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1巻
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しおりを挟むプロローグ 夢は賞金稼ぎ
綺麗なものには引力がある。
光沢のあるシルバーの生地に同系色のレースを重ねた上品なデザイン。そのドレスを見つけた瞬間、芦田谷寿々花の手が自然と止まった。
落ち着いた色味ながら、レースにあしらわれた花の図柄が美しく、ドレスを華やかな印象にしている。
細身のAラインドレスは、普段大人びたシックな装いを好む寿々花にとって、多少華やかすぎる気もした。けれど、大切な親友の結婚式に着ていくのだから、これくらい華やかなドレスでも許されるだろう。
なにより、引き寄せられるように伸ばした手を、ドレスから離す気になれない。
感性を刺激する美しいものに、とことん惚れ込んでしまうのは寿々花の癖みたいなものだ。
別にそれはドレスや宝石に限った話ではなく、疎水を流れる水が作る渦の形や、何気なく手にした松ぼっくりのフィボナッチ数列の美しさにも当てはまる。
それらは寿々花にとって等しく美しいものだが、人からはあまり共感を得られたためしがない。
さすがに三十にもなれば、数学オタクの寿々花が熱心に話すことの大半が、周囲には理解しにくいことなのだと承知している。
「それにするの?」
ドレスを手に物思いにふけっていた寿々花は、声のする方へ顔を向けた。
一緒に買い物に来ている友人の柳原涼子が、寿々花の手元へ視線を向ける。
「うん。なんだか引き寄せられて」
そう返した寿々花に、涼子は大袈裟にため息を漏らす。
「なにも見ないで服が買える人はいいなぁ」
一瞬、値札のことかと思ったが、涼子は両手を自分の腰に添えていた。
涼子も十分痩せていると思うが、彼女の目には寿々花の方がスレンダーに見えるらしい。
「たぶん許容範囲だと思うから」
言いながら、サイズを確認するフリをする。
本当は、服のサイズの微調整は、いつも芦田谷家お抱えのテーラーに任せていた。でもそれが、世間一般の感覚から逸脱していることはこれまでの経験から承知しているので、口には出さない。
「いいなぁ、いいなぁ」
楽しげに繰り返しながら、涼子の意識はラックに掛けられた色とりどりのドレスに向いている。
自分は自分、他人は他人と、割り切って付き合ってくれるのは、彼女のいいところだ。
しばらくして、涼子の手がモスグリーンのドレスで止まる。
裾がアシンメトリーにカットされているそのドレスは、脚の綺麗な涼子に似合いそうだ。
「いいわね。涼子さんに似合いそう」
寿々花が言うと、涼子の口元に小さなえくぼができる。
「そういえば、寿々花さん比奈のドレス姿見た?」
モスグリーンのドレスをいろいろな角度から確認しつつ、涼子が聞いてきた。
寿々花は首を縦に動かす。
おそらく涼子も、寿々花同様、ドレスを試着した時の写真を見せてもらったのだろう。それを思い出すように「可愛かったなぁ」と、彼女が呟く。
「本当。すごく素敵だったわ」
愛する人と結ばれた友人を見ていると、自分のことのように嬉しくなる。
寿々花がしみじみ同意すると、涼子もうっとりとした表情を浮かべた。
「やっぱりウェディングドレスは、女子の憧れよね」
そこで涼子は、はたと目を見開き、寿々花を見た。
「……私、この年には結婚しているはずだったのに……」
どこで人生プランが狂ったのだろうと唸る涼子は、なにかを思いついた様子で口を開いた。
「ねえ、寿々花さんの子供の頃の夢ってなに?」
「え?」
突然の質問に、寿々花が目を瞬かせる。
「子供の頃の夢?」
「そう。たとえば比奈は、仕事と幸せな結婚を両立させるのが夢で、それを見事に実現させたわけじゃない?」
モスグリーンのドレスを体に重ねて、いろいろな角度から鏡を覗き込む涼子の言葉に、寿々花は納得する。
親友の比奈は、寿々花と涼子が勤める世界的自動車メーカー、クニハラの次期社長であり、現在は専務を務める國原昂也と結婚することになった。いわゆる玉の輿というやつだが、別に比奈が玉の輿を狙っていたわけではない。
ただ子供の頃からの夢を追いかけた結果が、そういう形に落ち着いたというだけだ。
