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しおりを挟む第一章 はじめまして、ご主人様
水曜日の朝八時三十分。勤務先の工場に到着した私は歩みを止めた。
なぜか従業員通用口の前に、普段では考えられない程の人が集まっている。
「なに……?」
不思議に思いながら人波をすり抜けドアに近づくと、一枚の紙が貼りつけられていた。そこに書かれていた見出しを見た瞬間、心臓がどくん、と大きく脈打った。
「はっ?」
『倒産による従業員解雇のお知らせ』
――なにこれ。
どういうこと、どういうこと、どういうこと……?
混乱しつつ周囲を窺うと、厳しい顔で話し込む従業員たちの姿があちこちに見える。中には幹部社員に詰め寄り、怒号を浴びせる男性社員もいた。それを見つめているうちに、私の脳もようやく状況を呑み込み始める。
倒産、従業員解雇……!
自分の身に起こった状況を理解して、サーッと血の気が引いていく。そんな私の隣に顔見知りの従業員の女性がやってきた。
「おはよう、筧さん。もう、びっくりよね……業績が良くないっていう噂は流れてたけど、まさかいきなりこんなことになるなんて。それに社長が有り金持って逃げたらしくて、今月のお給料出ないかもしれないんですってよ。ありえなくない?」
「えっ、お給料が出ない!?」
呆然としていた私だが、さすがにこれは聞き捨てならない。
「ほ、本当ですか!? それは困ります!!」
食いつかんばかりの勢いで、隣にいる女性に聞き返した。
「私だって困るわよ。なんか、従業員で集団訴訟起こそうって話が出てるみたいだから、少しでも保証してもらえるといいけど……」
やるせなさそうにそう言って、女性が重いため息をつく。
倒産だけでもショックなのに、さらに追い打ちをかける事実に私は完全に言葉を失った。
――筧沙彩、二十歳。天涯孤独の身の上ながら、なんとか正社員として働き自活していた私は、本日いきなり職を失ってしまった。
ひとまず従業員は自宅待機ということになり、私は自分のアパートに戻ってきた。そうして真っ先にしたことは、今月の経費の計算だ。何度も何度も収支を確かめ電卓を叩くけれど、出る数字は変わらない。
「あーーっ!! どうやっても足りないんですけど……!!」
今月の給料が支払われないとなると、今の預金残高では月末の引き落としには到底足りない。それに倒産による解雇で支払われる失業手当も、月末には間に合わない。私は頭を抱え、部屋の中央に置かれた小さなテーブルに突っ伏した。
「どうしよう……アパートの家賃が払えない……」
月末までまだ日があるとはいえ、もう一つのバイト代の給料を入れても、家賃は払えそうにない。
「となるとなにか、日払いのバイトを探さないとダメか……」
時計を見て時間を確認すると、六時からのバイトまではまだ時間がある。
ちょっと休憩してからコンビニで求人情報誌をもらってこよう。そう思いながら立ち上がると、タンスの上にある両親の遺影が目に入った。
ここ二年の間で立て続けに両親が他界。頼れる親類もいない私は、小さなアパートで質素な生活を送っていた。
解雇されてしまった工場での仕事と、夜間の清掃バイトで細々と暮らしていたのに、まさかこんなことになるなんて。
ふらふらと両親の位牌の前まで移動し、手を合わせた。
「お父さん、お母さん。ピンチですが、心配しないでください……」
私は、そのまま畳んであった布団に倒れ込む。
毎日、真面目に慎ましく暮らしていただけなのに、まさかこんな目に遭うなんて。突然の不運に落ち込みながら、私はそっと目を閉じた。
すると猛烈な睡魔に襲われて、私はそのまま眠り込んでしまう。
自分で思うより疲労が溜まっていたのだろうか。少しだけ休むつもりが目を覚ますと、次のバイトに出掛ける時間が迫っていた。
「いけない……歩いていくつもりだから……そろそろ出ないと遅刻しちゃう!」
慌てて体を起こし身支度を整えた私は、夜の清掃バイトに向かうため部屋を飛び出した。
今から数時間後、自分の人生が大きく変わることになるなんて、この時の私は知る由もなかった。
バイト先はアパートから電車で二駅先。しかし、今の私は少しでも節約しなければならない身だ。普段は電車で行くところを、徒歩で向かう。できる限り出費を抑えないと、食べることすらままならなくなってしまう。
バイト先がそれ程遠方じゃなくてよかったと思いながら、私は今後のことについて考える。
