだ。わたしが悪いのは重々承知なんだけど……
 怖いです、その顔。なまじ端整だから、妙な迫力がありすぎる。
 室生さんがゆらりとわたしに近づいてきた。
 合わせてわたしはそろそろとあとずさり、壁際まで追い詰められる。もう下がれない。
 これで室生さんが壁に手をついたら、有名なあのシチュエーションだけれど、もちろんそんなことにはならず、彼はわたしを見下ろしただけ。眉間にくっきりしわをよせて、目をすがめている。

「――宮原瀬理奈か。三課の名物」
「はあ!? 何なのそれ!?」

 首から下げていたIDカードに気づいたのか、室生さんにフルネームを呼ばれたわたしは、頓狂とんきょうな声を上げる。
 名物!? わたしって他の課ではそう言われてるの!?
 どう考えても含みがあるようで、素直には喜べない呼ばれ方だ。

「ったく、締め日明けだというのに、朝から無駄に元気だな」
「ええ、落ち込んだって仕方ありませんからね。次はうちがトップ取ります!」

 暗に三課の売り上げ最下位をけなされたわたしは、とんでもないことを口走る。彼を見ているうちに、なぜか対抗心がかきたてられたのだ。
 けれど、内心では後悔していた。
 なんてこと言っちゃったの!? 営業でもないわたしがどうやって売り上げ作れるのよ!?
 彼は、そんなわたしの気持ちをかしたように、口の端を上げる。

「へえ、面白いな。せいぜい頑張って?」

 そう言うと、自分の課に向かって歩き去った。
 もう!! 馬鹿にして!! 絶対できないって思ってるわ、あの口振り!!
 わたしは広い背中を見詰めながら、メモ紙ごと握っていたこぶしを心の中で突き出す。
 こうなったら是が非でも、うちの営業に頑張ってもらわねば。彼らがより働きやすくなるように環境を整えるのだ。わたしだっていい加減、三カ月連続予算未達成という結果に我慢ならなくなっていた。


 結局山口はつかまらず、朝礼後、彼が残した伝票を入力しながら、わたしは「それにしても」とげんに思った。
 数が多すぎるのだ。回し忘れた伝票がこんなにあるなんて。かかりっきりで入力しているのに、ちっとも減っている気がしない。
 改めて伝票を手に取ったわたしは、パラパラとそれをめくり、日付を見てがくぜんとした。
 多いはずだ。これは丸っと一カ月分、いや先々月のものも交ざっている。
 ざっと数字を拾い見ても、かなりの金額だ。もしこれが昨日のうちに正しく処理されていたら、予算未達成で終わった月間売り上げ目標額も、らくらくクリアできていたかもしれない。もしかすると営業部きってのエース、室生さんのいる隣の二課を抑え、うちの三課がトップに――は無理でも一課を抜いて二位に。
 山口、お前ってヤツは――っ!! どれだけ回し忘れていたんだ!?
 憶えてろ、きっちりをしてやる。心の予定表に「山口に注意」と書き込むと、わたしは息を吸い込み、ゆっくりと吐き出すのを二回繰り返した。
 どんなときでも落ち着いて。慌てず騒がず、沈着対応。
 それがわたしの信条。最低最悪な初体験から立ち直るために決意したことだけど、仕事だって同じだ。
 だいたい、今怒っても仕方がないではないか。
 山口は、今日から一泊二日の出張。そしてヤツがいない間の業務フォローをするのが営業アシスタントの仕事。要するにわたしの役目だ。
 入力を再開したわたしは、すぐに「あれ?」っと思い直す。
 わたしは山口の顧客を把握している。これほどの数の伝票が出る案件があったという記憶がない。いくらなんでも忘れてましたで済ませられる範疇はんちゅうを超えている。
 改めて伝票を確認したわたしは、担当者の欄を見て再び驚いた。
 何、これ!?
 山口が回し忘れたというものはせいぜい十枚程度。あとは違う担当者の名前が記されている。
 つまり、山口の他に三人の営業の伝票が交ざっているのだ。
 クラリと精神的な眩暈めまいを覚えつつ、わたしは本来この仕事を任されていた営業アシスタント――後輩同僚の伊津いづさんに声をかけた。

「伊津さん、これどういうことかな?」
「ああ、それですかー。伝票を入力してないって言ったら、山口さんが宮原さんに頼んでおくからって」

 壁紙や床材などの資材見本帳を机の上に広げていた伊津さんは、どこか面倒くさそうに答える。

「あなた――」

 この一カ月何してたのよ!?
 呆れて言葉が出ない。
 彼女は去年総務からうちの課に異動してきたが、入社して三年経っている。営業アシスタントの経験は一年でも、新人で済まされていい年ではないのだ。
 それがこれだ。仕事をなんだと思っているのだろう。
 気の毒なのは、伊津さんに伝票処理を頼んだうちの営業だった。約三名の、彼らが頑張ったあかしとなる数字は、本来計上される月の売り上げではなく翌月となる――

