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しおりを挟む第一章 いつの間にか移転しました
稲盛小梅は現在十八歳、もうじき高校を卒業して社会人となる乙女である。
卒業間際のこの時期、すでに授業は終わっており、友人とは登校日に顔を合わせる程度だ。そのため、今日は仲のいい者で集まってお別れ会をすることになっている。
そろそろ家を出る時間が迫っているのだが、小梅はまだ準備が終わっていなかった。
「おばーちゃん、私のバッグ知らない!?」
「なぁに小梅ったら、まだ準備できていないの?」
バタバタと居間を覗く小梅に、テレビを見ていた祖母が呆れた顔をする。
「バッグなら、自分でそこに放っておいたでしょうに」
「あぁー、あった! 良かったぁ」
祖母が指し示した先に、探していたバッグが置いてある。財布が入れっぱなしだったので、これが見つからないと出かけられなかったのだ。
「小梅は本当におっちょこちょいねぇ。いつになったら落ち着くのかしら」
困ったようにため息をつく祖母に、小梅は「いーっ!」と歯を剥き出しにする。
「私だって、もうすぐ大人の女になるんですぅ~!」
「大人の女っていうのは、ある日突然なれるものではないのよ」
小梅の負け惜しみに、祖母が正論で返す。
大人の女を夢見る小梅は、百五十センチ未満という低身長に童顔である。肩まである黒髪をおさげにしていることも相まって、中学生に思われがちだが、正真正銘十八歳だ。
そんな小梅の家族は祖母だけ。両親は幼い頃に交通事故に巻き込まれて死亡し、祖父もそれと同時期に病気で亡くなった。小梅に残されたのは、たった一人の家族である祖母と、祖母が営むだんご屋の「なごみ軒」だ。最近では老舗の和スイーツ屋として地元紙に紹介されることもある。
「なごみ軒」は祖母が祖父と一緒にはじめた思い出の店で、小梅にとっても大事な場所である。高校を卒業したら、小梅も一緒に店を切り盛りするのだと決めていた。
だから、高校は調理科のある学校を選んだし、飲食店経営に必要な資格も調べている。
小梅は早く一人前になって、祖母に楽をさせてあげたいと思っていた。
しかしそんな思いも空しく、未だに落ち着きがない小梅である。
出がけにバタバタしている様子を見て、祖母が声をかける。
「ほら、バスの時間は大丈夫なの?」
「あ、マズイ! 行ってきまーす!」
「楽しんでいらっしゃい」
慌ただしく家を出た小梅を、祖母が微笑んで見送る。
小梅は店舗兼住宅のだんご屋「なごみ軒」の裏口から飛び出し、バス停に向かって道を急いで駆け下りた。
――ヤバい、乗り遅れる!
必死で足を動かし、なんとか無事にバスに乗る。こうして待ち合わせに間に合った小梅は、友人たちとの語らいを楽しんだ。卒業するのは寂しいが、これから祖母と一緒に働く明るい未来に思いを馳せる。
しかし運命の歯車は、一本の電話によって違う方向に動き出す。
「……え、いま、なんて?」
それは祖母が交通事故に遭って、病院へ搬送されたという知らせだった。
――おばーちゃん!
小梅の脳裏に、笑顔で送り出してくれた祖母が蘇る。
事故に遭ったといっても、案外軽い打撲程度かもしれない。自分にそう言い聞かせながら、真っ青な顔で病院へ駆けつける。
そんな小梅を迎えたのは、すでに帰らぬ人となった祖母の姿だった。
「おばーちゃん、これから一緒にお店をやろうと思っていたのに」
慌ただしく通夜と葬式を終え、小梅は日が暮れた頃に家に戻って来た。今は、仏壇の前で泣きながら祖母の遺影に語りかけている。
祖母は足腰もしゃんとしていて、老いなんて感じさせないパワフルな人だった。
それなのに買い物帰り、居眠り運転をして歩道に突っ込んで来たトラックから、子供を庇って犠牲になったのだ。
卒業式を数日後に控え、「さあこれからだ!」という時に。祖母が両親と同じく交通事故で亡くなるなんて、考えてもいなかった。
「おばーちゃん、おばーちゃん!」
通夜や葬式では、色々とすることがあって泣くどころではなかった。
けれど改めて一人になった今、祖母がいない事実が嫌でも小梅の心に迫る。
小梅は遺影を胸に抱き、いつも祖母が身に着けていたペンダントを手にする。
それは深い緑色の石の中に星の輝きのような光がある、不思議なペンダントだ。
