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第一章.死後の世界へ

§2.故郷は駆け足に5

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 ――きっと、この気持ちは恋ではない。
 太一は自分に言い聞かせる。
 曲がりなりにも、人に恋をしたことのある太一にとっては、恋とは苦痛を伴ってこそのものだと考えている。胸の痛みは、恋の開始を告げるアラーム。痛みに耐え、降り掛かる障害を乗り越えて、その先に待つ未来を目指す。太一にとっての恋愛感情とはそういうものなのだ。
 とはいえ、生前の太一は胸痛に耐えることは出来ても、そそり立つ障害を乗り越えられた経験はない。ほんの数時間前、順調に登っていると思っていた岩山から振り落とされたのが、なによりの証拠だろう。
 太一は知らない。先に待つ未来を。恋が愛に変わる瞬間を太一は知らない。
 故に、太一は胸に広がる優しい温もりを、保護欲として認識することしか出来なかった。父が家族に抱くような、母が子に抱くような、兄が妹に抱くような――

 生前の太一の家族構成は、父、母、太一の三人家族。この世に生を受けて十八年、兄弟というものとは無縁の一人っ子ライフを過ごしてきた。
 当然、兄弟が欲しいと思ったことも一度や二度ではないし、両親に姉が欲しいとねだって「妹なら……」という返事をきっかけに発生するなんとも気まず空気も経験済みだ。
 とはいえ、世の中には血の繋がりなどなくとも兄弟同然の関係を築いている人も多くいる。
 が、太一にはそのチャンスさえ与えられなかった。

 元々、椎名一家は父の実家である中部地方に住んでいた。
 だが、太一が小学校へ上がることをきっかけに父は転勤を決意し、家族道連れで関東へ移住。これによって太一は、幼き日を共に過ごした幼なじみ兼兄弟候補たちとの決別余儀なくされる。
 その五年後、2LDKの市営団地で細々と暮らしていた椎名夫妻は、順調に成長する息子へ自室を与えるために、隣町の3LDK賃貸マンションへ移り住む。
 憧れのマイルームに歓喜する太一ではあったが、通っていた小学校の学区から外れてしまい母の説得の末、転校を決意。割と近場への引越しではあったものの、小学生にとって学校が違うというのは強力な接点を断たれたようなものだろう。
 これによってまたしても太一は、男女分け隔てなく接することが出来た時期の友人を根こそぎ奪われてしまった。
 更に時は流れ三年後、椎名父は一世一代の大決心をする。
 サラリーマンの究極的願望。つまり、マイホームの購入だ。
 夢の4LDK、二階建て駐車場付き。同時に購入したアウディの停まる風景と、引っ越す度に広くなっていく我が家に太一は胸を熱くした。
 が、またもや通っていた学区内から外れてしまう。近いといえば近いのだが、自転車で行くには少し遠い。中学生の通学にバスを使わせるのも勿体ないと考えた母は息子に転校をいい渡す。
 これに太一は猛反発。中学生になったばかりの太一は、ちょうど反抗期まっ只中で母のいうことにいちいち反発した。更には、説得の場に居合わせた父と殴り合いの喧嘩にまで発展する始末。
 椎名家の歴史で初めて血の流れた大事件である。
 とはいえ、ごくごく一般的な中学生だった太一が手足の伸びきった大人に勝てるはずもなく、結果は五分と持たずに惨敗。太一は敗者の定めとして、泣く泣く転校を受け入れた。
 これによって、思春期を共に過ごすはずだった友人とのドキドキイベントフラグは全てへし折られてしまった。
 先も述べたが、学校が違うということは一番強力な接点がなくなることを意味する。
 また、金の無い小中学生にとって自転車で遠いと感じる距離というのは行動範囲外。怠け者の太一が足を運ぶのはもちろん、旧友たちが太一を訪ねて来ることもなかった。

 以上の理由から、太一には心の底からなにも気にせず付き合える友人はそう多くはない。誰とでも分け隔てなく接するように心掛けてきてはいたのだが、それも度重なる転校が故の外面に過ぎない。
 そんな綺麗すぎる外面が裏目に出て『良きお友達』としてしか見られなかったわけだが――
 ともあれ、一人っ子にプラスして兄弟同然の友人もいない太一には兄弟、ましてや性別の違う『妹』に対する感情は漠然としたイメージに過ぎない。
 故に、太一にとっての保護欲と愛情の境界線は酷く曖昧なものなのだ。