「それに、あたしより宮原さんが入力したほうが速いし」

 そう言いながら彼女は、肩にかかった髪を指先に巻きつけ、しゅるりと払う。
 ちょっと、それが仮にも先輩であるわたしと話しているときの態度なのっ!?
 確かに端末入力のスピードだけを競うならわたしは速いだろう。タイピングの検定を受け、上位の級を持っている。
 だが、それとこれは別。
 苛立ちを覚えずにいられないが、ここで感情のまま声を荒らげることはできない。
 冷静に、冷静に。落ち着いて、瀬理奈――
 わたしは呪文のように内心で繰り返し、ひくひくとりそうになっている頬をどうにかなだめて口角をわずかに引き上げる。これで一応微笑んでいるように見えるはずだ。

「でもね、伊津さん。これはあなたの仕事よ?」

 営業アシスタントの先輩として、年長者として、後輩にさとし教えるのはわたしの役目。できる限り優しく。声音に気をつけて。
 前にも、彼女の仕事ぶりが目にあまり注意したことがある。そのとき彼女は人目をはばからず泣いてくれたのだ、パワハラだと言って。結局、課長から注意されたのはわたしだった。
 同じことを繰り返したくはない。

「でも、山口さん、オレが頼んでおくって言ってくれたんですよ?」
「山口さんのことはいいの。伝票の日付が一カ月前のもあるわ。どうして頼まれたときすみやかに処理しなかったのかな。それだけ時間があったら、速い遅い関係なくできると思うのよ」
「えー、でもー、他にやることあったし」

 伊津さんは納得できないとばかりに口をとがらせる。
 何が『でもー』だ。わたしだって納得できない。
 まったく今話しているのは、同じ言語か!? こんちくしょう。

「あのね、これはうちの課の売り上げなの。これが今手もとにあるというのはね――」
「わかってますよ、そんなの。だから宮原さんがやればいいじゃないですか。あたし、忙しいんですよ? 課長に頼まれた資料作り、やってるんですから」

 あからさまにふてくされた顔になった伊津さんが言い放つ。
 本当にわかっているのだろうか。入社後すぐに受けたはずのオリエンテーションでは何をやっていたんだ。社会人としての自覚はどこいった? それとももともと持ち合わせていなかったのか?
 胃が痛くなりそうになったわたしは息をついた。
 すると、伊津さんの机の上に広げられていた資材サンプル帳が視界に入る。わたしはそれを、目玉が落ちそうになるほど目を見開いて見た。
 そ、その資料っ!? 壁紙、床材、それからカ……、カーテン?
 それは、とっくに済ませて課長に渡していなければいけないものに似ていた。さすがに違うだろうが一応念のため、彼女にたずねる。

「それ、はら邸の資材見本じゃないわよね?」

 江原様はうちの取締役とも親しい方で、以前戸建て住宅の注文を請け負い、以来、そのメンテナンスも含めてずっと取り引きをしている上顧客だ。そして、今回リフォームを頼まれている。

「そうですけど、何か? これから資料室行って前回使った資材を確認するんです」

 ああ、課長――
 きっと、課長は資材の見本資料ぐらいなら伊津さんでも充分できると思ったのだろう。作業時間はゆうに一週間もあった。わからないことがあっても、ちょっと誰かにけば済むことだ。
 わたしは急ぎ脳内で課長の予定表を広げる。
 午前は営業部内会議で第二会議室。昼一で営業主任とミーティングして、それから二時に江原邸に訪問――!!
 あおめるしかない。
 現時点でこの状況。このままでは、間に合わないのは火を見るよりも明らか。
 これは何? わたしが悪いの? もう少し彼女の仕事を気にかけるようにと、大いなる意志のおぼし?
 彼女とは、できればかかわりたくない。誰が自分を嫌ってくれている人間と積極的に関係をきずきたいものか。だがしかし、この三課の営業を支えるアシスタントとして――……
 悩んでいる暇はなかった。
 伊津さんからはまた恨まれることになるだろうが、今は商談に使うこの資料をきっちりそろえるのが最優先だ。
 決断すると、わたしは近くにいた同僚に声をかける。

「申し訳ないけど手を貸してもらえる? 資料室から、ファイルAの壁紙と床素材見本とYSシリーズのカタログを持ってきてほしいの。それと過去の江原邸のデータをお願いします」
「宮原さん! 何を勝手なこと言ってるんですか!? 横暴です!! これはあたしが!!」

 伊津さんは顔を真っ赤にしていた。

「伊津さん、わかってると思うけどこれは仕事よ。時間がないの。商談は今日の二時から、ということは課長が社を出るのは遅くても一時十五分。それまでにすべてそろえなければならないのよ」
「だから今やって――」
「うん、あなたはやっている。でもそれでは間に合わないの」