まずはバイト先のマネージャーに給料の前借りができないか相談してみよう。もしくは、今までは週三で入れていたバイトを、もっと増やしてもらえるように頼んでみるとか……
それがだめだったら、急いでもう一個バイトを探さないといけない。今月末の支払いができなければ、失業した上、路頭に迷うことになってしまう。
早足で三十分程歩くと、大きなビルが立ち並ぶオフィス街が見えてきた。そこからさらに歩くこと二十分。一際高くそびえ立つビルに到着した。
ここは、神野ホールディングス株式会社の本社ビル。神野グループと呼ばれる日本でも有数の大企業の持ちビルで、中にはグループ傘下の企業がいくつも入っている。
私のバイト先である清掃会社も神野グループに属する会社の一つだ。たまたま求人情報誌で見つけたのだが、同じ職種の中でも時給が高く希望者が多かったので、採用されたのはラッキーだった。
ビルの裏口にある社員専用通用口から中に入り、バイト先の「ジェイ・ビルディングサービス株式会社」の事務所に向かう。
ジェイ・ビルディングサービスは、このビルの清掃を一手に請け負っている会社だ。ビル内の日常清掃と、定期的に行われるフロアのワックスがけや窓の清掃、カーペットのクリーニングなどなど。数名の社員と私のようなアルバイトスタッフが、各々割り当てられた場所を清掃している。
事務所に到着した私は、タイムカードを押しつつマネージャーの姿を探す。しかし、あいにく不在のようで、仕方なく給料前借りの件は帰りに相談することにした。
ロッカールームで腰まで伸びた長い髪を一つに結び、会社指定のユニフォームに着替える。準備ができたらシフト表を確認し、掃除用具の入ったワゴンを押して担当の場所へ向かった。
夕方六時を過ぎた時間。ビル内で働いているサラリーマンやOLが、続々と帰宅していく。いつもなら「お仕事お疲れ様です」なんて心の中で思っていたけど、さすがに今日はそんな風には考えられない。
「仕事……いいな……」
仕事を失ったばかりの私には、彼らが活き活きと眩しく映る。人を羨んだり、卑屈になったりはしたくないけど、どうしてもそんな気持ちが湧き上がってきてしまう。
私は軽く頬を叩き、自分に気合を入れた。落ち込んでいても仕方がない。今は目の前の仕事だ。
「さ、始めよ」
気持ちを切り替えて、私はワゴンの中からトイレ掃除グッズ一式を取り出した。今日はトイレと水回りの掃除、それとフロアのモップがけ。これを自分の担当フロアで行うのだ。
黙々と手を動かしている間は、仕事のことも家賃のことも考えずに済む。気がつくと、あっという間に数時間が過ぎていた。
担当箇所の掃除を全て終えた私は、チェック表にサインをして事務所に戻る。すると、清掃リーダーの三井さんが困り顔で私に近づいてきた。
「筧さん、終わったばかりのところ申し訳ないんだけど、急な依頼があって、今から役員フロアに行ってくれないかしら?」
「役員フロア……ですか」
このビルの最上部にある役員フロアは、神野グループのトップがいる重要セクションだ。普段はベテランスタッフが持ち回りで清掃を担当している。そんな場所に、バイトの私が行ってもいいのだろうか。
「あの、研修の時、役員フロアは担当が固定されていると伺ったのですが……」
私が尋ねると、三井さんは「それがね」と困ったように肩を竦めた。
「今日、役員フロアの清掃は不要と聞いていたから、担当スタッフが全員お休みなのよ。だけど、コーヒーをカーペットに零してしまったから清掃に来てほしいって、さっき役員の方から連絡がきてね……。筧さん、この前の研修でコーヒーの染み抜きのやり方一通り教わっていたわよね? どうだろう、お願いできる? 残業代出すから」
残業代という言葉に反応し、私は即座に頷いた。
「分かりました。私でよければぜひ!」
弾んだ声で返事をすると、三井さんの顔に安堵の色が広がる。
「よかったー! じゃあ、先方にはあなたが行くことを伝えるわね」
三井さんはいそいそと先方に電話をかけ、私が行くことを伝え電話を切る。
「電話をかけてきた方が、エレベーターの前で待っていてくださるそうよ。よろしくねー!」
「はい、分かりました」
事務所を出た私は、意気揚々とワゴンを押してエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターが最上階に近づくにつれて、私の背筋は自然と伸びる。接客は第一印象が重要。ましてここは、普段ベテランスタッフしか入れない重要セクションだ。