♦︎♦︎♦︎

 アパート前での一幕。
 互いに予期せぬ妄想に飲み込まれ、己を見失った二人が精神状態を回復させるには暫しの時間を要した。
 偶然通りかかった警官が路駐を注意しようと近付き、声を掛けたのがきっかけとなり、太一の思考は回復。しかし、我に返った太一を待っていたのは怪訝そうな表情をした警官だった。
 太一と目が合った警官は、目にも留まらぬ速さで後部座席のドアを開け、太一を車外へと引っ張り出す。事態が全く把握できない太一だったが、警官の醸し出す雰囲気に怒気が含まれているのは感じ取れた。
 このままでは不味いと踏んだ太一は警官に状況を説明するが、警官は一切耳を傾けない。どうやらこの警官は、太一を誘拐犯か強姦魔と勘違いしているらしい。
 確かに、車内に残る真由美の目は完全に死んでいて、そう勘違いされても可笑しくないシチュエーションは揃ってはいるが。

「いやいやいやいや、おかしいおかしい! だいいち仮に俺が犯人だとしても、なんで被害者が運転席に座ってんのよ!?」

 という言い訳が功を成して、警官は掴み続けていた太一の腕を解放。その後、簡単な経緯を話し、警官に助力を願い出る。元より正義感の強かった警官は、謝罪の意を込めて車を近隣のコインパーキングまで移動してくれたのだった。
 と、無事に移動できたわけだが問題が一つ。太一はこの後の段取りを一つとして聞いていないのだ。
 どうするべきかと頭を悩ませる太一とは裏腹に、突然助手席のドアが開く。音につられて目をやると、覚束ない足取りで真由美がふらふらと車外へ出ていくではないか。
 慌てた太一は車内に残された真由美の荷物と、イグニッションに挿しっぱなしになった鍵を取り外し、後を追う。
 太一は、我ながらナイスアシストだと自分を賛美した。

 ふらふらと歩く真由美に付いて行くこと五分。視界には記憶に新しい『リオパレス』の文字が映る。とりあえず、帰宅するということでいいのだろう。
 そう判断した太一は真由美に続いてアパートの階段を上がる。そして、登りきったすぐの角部屋。201号室と書かれた部屋の前で真由美は立ち止まり、そこで完全に動かなくなってしまう。

「あ、はいはい。鍵ね」

 太一は真由美が鍵を持っていないことに気付き、右手に持ったままの車のキーに目をやった。車のキーと一緒に家の鍵も束ねられていることを予想したが、残念ながら予想は外れてしまった。よくよく考えてみれば社用車なのだから当たり前ではあるが。

「うーむ……しゃーなしだな。お兄ちゃんの権限を発動するっきゃねぇ。すまんね、真由美ちゃん」

 一応、断りを入れたと言う既成事実を作り、太一は真由美のハンドバッグの中を弄る。
 オレンジ色の財布、黒の社用携帯、おそらくプライベート用であろうピンクの携帯。女の子のバッグの中身は色々な物が入っていると想像していた太一だったが、真由美のバッグの中身は至ってシンプルなもので、その中から可愛らしいウサギのキーホルダーの付いた鍵を見つけるのは容易なものだった。

「んじゃまぁ、お邪魔しやーす」

 再び言葉の既成事実を作り、鍵を開けた太一は真由美宅へと入室する。

 視界に広がるはシンプルなワンルーム。玄関を潜ってすぐにあるふたくちコンロのキッチン。横に置かれた冷蔵庫や、恐ろしく収まり良くはめ込まれた洗濯機はこの物件の初期装備なのだろう。流石は『リオパレス』。

