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1巻
1-1
しおりを挟むプロローグ
「やっと二人きりになれたな」
「えっと。そ、その……」
私、瀬野沙耶は、この度会社を辞めて転職する同僚、志波直のために、先ほどまで同期十人で送別会をしていた。
その後は二次会に進むだろうと思っていたのに、なぜか皆は早々と解散してしまい、残されたのは私と直、二人だけ。どこか意図的なものを感じるが、同期の彼らに私たちが付き合っていることは教えていないから、わざとではないのだろう。
だが、私としては彼と二人きりになんてなりたくなかった。
一気に挙動不審になる私を見て、直は眉間に皺を寄せる。
こんな表情をしているときの彼からは逃げられない。
付き合い出して約三年の間に、そんなことは思い知らされている。
案の定、彼は私の手を掴んだまま、皆が向かった駅とは真逆の方向へと歩き出した。
「ちょ、ちょっと! 直?」
「……」
「直ってば!」
振り解こうとした手は、余計に力強く握りしめられてしまった。
私に背を向けて歩いていた直が、そこでようやく立ち止まって私を振り返る。
「大人しくついてこい」
「ヤダ!」
「ヤダじゃない。俺たちは、これから大事な話をしなければならないはずだが?」
本当は、直の言う通りである。
彼の転職先は、NY。そこに本部を置く経営コンサルタント会社に引き抜かれた彼は、来月早々に日本を発つ予定だ。
恋人である彼――直とは入社も一緒、配属された部も一緒で、長年共に過ごしてきた仲だった。
はじめはただのよき同僚という間柄だったのだが、あるときから直の猛アタックが始まり、三年前に付き合い出したのだ。
ストーカーか! と言いたくなるほど執拗に口説かれたときには戸惑ったが、そんな情熱的な彼に惹かれていくのに、そう時間はかからなかった。
そもそも、彼を異性として意識するようになったのは、私の方が先だったのかもしれない。
入社二年目、私の父が亡くなった。
仕事に影響を出せないと、会社では明るく振る舞っていた私だが、実のところかなり無理をしていた。
直はそれをすぐに見抜き、私を温かく慰めてくれたのだ。
あのときはまだ口説かれ始める前だったが、今思い返せば、彼のあの優しさに触れて私は恋に落ちたんじゃないかと思っている。
順調にお付き合いを続けていた私たちだったが、岐路はすぐ目の前に近づいていた。
直が、NYへの転職を決めたのだ。
その後、彼はすぐ私に決断を促してきた。
直の彼女である私も、心を決めなければならない。
彼について行くのか、行かないのか。
だが、私はその答えを、今日までの二ヶ月間、ずっと保留し続けていたのだ。
早く返事をしなければいけないとわかっていたけれど、決断を引き延ばしておけば、その間は直の彼女でいることができる。そんなふうに思っていた卑怯な自分がいる。
何も言わない私を見て盛大にため息をついた後、直は再び私の手を引いて歩き出した。
私が何度制止しても、止まってくれる様子はない。
半ば諦め気味になった私は、直の背中に問いかけた。
「どこへ行くの?」
「車。コインパーキングに停めてある」
今日はどうやら車で来ていたようだ。確かに、すぐそこにあるコインパーキングには、見慣れた直の車が見えた。
だが、先ほどまで送別会で呑んでいたのだ。飲酒運転をさせる訳にはいかない。
私は、直の手をグッと引っ張った。
「直! 運転できるの? お酒飲んでいるんじゃ……」
私の問いかけに応える直の表情は硬い。
「俺は今日、酒は一滴も呑んでいない。お前との話し合いが控えてるっていうのに、呑んでられるか。あれは酔っ払いの戯れ言だったと、後々流されたら堪らないからな」
直は今夜、絶対に私と話し合うつもりだったのか。
もう言い逃れはさせてもらえないらしい。
抵抗をやめた私だったが、それでも彼の車に乗ることは躊躇してしまう。
「ほら、乗れよ。今日は話し終えるまで帰さないから」