「で、ふと寿々花さんの子供の頃の夢って、なんだったのかなと思って」
そう言って、涼子が寿々花にチラリと視線を向けた。
「私の……子供の頃の夢は……」
躊躇いがちに小声で呟く寿々花に、涼子が首をかしげる。
「ん、なに?」
――嘘をつくほどではないけど、人に話すのはさすがに恥ずかしい。
微妙な沈黙の後、寿々花は思い切って子供の頃の夢を口にした。
「懸賞金を稼いでみたかった」
「はい?」
素っ頓狂な声を上げた涼子は、一瞬、手にしていたモスグリーンのドレスを落としそうになる。
慌ててハンガーを握り直した彼女は、怪訝な顔で海外のアクションドラマのタイトルを口にした。
どうやら涼子の頭の中では、悪者を華麗に捕らえるワイルドなヒロインの姿が浮かんでいるらしい。
だけど寿々花の言う賞金稼ぎとは、そういう類いのものではなかった。
「ミレニアム懸賞問題って知ってるかしら?」
その問いかけに、涼子が首を横に振る。そこで寿々花は、ミレニアム懸賞について簡単に説明した。
ミレニアム懸賞問題とは、アメリカの数学研究所が懸賞金をかけた至極難解な数学問題のことだ。
数学七大難問とも言われ、現在そのうちの一問だけが解明されている。
「数学の問題を解くだけで、そんなにお金がもらえるの?」
一問解決すれば一〇〇万ドルという賞金額を聞いた涼子が、目を剥いて驚く。
涼子は未知の世界に興味津々といった感じで、質問してきた。
「で、その問題は全部解けそうなの?」
「まさか。そんな簡単に解けないから、高い懸賞金がかかっているのよ。だけど大学までは、本気で解こうとしていたの」
今思えば、己の力量を過信した若かりし頃の無謀な夢ではあるが。
「でも、賞金なんてもらわなくても、寿々花さんはお金に困らないじゃない?」
涼子がさらりと言う。
その声があまりにあっけらかんとしていて、寿々花も軽い感じで肩をすくめた。
ごく親しい友人にしか打ち明けていないが、寿々花の実家である芦田谷家は、あけぼのエネルギーという日本のエネルギー産業に多大な影響力を持つ大企業のトップを務めている。
涼子の言うとおり、よっぽどのことがない限り、寿々花がお金に困ることはまずないだろう。
寿々花がミレニアム懸賞問題を解きたかったのは、高額な賞金のためではない。
なんの不自由もなく与えられすぎる生活の中で、世界が難問と認める数式を自分の力だけで解き明かすという達成感に憧れたからだ。
数学はこちらが正しく問いかければ、正しい答えを返してくれる。寿々花の育ちや親の権力を気にすることもないし、媚びることもない。無視をすることもなければ、嘘をつくこともない。
学生時代、人間関係の煩わしさに辟易していた寿々花にとって、数学は最高の友人であり遊び相手でもあった。
そんな数学で、誰の力も借りず自分の力を試せる。それは、友人からの最高の贈り物のように思えたのだ。
「お嬢様も、なかなか大変なのね」
苦笑する涼子に、寿々花は曖昧な笑みを返した。
「まあね。でも父のおかげで、私は数学者としての限界を見極めるだけの十分な時間を、学生時代に与えてもらえたわ」
ただ、それによってますます一人を好むようになった寿々花を心配し、父だけでなく二人の兄たちまで過干渉になって迷惑している。
贅沢な悩みと怒られそうだが、望みの玩具を買い与えるように、人間関係も与えられると思っている家族の愛情が、ありがたくも息苦しい。
複雑な心情を吐露する寿々花に、涼子が明るく言った。
「そう思うなら、恋人の一人でも作って親を安心させてあげればいいじゃない」
「え?」
軽い口調で提案された内容に、思わず目を丸くする。
「だって、寿々花さんが一人でいることを心配しているなら、いつも一緒にいてくれる恋人ができれば安心して静かになるんじゃないの?」
寿々花はそれを想像して、頬を引き攣らせた。
「それは、どうかしら……」
過去に一度だけした見合いが破談になった時、父はやけに上機嫌だった。
身勝手極まりない話だが、父は娘の人生に友情は必要だが、恋愛は不要だと考えているらしい。
父のお眼鏡にかなった相手との見合いでさえ、破談になって喜ぶのだ。もし寿々花が、父や兄たちの望まない相手と恋愛しようものなら、一体どんな面倒に繋がるか……