 初めて来る女の子の部屋観察に夢中になってしまった太一は、そのままリビングへと進む。
 入って直ぐの右手にあるのは太一の身長より少し低いロフト。そこに敷かれた布団が乱れているのを見て、真由美の私生活に触れている実感に浸る。
 更に、左手には壁紙と同じ色をした白いテーブル。これも初期装備の一つだろう。流石は『リオパレス』。
 また、卓上に置かれた化粧水の蓋が開いたままになっているのも太一は見逃さない。これも彼女の私生活の大切なピースだ。
 尚も太一のお部屋チェックは続く。
 部屋の最奥。窓枠に沿って置かれているのはチープな本棚だ。壁紙と若干色合いの違うそれは、後から買い足した物に違いない。残念『リオパレス』。
 本棚には淡いピンクの背表紙をした漫画本が数多く置かれており、なるほど真由美の少女趣味に合点がいく。妹の本棚に薄い本がなかった事に安堵し、太一は本棚からゆっくり目線を上げていく。すると、カーテンレールに掛けられた数点の洗濯物が目に入った。
 そして、一番左に干された小さな物干しには――

「中々に生活感があってよろしい。薄緑ってとこがリアルでいいね! 真由美ちゃんらしい! そんでもって、なによりもポイントが高いのは、フロントホッぐべぇぇっ!?」

 突如、太一を襲った激痛。
 見れば腹に真由美の拳がめり込んでいるではないか。

「ちょちょちょちょっ! なななななな、なにやってるんですか!?」

 激痛に顔を歪める太一は膝を床につき顔を上げる。そこには覚醒した真由美の姿があった。
 太一はゆっくり口を開き、二つの意味を込めて言葉を紡ぐ。

「お、お帰りなさいませお嬢様……」

 と、ここまではまだ良かった。ここ二日で何度も繰り返された茶番と大差ないやり取りだろう。しかし、問題はこの後だ。

「わたくし椎名太一は、明日の朝までこの場から一切動かないことをここに誓います」

 太一は顔をパンパンに腫らして、床に直接敷かれた布団の上で正座していた。
 腫れた顔はいうまでもなく、薄緑の見物料。誓いの言葉は今晩の宿泊費だ。

 太一の無神経な行動によって我を取り戻した真由美は、即座に部屋から太一を追い出した。
 追い出された太一は、悪さをして家を追い出された子供さながらにドアを叩き謝罪の言葉を叫ぶ。これには真由美も近所迷惑と判断して、泣く泣く太一の再入室を許可せざるを得なかった。布団の上から動くことを禁ずる、という条件付きではあるが。

「よろしい。それじゃ、私はシャワー浴びてきますので、おとなしくしていてくださいね」
「シャワー!!」
「くっ!!」

 過敏な反応をする太一に真由美は拳を振り上げる。その動作に太一は両手を前に出してストップを促す。

「じょ、冗談冗談! だから殴らないで」

 出会ってから多大なる迷惑を掛けてきた自覚はあるが、真由美がここまで怒りを露わにした記憶はない。私生活にズカズカと踏み込んだことがよほど気に食わなかったのだろう。
 てっきり真由美のことだから、顔を真っ赤にして取り乱すのが関の山だと想像していた。幸いにしてここは走行中の車ではないし、大した実害は出ないものだと判断しての行動だったのだが、よもやこんな大事になるとは。
 太一は数分前の浅はかな自分を呪った。

「す、少しあっちを向いてもらえませんか……?」
「へ? なんで?」
「下着を取るんですっ!!」

 余りにデリカシーのない太一に真由美は激怒。予想だにしなかった叱咤に、太一は慌てて掛け布団に包まって身を隠す。そのまま数秒の間を置いて、太一が完全に大人しくなったと判断した真由美は、ロフト下に設置された簡易クローゼットの戸を引いた。
 クローゼットの中にはプラスチックケースが置かれ、その中にはパジャマを含む普段着が入っている。ちなみに、先ほど太一が目撃した洗濯物も一旦彼を追い出した際にこの中へと一時避難していた。
 真由美はケースの中から、今晩着用するパジャマと下着を手に取り、そそくさとクローゼットの戸を閉める。油断も隙もない太一のことだ。布団の隙間からちゃっかり覗いてもおかしくはない。

「ちゃんと下向いてますよね!?」

 未だ治らない憤怒を胸に、真由美は荒々しい口調で太一に声を掛ける。

「も、もちろん」

 太一からの返答は恐怖を含んだ情けない声だった。また、その音質が籠っているのを考えれば、言いつけ通り布団に包まったままでいると考えていいだろう。
 とりあえずの現状に安堵した真由美は、警戒を持続したままバスルームへと移動するのであった。