『おばーちゃん、これ綺麗な石だね』
子供の頃、小梅が聞くと祖母は意味ありげな笑みを浮かべてこう言った。
『これはね、神様にもらったのよ。いつか小梅に譲るから、その時は大事にしてね』
祖母なりのお茶目だったのだろうが、幼い小梅は『神様にもらった』という言葉にときめいたものだ。
結局なんの宝石かはわからず仕舞いだったが、小梅は他にこんなものを見たことがない。
なんにせよ、これは大事な祖母の形見だ。
「おばーちゃん、今日は一緒に寝てくれる?」
自分の部屋に戻る気になれない小梅は、鼻をグスグスといわせながら遺影に語りかけ、仏壇の前に布団を敷く。そして枕元に遺影とペンダントを置くと、コロンと横になる。
それからしばらく寝付けなかった小梅だが、外で降り出した雨の音を聞いているうちに、いつの間にか寝入っていた。
『寂しがり屋の小梅に、新しい人生が訪れますように』
祖母のそんな声が聞こえた気がした。
そしてその日の深夜、「なごみ軒」のあたりが明るく光ったのを、近所の住人が目撃したという。
チュンチュンという小鳥の爽やかな鳴き声に、小梅は目を覚ます。
――顔が痛い……
起きて一番に思ったのはこれだ。きっと泣きすぎて、顔が酷いことになっているだろう。モソモソと布団から這い出て、顔を洗いに洗面所に行く。
「やっぱり、こうなるよね」
鏡に映っている顔は目元が腫れて真っ赤になっているし、全体的にむくんでいる。
春先のまだ冷たい水は顔を冷やすのにちょうどいい。
――人生で一番泣いたかも。
両親や祖父が亡くなった時、小梅は幼すぎて死というものが理解できなかった。だから祖母の死はある意味、小梅が初めて直面した身内の死なのだ。
昨日までは悔しさと悲しさで頭がぐちゃぐちゃだったが、沢山流した涙と共に、気持ちがほんの少しだけ整理できた気がする。
祖母が亡くなったのは悲しいし寂しいけれど、小梅はこれから一人で生きて行かねばならないのだ。
「泣いてばかりじゃダメだよね」
きっと夜になればまた寂しくて泣いてしまうだろうが、昼間くらいはちゃんと今まで通りの生活をしよう。
それに大泣きしたからか、お腹がすごく減っている。
『どんな時だって、お腹が減るなら案外平気なもんよ』
そんな祖母の声が聞こえる気がする。嫌なことがあって落ち込んでいても、食欲があるなら大丈夫だと、いつも励まされたものだ。
――とりあえず、朝ごはんを食べよう。
小梅は寝間着のまま台所へ行き、冷蔵庫を漁る。祖母が朝はパン派の人だったので、食パンのストックがあった。それと卵とハムもあるからハムエッグにでもしよう。
手早くハムエッグを作りながら、食パンをトーストする。電気ケトルで沸かしたお湯でインスタントスープを作れば、立派な朝食の出来上がりだ。
ダイニングテーブルの席に着こうとしたところで思い立ち、仏間から祖母の遺影を持って来て正面の席に立てかけた。いつも二人で食卓を囲んでいたので、やはり一人は寂しいのだ。
「おばーちゃん、頂きます」
遺影に話しかけた後、小梅はハムエッグをトーストの上にのせて食べた。少しだけ涙の味がするのは、しばらく続くだろうなと思いながら。
一人きりの味気ない朝食を終えれば、やることはそれなりにある。
――裏の畑を見に行かなきゃね。
畑ではだんごを作るための米やもち米を作っていた。それらの植え付けはこれからなので水田は空いているが、隅の方で自分たちが食べる野菜も作っている。
野菜の世話をしたり、田植えに向けて水田を整えたり、苗を育てたりする作業が待っているのだが、祖母が事故に遭ってからの数日間、ろくな世話をしていない。
暑い季節ではないし、昨夜雨が降ったからいいようなものの、せっかく育てた野菜が枯れていたら嫌だ。
小梅は、祖母のペンダントを首から下げる。祖母が見守ってくれている気持ちになったところで、農作業の格好になって家の裏口から畑に出た。
家は小高い丘の中腹に建っており、畑からは麓の商店街が見えるはずなのだが……
何故か小梅の視界に商店街はなく、代わりに広大な森が広がっている。
「……は?」
思わず、小梅の口から間抜けな声が漏れた。
昨日まであったはずの街並みは、一体どこへ行ったのか。まさか一夜にして全て解体されたわけではあるまいに。それに、こんな森だって昨日まではなかった。
――表の方はどうなってる!?