だからといって、家族の顔色を気にしながら恋人を選ぶなんてこともしたくない。
「なんだか、相手の方に迷惑をかけそうな気がするから、その提案は遠慮しておくわ」
あれこれ考えた寿々花がそう返すと、涼子が下唇を突き出すようにして不満の声を上げる。
「えー、なんでそこで諦めちゃうの? 障害があるからこそ、恋愛に憧れを抱くものじゃない? そういうの、お伽噺のお姫様みたいでよくない?」
「……?」
今の話をどう転換させたらお伽噺のお姫様に繋がるのだろう。
首をかしげる寿々花に、涼子がニンマリと微笑んで言った。
「面倒な家族という棘の塔に閉じ込められているお姫様を、カッコイイ王子様が愛の力で救い出す。そんなシチュエーション素敵じゃない。時間をかけて数学の難問を解明するより、ずっと早く幸せが手に入るわよ」
「別に私は、閉じ込められてなんかいないわ。第一、そんな他力本願な幸せを求めるなんて、相手にも申し訳ないし」
真面目に言い返す寿々花に向かって、涼子がわかってないと首を振る。
「王子様が求めるのは、お姫様の愛だけよ。だから寿々花さんも、相手を心から愛せばいいの」
「……」
愛が全てを救う……それこそ夢物語だ。
「なんてコスパのいい幸福論っ!」
そう言ってガッツポーズを作る涼子の様子から、彼女が悪乗りしているのだとわかった。
じとっと冷ややかな視線を向けると、悪戯っぽく舌を出して涼子は試着室へ歩いていく。
そして、後に続く寿々花に言った。
「とにかく、恋は運命なの。もし運命の人に出会ったら、否応なく恋に落ちるし、親がどうのなんて言っていられなくなるわ。自分の意思に関係なく問答無用で相手に引き寄せられて、離れられなくなるんだから」
もっともらしく語る涼子が、試着室の中へと消える。
「……そういう涼子さんが、今もなおフリーなのは何故?」
思わず突っ込むと、一度閉められた試着室の扉が開き、涼子が首だけ出した。
「運命の恋人が、私を未来で待っているからです。だから気合を入れて、ドレスを選ぶのよ」
綺麗に口角を上げ、フフッと笑った涼子が再び試着室の中へ消えた。
「恋に引力があるのは本当だからね。比奈と國原専務がいい例でしょ」
試着室の中から、涼子の声が聞こえてくる。
「確かに……」
あの二人は、夢物語のような運命的な恋を、現実で実らせた。
幸せそうな比奈を思い出し、自然と寿々花の口元に笑みが浮かぶ。
「こうなったら、三人仲良く運命の相手を見つけて、幸せになりましょう!」
力強く宣言する涼子の声を聞きながら、寿々花も近くの鏡にドレスを合わせた自分を映した。
恋の引力とは、このドレスに引き寄せられた時の感覚に似ているのだろうか。
引き寄せられ、魅了されて、手を離すことができない思い――
服なら買えばいいし、数学なら気の済むまで没頭すればいい。
だけど、それを人に対して抱いた時、自分はどうなってしまうのだろう。
なりふり構わず、それこそ家の力を使ってでも、相手を手に入れたいと思うのだろうか。
自分が自分らしくいられなくなってしまうかもしれない。
寿々花は、人知れずそんな不安を抱くのだった。
1 自分らしく
六月最初の大安吉日。
比奈と昂也の結婚式は、都内にあるとは思えないほど見事な庭園が有名な格式高いホテルで執り行われる運びとなった。
式が始まる前、寿々花はホテルのパウダールームで、鏡に映る自分の姿を確認する。
一目惚れして買ったドレスは、お抱えのテーラーによって、サイズの微調整と多少のアレンジを加えられ、寿々花のための特別な一着へと仕上がっていた。
「そのドレス、似合ってるね」
隣で自分のメイクの最終チェックをしていた涼子が言う。
「ありがとう。私には、少し華やかすぎるけど」
結婚式ということもあり、髪もメイクもプロにセットしてもらった。アクセサリーや小物も、ドレスに合わせてコーディネートしている。
いつもと違って華やかな装いの自分に、寿々花はつい言い訳を口にしてしまった。
芦田谷家の娘として、自分を華やかに見せる術は心得ている。だが、数学オタクの自分がご令嬢然として振る舞うのは、本当の自分じゃない気がして恥ずかしくなるのだ。
そんな寿々花を、涼子が笑い飛ばした。