直は助手席の扉を開き、私を強引に車に乗せた。
動揺する私の様子に気づいているはずだが、直は小さく笑って扉を閉める。
運転席側へと移動する彼を、私はただ見つめることしかできない。
ギュッと鞄を握りしめていると、ついに直が運転席に乗り込んできた。
すぐさまスタートスイッチを押し、エンジンをかけようとする彼の腕を慌てて掴む。
「やっぱり、ここで話そう。直」
「おい、沙耶。ここはコインパーキングだ。こんなところでは、じっくり話し合いなんてできないぞ?」
「わかってる。だから、手早く終わらせるわ」
「それは無理だ」
直は眉間に皺を寄せてもっともなことを言った。簡単に終わる話じゃないことは、本当は私もわかっている。だけど……
まっすぐ正面を見ていた私は、そこで身体ごと直に向き直った。
なおも早く事を済ませようとする私に、直は渋い顔をする。
「あのな、沙耶。これはそんなに早く終わる話じゃないだろう?」
「……」
「俺が実質的なプロポーズをしたというのに、お前は返事をくれていない。それどころか、ここ最近ずっと逃げ回っていた理由をきちんと話せ」
思わず無言になる私を、直はメガネ越しにジッと見つめている。
情熱的なその強い眼差しが好き。今も大好きだ。そしてこれからもずっと、私は彼を好きなままだと思う。
彼の大きな腕の中が、私の一番好きな場所。そして、安心できる場所でもある。
そのぬくもりをずっと感じていたい。そう言ったら、目の前の男はなんて返してくるだろうか。
『当然だ。俺はお前のことが一番大事なんだ。大事な女を癒せなくてどうする?』
少しだけ眉を上げ、頬を緩めて笑う。私が一番好きな自信に満ち溢れた表情をしながら、そんなことを言うかもしれない。
と、不意に直が目元を緩めた。その表情に、胸の鼓動が高まっていく。
瞬きをしながら見つめ続けていると、直が身を乗り出すようにしてこちらへ近づいてくる。
その大きな手のひらが、いつものように私の頬に触れようとした途端――
私は顔を背けてそれを拒んだ。
視線を戻すと、ショックを受けたような表情の直が見える。
胸の奥がズクッと鋭く痛んだが、私には彼の手を拒まなければならない理由があった。
私の実家である旅館が廃業の危機に陥ったため、どうしても私が戻らなければいけなくなったのだ。
けれど、彼の手のひらで頬を撫でられたら、私は直が欲しくなってしまう。
身を引き裂かれる思いで下した決断も、翻したくなるだろう。
直には本当のことを言わずにさよならすると、すでに覚悟を決めているのだ。
だって、それを言ってどうする? どうなる?
彼はNY、私は日本。物理的に離れることになる状況で、いつまでも関係が続けられるなんて思えない。
直は仕事ができるだけでなく、容姿もよくてモテる男性だ。
NYには、彼にふさわしいキャリアウーマンがたくさんいるだろう。
めったに会えない彼女なんて、彼の負担になるだけだ。
もう、終わりにしなくちゃいけない。
それが、私にとっても直にとっても、最良の未来なんだ。
持っていた鞄をさらにギュッと握りしめ、私は自分の拳を見つめた。
「私は……直について行けない」
「沙耶」
私の名前を呼ぶ直の声が、悲しみを帯びていることに気がついたが、私はその声をかき消すように言った。
「別れよう、直。私たちは別々の未来を選んだ方が幸せになれる」
それだけ言うと、私は助手席のドアを開いて直に背を向けた。
これ以上、彼の顔を平然と見つめていられる自信はない。
彼の気持ちを聞かないまま逃げてしまうことに、申し訳なさで心が痛むが、もう無理だ。
こうして顔を見ていたら、声を聞いていたら……何もかもを投げ出して『直について行く!』と叫んでしまいそうになるから。
だが、そうすることはできない。彼には私のことなど気にせず、自由にのびのびと仕事をしてほしいのだ。
私ごときがいつまでも引き留めていてはいけない。
急いで車を降りた私を、直は必死な声で呼び止めた。
「待て、沙耶。待てって言っているだろう!」