最上階に着き、静かにエレベーターの扉が開く。最初に目に飛び込んできたものに、私は思わず息を呑んだ。エレベーターの前で私を待っていたのは、想像していた大企業の役員――恰幅のいい年配の男性――ではなかった。
仕立ての良さそうなダークスーツを身に纏い、長身で切れ長の目が印象的な若い男性。これまでの人生で見たことがない程のイケメンがそこにいた。
「……君がビルディングサービスの筧さん?」
穏やかに声を掛けられて、自分が仕事でここへ来たということを思い出す。
「あっ、はい! 筧です! 清掃をしに伺いました」
慌ててエレベーターから出て、背筋を伸ばして一礼する。すると目の前の男性が可笑しそうに口の端を上げた。
「元気がいいな。では早速頼む。こっちだ」
スーツの裾を翻し、男性は足早にフロアの奥へと歩を進める。
現在の時刻は夜の九時過ぎ。周囲に人気はなく、フロアは閑散としていた。
それにしても……と私は視線を前方に向ける。
私の前を颯爽と歩く男性は、かなり若い。年齢は私より上だと思うが、役員と言うには若すぎるように思う。
先程三井さんは、役員の方が電話をかけてきたって言っていたし、もしかしたらその人の秘書とかだろうか……
そんなことを考えながら彼のあとをついていく。男性は廊下の突き当たりにある大きな役員室のドアを開け、中に入るよう促してきた。
「どうぞ」
「し、失礼いたします」
一礼して中に入ると、二十畳はありそうな部屋の広さにまず驚く。部屋の中心には重厚感のある革張りのソファーとガラスのテーブルが置かれており、その奥に大きなデスクと座り心地のよさそうな椅子が見えた。壁面のニッチには色鮮やかで美しい陶器の壺が飾られている。
部屋の中をぐるりと見回し言葉を失っていると、男性に声を掛けられた。
「お願いしたいのはそこだ。うっかりコーヒーの入ったカップを手で払い落としてしまってね」
男性に言われた辺りを見ると、カーペットに大きな茶色の染みが広がっている。
「分かりました。それでは早速、作業に入らせていただきます」
私はワゴンの中から染み抜きセットを取り出した。
まずは乾いた布でカーペットに広がったコーヒーを吸い上げていく。ポイントは染みをこれ以上広げないように、外側から内側に向かって布を押し当てることだ。大体吸い上げたところで、専用の染み抜き剤をカーペットにスプレーし、汚れを浮かせる。そこへ乾いた布を被せ、上から専用のブラシでトントン叩き、布に汚れを移していく。この作業を地道に繰り返しているうちに、カーペットの染みはほとんど目立たなくなった。
「……ほう。綺麗になるものだな」
すぐ側から興味深そうな声が聞こえ、驚いて声のした方を見る。
私が作業を始めた時、男性はデスクでパソコンと向き合っていた。それがいつの間にか、私のすぐ横に立ち手元を覗き込んでいる。
「あの、染みは取れたので、このあとすすぎ作業をして、完了です」
男性にそう説明し、私は染みがあったところに霧吹きで水をかけていった。その水を乾いた布に吸い込ませることで、カーペットに含まれた洗剤を洗い流すのである。
汚れが綺麗に取れたことを確認しながら、初めての実践にしては上出来だと胸を撫で下ろした。
あとはカーペット以外の床に飛んでいるコーヒーをモップで水拭きすれば清掃完了だ。
私はワゴンに立てかけていたモップを手に立ち上がる。だが――
「あ、れ……」
体を起こした瞬間、目の前が真っ暗になった。モップを支えにして必死に足を踏ん張るが、斜めに傾いた体は床に向かって倒れていく。そんな私の背中に、力強い手が添えられた。
「……おい。大丈夫か」
驚いたような声がすぐ近くから聞こえる。気がつくと私は、すぐ側にいた男性に体を支えられていた。目の前にある綺麗な顔に驚き、私は慌てて彼から離れた。
「も、申し訳ありま……」
ガシャーン!!
直後、私の耳になにかが割れるけたたましい音が飛び込んできた。
……え、なに、今の音。
男性と顔を見合わせ、揃って音のした方に目を向ける。次の瞬間、私は言葉を失う。
壁のニッチに飾られていた美しい壺が、床の上で無残な姿となっていた。そのすぐ横には、直前まで持っていたはずのモップが転がっている。
「あああああああっっ!!」
私は、立ちくらみをおこしたのが嘘のような素早さで、割れた壺のもとへ駆け寄った。
――どうしよう、どうしよう!! 私……とんでもないことをしてしまった!!