慌てて店舗の入り口に回ると、そこは道路に面しているはずなのに、野原が広がっていた。この店以外、見事になにもない。
「ここ、どこよ……?」
小梅は呆然とするしかなかった。
電線も、アスファルトも、車も走っていない。自然の中にポツンと「なごみ軒」が建っているだけだ。
いや、よく見れば森の中に遺跡のような建物の残骸があるし、目を凝らせば遠くの方に街っぽいものが見える。だが、どちらも見覚えのないものだった。
そもそも、店はいつからここにあったのか。小梅は起きてからずっと、窓の外なんて確認しなかったが、まさか起きた時はすでにこの状態だったのか。
「でも、電線とかないわりに、家電は動いたよね」
そう、トースターや電気ケトルはちゃんと使えたし、ハムエッグを焼く時にはガスだってついた。水は丘の上にある湧き水から引いているから別としても、電気やガスはどこから来ているのか。
色々なことが謎だらけで、小梅は途方に暮れる。
「……とりあえず、畑仕事しようかな」
一先ず、現実逃避のために畑いじりをはじめる。
しかし、しばらくしてこのままではいけないと思い直し、丘を下りてみることにした。
――でも、なんにもないなぁ。
やはり近くには森、遠くには街っぽい景色が見えるだけで、近所に民家らしきものは見当たらない。
森の方から続いている道があるが、それはアスファルトや石畳などの整えられたものではなく、人が通って踏み固められ、自然とできたもののようだ。
標識の類はなにもなく、どこへ続くのかわからないので、この道を進んでみるには勇気がいる。
「今日はここまでにしておこう」
結局、道の存在だけを確認して、家へと戻った。
それから外に出るのがなんとなく怖くなって、家の中を掃除して回った。通夜だ葬式だと慌ただしくて、掃除どころではなかった家の中が綺麗になった。
掃除の後はパンとコーヒーで昼食を済ませ、午後は居間で寝転んでテレビでも見ようかと考える。だが、どのチャンネルも映らない。
――電波が届かない場所なの?
仕方ないので、小梅は録画した番組を見て過ごす。
こうして、どこだかわからない土地に放り出されてから、早くも日が暮れようとしていた。
小梅は朝と昼の食事を適当に済ませてしまったので、夕食はちゃんとご飯を炊いておかずも作ることにする。
メニューは、祖母が好きだったカブのそぼろあんかけだ。
小梅は先程畑で収穫した小カブを綺麗に洗うと、葉と根元の汚れた部分を切り落とし、適当な大きさに切り分けた。続いて鶏ひき肉と酒を入れた鍋を火にかけてそぼろにし、そこに水適量とカブを入れる。煮立ったらアクを取って調味料で味を調え、やわらかくなるまで煮た。最後に刻んだカブの葉を加えて軽く火を通し、水溶き片栗粉でとろみをつければ完成だ。
そぼろあんの優しい香りが食欲をそそる。
――うん、うまくできたけど、作りすぎちゃった。
つい今まで通り二人分の分量で作ってしまった夕食に、小梅は苦笑する。けれど明日の朝の分だと思えば問題ない。
カブを煮込んでいる間に味噌汁も作ったし、後は冷凍保存してあった魚をグリルで焼いて大根おろしを添えれば夕食の出来上がりである。
食卓に料理を並べ、向かいの席に置いた祖母の遺影に手を合わせる。
「頂きます」
小梅ははじめにカブのそぼろあんかけに箸をつける。
このホロホロと崩れるように柔らかいカブの食感が、祖母は好きだった。それに小梅が作る料理なら、たとえ失敗しても『美味しい』と言って食べてくれていた。
思い出の料理を口にして、小梅の目元がウルウルしてくる。
「おばーちゃん、わけわかんないことになっちゃったよ……」
小梅は食事をしながら、祖母の遺影に困ったように語りかける。
自分は一体どこにいるのか、何故こんなことになったのか。わからないことばかりだ。
一方で電気もガスも使えるし、水も出る。食料がもつか心配ではあるが、当面は畑の野菜でなんとかなるだろう。
一先ずは生きていけそうなことは確かだった。
――難しいことは明日にしよう。
結局、小梅は問題を先送りすることにしたのだった。
こうして夕食を終えて風呂も済ませ、仏壇の前に布団を敷いて寝ようとしていた時のこと。
ドンドンドン!
店舗部分の方から、雨戸を叩く音がする。
「え、なに?」
布団に寝転がっていた小梅は驚いて飛び起き、店舗部分に向かった。
近辺に家などないのに、一体誰が雨戸を叩いているのか。もしくは森が近くにあるので、野生動物の可能性もある。
どちらにせよ、思いもよらない事態に小梅は恐る恐る店舗の方を覗く。
ドンドンドン!
まだ雨戸を叩く音は続いている。
もし叩いているのが人だったら、ここがどこなのかなど話を聞けるかもしれないが、その人が悪人ではないとは言い切れない。
怖気づいた小梅は、雨戸を開けないまま立ち尽くしてしまう。
――そうだ、裏口からちょっと様子を見よう。
怖そうな人だったり動物だった場合、速攻家の中に戻ればいいのだ。
そう決めた小梅はパジャマの上に上着を羽織り、畑に面した裏口から外に出る。
街灯がないため、周囲を照らすのは月と星の明かりのみ。そんな暗闇の中、小梅は恐々と店の玄関に回り込み、そうっと覗く。
応援ありがとうございます!
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