「……っ」
「沙耶!!」
直の厳しい声に、私の身体は反射的に動きを止めた。
足が動かず、その場で固まっている私に、車を降りた直が近づいてくる。
〝来ないで〟と懇願しながらも、本心では〝抱きしめて〟と違うことを考えてしまう。
ハイヒールの先端をジッと見つめて俯いていると、背後から包み込むように直が抱きしめてきた。
彼の体温を感じてしまうと、覚悟を決めて告げた言葉を取り消してしまいたくなる。
泣きそうになるのをグッと堪え、私は再び首を横に振った。
だが、こうして必死に拒絶しているにもかかわらず、直は一向に引き下がらない。
「俺は諦めないぞ?」
「諦めてよ。私はもう……とっくの昔に諦めた」
そんなのは嘘。私の大嘘つき。
私の口からは、自分の想いとは真逆の言葉が飛び出してくる。だけど、それでいい。それでいいんだ。
私は、直の言葉を頑なに拒む。
ふと、耳元に吐息がかかった。どうやら彼がため息をついたらしい。
私が再び身体を震わせると、直は私を抱きしめていた腕をゆっくりと外した。
「あ……」
思わず出てしまった、寂しさの籠った声。
直に聞かれたくなくて、私は慌てて両手で口を押さえた。
身体から熱が離れていく。彼の腕に縋りつきたいと思う私は、まだまだ直を諦めきれていない。
何かを言い出しそうになる自分の唇を、ギュッと噛みしめる。
俯く私の背中に、直が声をかけてきた。
「仕事を続けたいか?」
「……」
「NYに行くのがイヤか?」
「……」
今、口を開いたら、本当のことを話してしまいそうだ。
それだけは、絶対に避けなければならない。
「何が沙耶の心を苦しめている? 理由を話せ。俺が納得するように全部話せ!」
直のことだ。事情を知ればこの件もなんとか解決しようと奔走してくれるのは目に見えている。
志波直という男は、とても器の大きい男だ。
俺様なくせに、一度自分の懐に入れた人間にはとことん優しい。
入社してから五年、ずっと彼の近くにいた私は、それをよく知っている。
恋人という関係になってからは、さらに直の優しさを感じていた。だからこそ、彼には私というしがらみになんて捕らわれず、好きな仕事を頑張ってもらいたい。
仕事をしているときの直は、惚れ惚れするほど格好いいのだ。彼の仕事に対しての真摯な姿勢が私は大好きだから。だから――一つの嘘をついた。
「私、このまま日本に残って仕事を続けたいの。それが理由よ」
「本当に、それだけが理由か?」
「……そうよ」
背後で盛大なため息が聞こえた後、真剣な声色で直は言う。
「逃げるな」
「……」
「そう言っても、今の沙耶は俺から逃げるつもりなんだろうな」
呆れたような声も愛おしい。そんなことを頭の片隅で思った。
この声を聞くのも、これで最後だ。
そんな事実がジワジワと現実味を帯びてきて、身体はおろか心の芯まで冷たくなっていく。
何も言わない私に、何かを決意したらしい直は、真剣な声で囁いた。
「一年後」
「え?」
ビクッと肩を震わせる私の背中に、直は言葉を投げつけてきた。
「一年後の三月、俺は日本に戻ってくる。そのときにもう一度話し合いたい。それまで俺からは連絡を取らないから、じっくり考えてほしい」
直に背を向けたまま、私は何度も首を横に振る。
そうすることで、彼の言葉と声をかき消したかった。
だが、これ以上嘘をつき続けることはできそうにない。
私は直を振り返ることなく、足を踏み出す。
少しずつ早くなっていく歩調。ヒールの音をカツカツと響かせ、ついに私は直の前から逃げ出した。
「沙耶! 俺はお前を諦めない!」
今の私にとって残酷な言葉を投げつけてくる直。そんな彼の顔を見るのが怖くて、私は急いでその場を立ち去ったのだった。
1
(どうか……どうか、旅館の借金が少しでも減りますように)
寂れた社の前で手を合わせてから、どれぐらい時間が経っただろう。
参拝客が誰もいないのをいいことに、かなり長い間祈っていた気がする。
あまりに熱心な私の様子には、氏神様もきっと戸惑っておいでに違いない。