「あー……君の手から離れたモップの柄が壺にヒットして、そのまま床に落ちて割れた、といったところか」
割れた壺を見つめ呆然とする私の後ろで、男性が冷静に状況を分析した。私は真っ青になって振り返ると、その場で土下座した。
「もっ……申し訳ございません!! なんとお詫びをしたらいいか……っ!」
床に頭をつける私のすぐ先にある黒い革靴。その革靴が、コツコツと音を立てて私の側を通り過ぎていく。
恐る恐る顔を上げると、男性は割れた壺をじっと見つめていた。
「修復は可能だろうか……?」
彼の淡々とした声からは、怒っているのか悲しんでいるのか分からない。だけど今、私がすべきことは分かっている。
「本当に申し訳ありません! あの、弁償させてください」
私の申し出に男性はこちらを向き、切れ長の目を少しだけ見開いた。
「君が弁償? 払えるのか? おそらく君が思っているよりも高額だぞ」
「……じゅ、十万……とか?」
「ははっ。五百万だ」
片腹痛い、とばかりに笑い飛ばされ、私の目の前は真っ暗になる。同時に自分のしでかしたことの大きさに、サーっと音を立てて血の気が引いていった。
――ご、五百万……!? そんな大金、今の私には逆立ちしたって払えない……!!
「あの……大変申し上げにくいのですが、今の私にはその金額を払えるだけの預貯金がありません。ですが、時間はかかっても、必ず全額弁償いたしますので、どうか……」
とんでもないことをしてしまった……! これでもしこの仕事まで失うことになったら、私本当にどうしたらいいのか……
私は小さく震えながら、ずっとこちらを見ている男性に申し出る。
「君は随分若く見えるが、いくつなんだ?」
途中で話を遮り、男性が私に尋ねる。
「は……二十歳です」
正直に答えると、男性は驚いた様子で形のいい口をあんぐりと開けた。
「フリーターか?」
「いえ、昼間は別の会社に勤務していて、清掃の仕事はバイトです」
すると男性が怪訝そうな顔をする。
「君のような若い女性がこんな時間まで? 親はなにも言わないのか?」
「両親はすでに他界しています。それで、あの……じ、実は今朝、勤めていた会社が倒産してしまって、給料の入る望みもなさそうなんです。だから、このバイトがなくなると、私、本当に生活できなくなってしまうんです」
私の話を聞いて、男性の表情はさらに険しくなる。
――そうだよね……怪しまれるのも当然だ……
天涯孤独な上に会社が倒産なんて、借金を逃れる作り話にしたってひどすぎる。我がことながら、作り話だったらどんなに良かったか……
でも本当のことである以上、どうにかして信じてもらわないと……!!
私は真剣な表情で男性に訴えかける。
「倒産した? では君は今無職なのか」
「はい……なので次の仕事が決まるまで、支払いを待っていただけないでしょうか? どれだけかかっても、必ずお支払いしますので……!」
もう一度深く頭を下げて懇願する。しかし、男性は黙ったままだ。
おずおずと体を起こして目の前の彼の表情を窺うと、眉根を寄せなにか考え込んでいる。
こっちの事情で支払いを待ってもらおうなんて、やっぱり都合がよすぎるかな……
そこで男性が、おもむろに口を開いた。
「つかぬことを聞くが、君は今、一人で生活しているのか? 兄弟や親類は?」
「兄弟も頼れる親類縁者もおりませんので、一人です……けど」
も、もしかして、私が無理なら他の人に弁償させようとか考えてる!?
じっと考え込む男性を見つめながら、私はこれからどうなるのだろうと不安になった。
役員室でこんな大きなミスをしたことが会社にバレたら、即座にクビ確定だ。……そうなったら、もう風俗で働くしか道は残っていないかも……
考えれば考える程、気持ちが沈んでいく。
その時、ずっと黙り込んでいた男性が、確認するように聞いてきた。
「君は求職中で、一人暮らし。他に頼れる相手もいないんだな?」
男性の鋭い視線が、上から私に突き刺さる。
「……はい」
「ちょっと君、立ってその場でくるりと回ってくれないか」
なんの脈略もない注文に、私はポカンとする。
「え? ま、まわ……?」
「回って」
ええ……この人、いきなりなんなの?
戸惑いながらも、私は立ち上がって彼の指示通りその場でくるりと回った。
男性は口元に手を当てながら、そんな私をじっと見つめて、数回小さく頷く。
「……筧さん、だったね? 事と次第によっては壺の弁済を免除してもいい」
男性が口元に笑みを浮かべて、私に言った。
「えっ!! ほっ、本当ですか!?」
さっきまで失意のどん底にいた私は、思いがけない彼の言葉に思わず食いついた。
「本当だ。だが、一つ条件がある。君にある仕事を頼みたい」
仕事、と言われた瞬間、私の胸に不安がよぎる。もしかして、なにか怪しい仕事だろうか? それともまさか、風俗に売りとばされたり……
青くなって後退る私を見て、男性がフッと鼻で笑った。
「なにかとんでもない仕事を想像しているようだが、そういったことではない」
しまった、考えてることが全部顔に出てたみたい。
気まずくて男性から目を逸らす。
「身の安全は保証する。安心していい」
その言葉に、ほっと胸を撫で下ろす。
――よ、よかった……! 世の中、ただより怖いものはないからね。
働いて返せるなら、どんな仕事でも精一杯やらせていただく!