 わたしはりそうになっている顔に笑みを貼りつけて答える。
 ああ、泣きたい。わたしだって、人の仕事に横から口を出す真似などしたくない。ただでさえ仕事が多くて、やることは他にもあるのだから。しかし、すべき順番をつけるなら、今しなければならないのはこれだった。

「宮原さん、壁紙と床、資料これでいい?」
「YSシリーズは先日新しいカタログが出ました。これも使いますよね」

 わたしの声とともにすぐに行動してくれた頼もしき同僚たちが、分厚い見本台帳を持って集まってくる。その上、新作のカタログまで持ってきてくれた。

「ありがとう。すぐに台帳を組み直してくれる? 確か江原の奥様は欧風のものがお好きだったわね。南欧風もさりげなく交ぜておいて」
「南欧風ですね。外壁も触るんでしたか?」
「内装だけだったと思う。それとキッチン周り。バリアフリーも提案できるよう、そっちの資料作ってもらえる? 前、そんな話も聞いたから――えっ? 伊津さん!?」

 ガタンとこれ見よがしに音を立てて伊津さんは席を立ち、足早にフロアを出ていった。
 またしてもこじれてしまった関係に、頭が痛くなる。

「行っちゃった。また給湯室にこもるのかな」
「ドンマイですよ。仕方ないと思います、これでは」

 同僚二人が伊津さんのとっ散らかった机を見て、頷いてくれたのが少しなぐさめだった。


「そんなことが。大変でしたね、瀬理奈さん」
「まあねえ」

 わたしは、会社近くの行きつけにしている洋食屋で普段より遅いランチを取っていた。テーブルを挟んで向かいには、同期で社の受付嬢をしているはまむらがいる。
 時間は一時半になろうとしていた。正規の休憩時間からずれてしまったが、お陰でちょうど休憩だという万由里と一緒に食事ができたのはラッキーだ。
 彼女にかれるままに、ランチが遅くなってしまった理由を話す。
 たりさわりのないことだけに留めようとしたが、どうやら万由里は多少の事情を知っていたようで、結局はすべて話すことになってしまった。
 というのも、くだんの伊津さんは、自分と同期の受付嬢に盛大な愚痴ぐちこぼしに行き、それを注意したのが万由里だからだ。
 万由里は、わたしと同い年の二十九歳にはとても見えない童顔で、話し方もおっとりしているために誤解されがちだが、かなりはっきりとした性格だ。
 この〈菱澤工務店〉の常務取締役の令嬢で、いわゆる縁故入社だが、受付嬢という仕事に誇りを持っている。
 そんな万由里が、来客者に応対する場所に、受付に関係ない者が延々と居続けることを許すはずがない。
 わたしは万由里からその話を聞いて、耳が痛ければ頭も痛くなった。
 給湯室に二、三時間こもってくれたほうがはるかにましだ。よりによって受付に行くなんて。
 なんでも伊津さんは、たまたま席を外していた万由里が戻っても話をやめようとせず、来客の応対にその同期の受付嬢が立ち上がり、万由里が注意してようやく引き上げたという。
 伊津さんと同じ部署の者として、わたしは万由里に謝った。万由里はわたしが謝罪することではないと言ってくれたけど、申し訳なくてたまらない。同期の受付の子も、さぞかし困ったことだろう。

「立場が変われば見方も変わるものですが、それにしても随分ひどい言いようでした。仕事を横取りしただの、そうやって評価を上げているだのなんだの、さんざんに……」

 万由里は言いにくそうに教えてくれる。

「でしょうね。なんたって営業三課のおつぼねだもん、わたしは」

 わたしは自嘲じちょうの笑みを浮かべた。伊津さんぐらいの年頃からしたら、口喧くちやかましい年長の女子社員とは距離を置きたくなるものだ。
 伝票のことも、自分は山口に言われた通りやっただけだと話したらしい。
 その山口からは、さっき連絡があった。溜めてしまった伝票がまさか一カ月分以上だったとは彼もまったく気がついていなかったらしく、その伝票が処理されていれば予算目標額をクリアしていたと教えると、茫然ぼうぜんとした気配がスマートフォン越しに伝わってきた。
 せめて二日前だったらどうにかできたのにとつぶやいていたが、その皺寄しわよせがくるのは誰かということまでには頭が回っていない。わたしは半分だけ同意して通話を切っておいた。

「瀬理奈さんがおつぼねと言われるなら、私もですね。同じ年ですもの」
「大丈夫よ、万由里がお局様つぼねさまと言われることは絶対ないから。わたしが断言するわ」

 万由里がおつぼねと呼ばれるなんて、わたしが「お嬢様」と呼ばれるくらいあり得ない。

「でも――、彼女のことは困りました」

 あまり人のことを悪く言わない万由里にしては珍しい物言いだ。


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