ようやく一通りのお願い事を呟ききった私は、社にお辞儀をして家路についた。
私、瀬野沙耶。二十九歳、独身。
身長は百六十五センチ、自分ではスレンダーな体形だと思う。
胸はもうちょっと育ってくれても良かったのにとは考えなくもないが、それも不満というほどではない。
ただ顔立ちは、今より少しだけ愛嬌があるとよかったなぁとは思っている。
私はフェイスラインがシャープで目が切れ長気味なため、一見すると淡々としてクールな表情に見えるらしい。
笑っていればそうでもないのだが、普通にしていると怖く見えると言われたこともある。
化粧を少し濃くしただけで性格がキツそうな顔に仕上がるため、ナチュラルメイクを心がけ、無表情にならないよう気をつけてはいるのだけど……
ストレートの黒髪も、よりクールさを演出しているのではと思い、カラーリングを試みようとしたこともあるが、結局実行前にやめた。
やっぱり黒髪が一番好きだし、自分に似合っていると思ったからだ。
外見ではクールな女と思われがちだが、本当の私はこうしてウジウジ悩むことも多い。
私の性格を知る友人知人に尋ねれば、きっと同じことを言うだろう。
小さく息を吐き出した後、私は空を見上げる。
今年の夏は酷暑だった。九月に入った今もなお残暑厳しく、今日も暑くなりそうだ。
私は、こっそりとため息を落とす。
木々の隙間から零れ落ちる光の粒に目を細めていると、大木に囲まれた社の上からキレイな青空が見えた。
(直、元気にしているかしら……なんてね。振った私が心配するのは筋違いかな)
ツキンと痛む胸を押さえながら、今は遠い地にいる彼のことを思う。
志波直、二十九歳。私と同じで九月に誕生日を迎えたばかりだ。
ただそこにいるだけで人の目を惹く彼はスタイリッシュな格好を好む人で、下手をすればキザったらしく感じる装いでも素敵に着こなしてしまう。チタンフレームのメガネも、洗練さを演出するのに一役買っていた。
そして、身長百八十七センチある体躯は、スラリとしつつも男らしさに溢れている。
いつもはラフに流している前髪がハラリと落ちたとき、なんともいえぬ色気にドキッとしてしまったことは、今でもよく覚えている。
そんな一見優しげな雰囲気の彼だが、実は強引で俺様気質なところがある。でも、そのギャップが素敵だと言う女性は社内でも後を絶たなかった。
見目は上々、仕事もできる。言うことなしの男性ということで、女性社員からの視線を一身に浴びる人。
そんな彼と私は、経営企画部で五年間一緒に過ごした。
配属年数こそ同じだが、彼と私の実績では比べものにならない。
彼が会社を辞める直前、私はやっとチームリーダーに就いたところだったが、彼はすでにグループリーダーにまで上り詰めていた。
当時二十八歳という若さでその役職に就くことは異例中の異例。それだけ彼は会社に貢献し、上司部下たちから絶大な信頼を得ていたのだ。
そんな彼だから、あのままエリートコースを邁進していくと思っていたのに、ある日突然転職すると告げられた。あのときは驚いたし、衝撃を受けた。
『会社を辞めて、NYにあるコンサルタント会社に行こうと思っている。お前についてきてほしい。いや、連れて行く』
その言葉を聞いたとき、彼に愛されているんだという喜びとともに、相変わらずの俺様発言が格好よくて、つい胸を熱くしたものだ。
けれど最終的に、私は直の手を取ることができなかった。
彼からその話を聞かされる一週間前、兄嫁が泣いて私に電話をかけてきたからだ。
『沙耶さん、お願い。瀬野に戻ってきて! どうか若女将になってください』
涙声の兄嫁に、私が大慌てしたのは言うまでもない。
時折鼻をすすりながら、彼女は私の実家である旅館『瀬野』の現状について話してくれた。
瀬野は、創業百十九年。東海地方の山間にある、先祖代々続く老舗旅館だ。
かつてはかの有名な文豪たちが執筆のために訪れ、逗留したと言われる名旅館でもある。