私は彼の提案に頷いた。
「私にできることなら、ぜひやらせてください!!」
私が承諾すると、男性の笑みが深まった。彼はスッと手を差し出し、ソファーに座るように促してくる。
「し、失礼いたします……」
私が恐る恐るソファーに腰を下ろすと、彼は私の向かい側のソファーに座った。
「さて、自己紹介がまだだったな。俺は神野征一郎という。年齢は二十九。この会社の常務取締役をしている」
――え? 今この人、神野って言った?
目の前の男性を見つめたまま、ごくりと息を呑んだ。
私がいるこのビルは〝神野ホールディングス本社〟である。
「あ、あの、もしやあなた様は……」
おずおずと尋ねる私に、神野と名乗った男性はなんでもないことのように頷いた。
「ああ……神野ホールディングスの社長は父だ。将来的には俺が神野のトップに立つ予定だ。あくまでも予定、だが」
「えっ、えええええ!!」
あまりに驚きすぎて、私は座っていたソファーから落ちそうになった。
「そんなに驚くことか?」
「お、驚きますよ!! そんな方の部屋で、私、なんて粗相を……。あ、穴があったら埋まりたい!」
思わず、両手で顔を覆い項垂れる。しかしそんな私に構うことなく、目の前の神野氏は冷静に話を続けた。
「まあ、穴に入るのはちょっと待て。君に頼みたいのは、俺の家での住み込みの仕事だ。条件としては、家賃不要で、三食付き。給料も払うし、働きによっては賞与も出そう」
神野氏の提案してきた内容に、私は口を開けたままポカーンと彼を見つめてしまう。
はっきり言って、今の私に、これ以上の仕事は存在しないのではないか。それくらい破格の条件だった。
「ほ、本当に……その条件で雇ってくださるんですか……?」
嘘ではないだろうか。もしくはなにか裏があるのではないか……と、つい疑ってしまう。
疑り深い私の反応に苦笑しながら、神野氏は大きくゆっくり頷いた。
「本当だ。なんなら、この壺の件も君の上司には報告しないでおこう」
その言葉を聞いた瞬間、私の中から迷いが消えた。
「やりますっ、ぜひ働かせてください!!」
勢いよく返事をし、神野氏に向かって深々と頭を下げた。そうしてから顔を上げると、彼は私に向かって満足そうに微笑んだ。
「では早速、君に頼みたい仕事内容だが……」
「はいっ」
住み込みでする仕事って、ハウスキーピングとかだろうか?
そんなことを考えながら、私は新たな仕事に胸を躍らせる。
この時の私は、さっきまでのどん底から一気に仕事も住居も決まり、少し浮き足立っていたのだと思う。
自然と返事の声が大きくなった私に、神野氏はふっと表情を緩ませた。
「その前に、少しだけ個人的な話をさせてもらおう。俺はこの会社の跡取りとして決められた人生を歩んできたわけだが、割合自由を許されてきた。結婚に関してもなにも言われなかったから、俺的にはまだ先でいいだろうと考えていたんだ」
「はあ」
それと仕事内容になんの関係があるのだろう?
彼がなにを言おうとしているのか分からなくて、頭が混乱してくる。
「それが一年程前、両親……というより母が、突然結婚はまだかと言ってきたんだ。仕事が忙しくて適当に流していたら、最近、思わぬ方向へ状況が変化してしまってね」
「ちなみに、ど、どんな方向へ……?」
なにも返さないのは失礼かと思い、控えめに問いかける。
すると神野氏は、ハア~、と深くため息をついた。
「先日、三十までに結婚相手を見つけられなければ、こちらで相手を決めると言ってきた。交際相手ならまだしも結婚相手だぞ。しかも母が選ぶ女性なんて、付き合いのある良家の令嬢の誰かに決まっている。そんな相手、会ったら最後、どんなに性格が合わなくても断れないだろう」
あー……なるほど。つまり、個人の問題ではなく、家同士の問題になっちゃうんだな。神野氏の立場的に、断ったらいろいろ弊害が生じるのだろう。
御曹司も大変なんだ……
応援ありがとうございます!
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