「その基準、誰が決めたの?」
「誰って……」
誰だろうかと、首をかしげる。
その時、寿々花の脳裏に一人の女子の顔が思い浮かんだ。
名前までは思い出せないが、中学の時同じクラスにいた女子で、常に寿々花に対して否定的な態度を取る子だった。
クラスの中心的人物だった彼女は、寿々花が新しいものを身につけたり、髪型を変えたりする度に、「らしくない」「似合わなくて変」と貶めてきた。
さらには、次第に数学に没頭するようになった寿々花を変人と言って嘲笑った。
クラスの中心にいた彼女が寿々花を否定したことで、いつしかクラス全体がそうした空気になっていた。虐めというほどではなかったが、ことあるごとに否定され続ければ、自然と心が萎縮していく。結果、学校では極力目立たず、人との関わりを避けて過ごすようになったのだ。
そのせいか無意識に、華やかに着飾るのは自分らしくないような気がしてしまう。
「せっかく美人でリッチな女子に生まれたんだから、そんな自分を最大限楽しめばいいのに。私なら、間違いなくそうするわ」
今を楽しむことに貪欲な、涼子らしい一言だ。
「ありがとう」
微笑んでお礼を言う寿々花を、涼子が鏡越しに睨む。
「本気にしてないでしょ。そんなよくわからない誰かの基準なんて忘れて、会社でもゴージャスリッチな美人路線でいけばいいのに。そうしたら、恋人なんてすぐにできるわよ」
「それは、遠慮しておく」
研究職で理系男子の多い職場にいるため、必要以上に華やかな装いをすると周囲が扱いに困るらしいのだ。
今の会社に入ってしばらくした頃、少し打ち解けてきた同僚に「初めは、ニワトリ小屋に、一羽だけ孔雀が交ざってるみたいで落ち着かなかった」と言われた。
その同僚曰く、孔雀とニワトリでは同じ鳥でも格が違うので、話しかけるどころか、目も合わせちゃいけない気がしたのだとか。
未だに女性研究者を軽んじる者も少なくない業界なので、遠巻きにされているのはそのせいかと思っていたが、理由を聞いて拍子抜けしたのは最近のことだ。
また周囲に萎縮されては堪らないので、会社ではシンプルなお洒落を楽しもうと思う。
「でも、そう言ってくれる人がいるのは嬉しいわ」
自分のことを肯定し本気でアドバイスしてくれる涼子に、素直にお礼を言う。
すると、微かに頬を赤らめた涼子が「美人は得ね」と、少しの嫌味も感じさせずに唸るので、笑ってしまった。
最初、友達の友達という形で出会った涼子だが、今では寿々花のかけがえのない友人の一人になっている。
そのことを嬉しく思っていると、涼子が腕時計を確認して言う。
「式までまだ時間があるから、新婦のところに顔を出さない?」
「迷惑じゃないかしら?」
躊躇う寿々花に、涼子はあっさり首を横に振る。
「迷惑なことをしても、迷惑にならないのが親友の利点よ。あの子、間違いなく緊張してるから、からかいに行きましょう」
からかうとは、涼子流の励ましなのだろう。
「……そうね。からかってあげましょう」
二人は鏡ごしに視線を合わせ、同じタイミングで微笑む。
パウダールームを出ると、ロビーの所々で談笑する人だかりが目に付く。
華やかな装いの女性より、落ち着いた色合いのスーツを纏う男性が多いのは、新郎新婦の育ってきた環境の違いだろう。
新婦の小泉比奈は、ごく一般的な家庭で育ってきた。対する新郎は、日本を代表する自動車メーカー、クニハラの御曹司である。
それもあって新郎側の招待客には、政財界の重鎮が顔を揃えており、会場の平均年齢を引き上げていた。
そうした顔ぶれの中には、いついかなる場所でもマウントを取らないと気が済まない御仁も多い。互いに褒め合っているようで牽制し合っている会話が、そこかしこで繰り広げられている。
その中でも一際目立っている一団を見つけ、寿々花はそっと顔を背けた。
寿々花の父であり、あけぼのエネルギー会長でもある芦田谷廣茂と、その取り巻きたちだ。
――他人のフリ。他人のフリ。
涼子の陰に隠れるようにして歩く寿々花は、心の中で繰り返す。
幸い父は寿々花に背を向けている。話も盛り上がっている様子なので、このまま通り過ぎれば気付かれないだろう。
それに向こうは新郎側で、こちらは新婦側の招待客だ。