四代目であった私の父は五年前に亡くなり、その後は女将である母と番頭の兄が旅館を切り盛りしていた。
瀬野家は代々長男が旅館を継ぐことが決められており、兄も高校を卒業後、すぐに瀬野へ就職し、番頭職に就いて父に仕事を教わっていた。
『いずれお兄ちゃんが瀬野を継ぐから、沙耶は好きな勉強をしていいぞ!』
という兄の言葉をありがたく受け取って、私は念願だった東京の大学へ進学したのだ。
兄が将来お嫁さんを貰うとき、小姑が瀬野で働いていたら肩身が狭いかもしれない。
それでは、お互いやりづらいだろう。そう思ったこともあり、私は旅館の仕事に就かなかった。
兄が結婚した後も、あまり頻繁に帰るとお嫁さんに気を遣わせてしまうと、私は正月とお盆ぐらいしか帰省していない。
さらに、今年の正月は風邪を引いたために帰省できなかった。
だから前回帰省したのは昨年のお盆だった訳だが、いつもと同じく、特に不安になるような話は聞かなかったので、兄は立派に番頭としての役目を果たしていると思っていた。だが、どうやらそれは違ったらしい。
兄嫁の話によると、確かに最初こそ父と同じく堅実に運営していたようなのだが、兄は何を思ったのか、ある日を境に『もっと旅館をよくしたい』と奮起し始めたという。
それだけなら別に困ることもないのだが、兄はとにかく楽観的で、昔からあまり物事を深く考えないところがある。
そうしてあれこれ手を出しては失敗するということを、ここ最近では繰り返していたようだ。
『次はなんとかなるさ!』という相変わらずの楽観主義を貫いた結果、気づけば借金がかさんでいたという。
だというのに、兄は懲りずにまた訳のわからない事業に手を出そうとしている。
頼みの綱である私たちの母――もとい女将も兄と同様、楽観主義でどうにもならない状態らしい。
『沙耶さんだけが頼りなんです。もう、私の力ではどうにも……』
憔悴した様子の兄嫁の言葉に、私は青ざめたなんてものじゃなかった。
これはもう、緊急事態である。
母と兄に任せていたら、兄嫁の心配通り、瀬野は早晩経営破綻してしまう。
父が必死に守ってきた、旅館瀬野。それを兄の代で潰す訳にはいかない。
話を聞く限り、今の瀬野は崖っぷちにある。
私が実家に戻って立て直しを図らなければ、家族も従業員たちも路頭に迷うことは必至。
今の瀬野には、私が必要なのだ。現実を見ている兄嫁も、三歳の男の子を抱え、さらにお腹の中には新たな命が宿っている。
彼女一人に、この旅館の窮地を救ってほしいと頼むのは酷な話だ。
そんな事情があり、私は直の手を取ることができなかったのだ。
直が日本を発ってすぐ、私は部長に退職の旨を伝えた。
突然の申し出だったので、かなり渋られたが、事情を話すと最終的には了承し、励ましてくれた。
無理なお願いだったにもかかわらず『後のことは大丈夫だ』と言ってくれた部長には感謝の言葉しかない。
それからの私は、誰にも気づかれないよう細心の注意を払いながら引き継ぎ用のマニュアルを作り、部下たちに少しずつ仕事を移して退職の準備を進めた。
だから社内で私の退職理由を知っているのは、部長だけだ。
皆に内緒にしてほしい、という我が儘なお願いを、部長は律儀に守ってくれた。
未だに同期の誰からも連絡がこないのが、その証だろう。
当時のスマホも解約してしまったので、同期たちと連絡を取る手段はもうない。
何も言わずに姿を消した私のことを、彼らはきっと怒っているだろう。
薄情なヤツだとも思っているかもしれない。
だけど、あのときの私は、誰にも知られずに実家へ戻りたかったのだ。
『一年後の三月、日本に戻ってくる。そのときにもう一度話し合おう』
そう言ったときの直の表情は真剣そのものだった。一年後に必ず日本へ戻ってきて、再度私にNYについてきてくれと言うだろう。
そうすれば、自分の意志で別れを告げたはずの私なのに、再び迷うことになる。
応援ありがとうございます!
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