親友の晴れの日を純粋に祝いに来ているのに、父の取り巻きのお世辞に付き合わされるなんて冗談じゃない。
「玉の輿に乗るのも大変ね。比奈は、好きな人と結婚するだけなのに」
よく響く声で笑う一団や、比奈への嫌味を囁く女子たちを尻目に、涼子が呟く。
「そうね。でも比奈さんなら、あんな人たちには負けないと思うけど」
二人の育った環境への配慮から、内輪だけの式にしようという意見もあったそうだ。だが比奈が、「悪いことをするわけじゃないし、祝ってくれる人に遠慮させたくない。だから環境の違いも含め、ありのままの二人で式を挙げればいい」と申し出たらしい。
親友として、状況に臆することなく前向きに挑んでいく比奈を、誇らしく思う。
――あれこれ深読みした挙句、萎縮して諦めてしまう私とは大違いだ。
比奈と出会い、自分も変わりたいと思って職場を変えたのに、すぐに弱気な自分が顔を出す。
よくないことだと反省していると、斜め前を歩く涼子がふと足を止めた。
「あれ、スマホがない」
そう言うなり、いきなり回れ右して振り返ってきた。
「――っ!」
涼子の動きに驚き、寿々花が咄嗟に背中を反らす。
その拍子に、いつもより高いヒールを履いていた寿々花はバランスを崩した。
「あっ」
体勢を立て直すことができず、そのまま後ろに倒れていく寿々花の姿に、涼子が口元を手で覆う。
床に倒れることを覚悟した次の瞬間、寿々花の体を誰かが支えた。
「危ない」
艶のある低い声と共に、腰と肩に大きな手の感触が伝わる。
「……」
なにが起きたのかわからず呆然としていると、大きく開いた背中に人の温もりを感じた。それと同時に、複雑に絡み合った男性物のオードトワレの香りに包まれる。
「大丈夫?」
後ろから落ち着いた低音ボイスが耳に触れる。
「はい」
体を捻って背後を確認すると、彫りの深い美しい男性の横顔がすぐ側にあった。
その事実に驚き、再び体のバランスを崩してしまう。
「おっと」
倒れそうになる寿々花の体を、男性が力強く支えてくれる。
寿々花の肩と腰を支える彼の手にぐっと力が入り、無意識に体が強張ってしまう。一旦落ち着こうと深く息を吸えば、男性のオードトワレの香りを意識して悪循環に陥る。
まるで水のない場所で、溺れているような気分だ。
「なにやってるの。大丈夫?」
最初こそ寿々花を驚かせてしまったことに焦っていた涼子だが、呆れつつ腕を引いてくれた。
男性の体から離れたことで、やっと体が本来の平衡感覚を取り戻す。
「ごめん」
気まずさを感じながら涼子に礼を言った寿々花は、すぐに後ろを振り返り、深く頭を下げた。
「助けていただき、ありがとうございます」
しかし、顔を上げた瞬間、再び硬直することになる。
さっき見た時も整った顔立ちだと思ったけれど、改めて向き合った彼は、ギリシャ彫刻のようにずば抜けて整った容姿の持ち主だった。
背が高く、肩幅もある。背中で感じた印象からしても、かなり引き締まった体躯をしているのだろう。
そんな恵まれた容姿の持ち主である彼は、こだわりを感じさせる凝ったデザインのスーツを上手く着こなしている。
服に着られている感がなく、お洒落や上質な服に慣れているのだと察せられた。
「転ばなくてよかった」
男性が穏やかに微笑んでそう返す。
黒髪をオールバックにしていることで、綺麗な鼻筋や涼しげな二重の目、形よく整えられた眉がよく見える。その顔立ちからは、意志の強さが溢れ出ていた。
おそらく年齢は寿々花より少し上だろうか。
滲み出る野心を隠さず、上質なスーツを着こなす彼に寿々花は内心眉根を寄せた。
上流階級で育った自信家のお坊ちゃんには、鼻持ちならない奴が多い。
野心家で傲慢な父や兄、その取り巻きたちの我の強さに辟易している寿々花としては、あまり関わりたくないタイプの人種だ。
早々にその場を離れようと、会釈して立ち去ろうとする寿々花の脇を、涼子がすり抜ける。
「スマホ、パウダールームに忘れてきたみたい。見てくるから、ちょっとここで待ってて」
それなら自分も一緒に行くと、寿々花が声をかけるより早く、涼子が小走りで離れて行ってしまった。
「ちょっ……」
応援ありがとうございます!
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