♦︎♦︎♦︎

 ――初めて異性の部屋に来たというのに、酷く冷めた気分だ。
 否、それは正確な表現ではない。単に冷静なだけなのだろう。
 鼓膜を叩くシャワーの噴射音は健全な男子であれば、胸の内を掻き乱す凶器に違いない。それをいうならば、入室後すぐ目にした薄緑の洗濯物は発狂してもおかしくない攻撃力を持っていたはずだ。
 しかし、今の太一は落ち着いたもので、充てがわれた布団に寝そべりながら少女漫画に興じている。
 たまたま布団から出ずとも手の届く範囲に本棚があって、たまたま目に付いた本を抜き取っただけのことだったのだが、これが中々の曲者。暇潰しにと軽い気持ちで読み出したつもりが、あまりの面白さにいつの間にか三冊も読破していた。
 受験勉強で身に付けた早読みスキルがまたしても活躍しているわけだが。

「こりゃ今日はオールだな」

 少女漫画の面白さに徹夜を決意する太一。もはや、真由美が風呂に入っていることなど眼中にない。
 真由美の名誉の為にいっておくならば、決して彼女に女性としての魅力が無いわけではない。単に、太一の気持ちの問題。兄力というやつだろう。
 妹に欲情しない。それこそ真のお兄ちゃんだ。

「椎名さんっ! 今出ましたんで、こっち見ないでくださいね!」

 ガチャリとドアの開く音がして、真由美の声が響く。まだ怒りを引きずっているのか、その声色はどこか刺々しい。
 それもそのはずで、一人暮らしを前提とした『リオパレス』には脱衣所といったものは無い。故に、風呂場の前に敷いたマットの上で着替えを済ますのがオーソドックスな流れだろう。
 例に漏れず、いつもの真由美ならその流れに沿って着替えるわけだが、リビングには太一という悪魔がスタンばっているため却下。多少面倒ではあるが、予めバスルーム前にセッティングした着替えを順に取って、一枚ずつ着替えていくスタイルを採用することにした。
 しかし、太一の反応は真由美の苦労に反したものだった。
 真由美の声を聞いた太一はしばし漫画から顔を上げる。それは真由美の姿を盗み見る為のではなく、あくまで条件反射に他ならない。現に、太一はすぐに漫画へと目線を戻してしまう。

「ん? あぁ、おっけーおっけー。大丈夫、いま俺いそがしいから」

 太一からの返答は非常に素っ気ないものだった。聞きようによっては「お前になんか興味ないから」とも取れる反応に、真由美は内心で煮え切らなさを感じつつも、ひとまず着替えを優先する。

「もういいですよ……って、あれ? 漫画読んでるんですか?」

 無事に着替えを終え、リビングへと戻った真由美は、漫画に熱中する太一の姿を見てあの素っ気ない態度の理由を悟る。覗かれたら覗かれたで怒ったのだろうが、自分への興味が漫画に負けたのかと思うと、それはそれで釈然としない。なんとも形容し難い敗北感についばまれ、真由美は小さく溜息を吐いた。
 ともあれ――

「ど、どこまで読んだんですか?」

 やはり気になってしまう。
 真由美の立ち位置からだと太一の頭と漫画本が被って見えてしまい、決定的な情報が一切入ってこない。そのもどかしさが好奇心を駆り立て、ページの捲られる乾いた音が焦燥感を煽る。
 どれだけ負の感情に支配されようとも、太一が手にしているのは真由美のバイブル。それをこんなに集中して読んでくれている。それこそ年頃の男が年頃の女を放置してまで。
 真由美は素直に嬉しかった。出来ることならこの思いを共有したい。語り明かしたい。そんな欲望が胸に押し寄せる。
 少し動けば、見える風景は変わり太一の手元は明らかになるだろう。しかし、それでは意味がない。太一の口から直接聞き出さなければならないのだ。真由美の胸はそんな使命感で満たされていた。

「ん? あぁ……今、四巻。ヒロ子の鞄から鳥の死体が出てきたとこ。いくらなんでも、こりゃやりすぎじゃ――」
「うにゃぁぁぁぁぁっ!!」

 太一は簡単なコメントを添えて真由美の質問に答えようとするも、いい切る前に甲高い奇声がそれを掻き消した。
 予想外の反応に驚いた太一は、反射的に本から目線を後方へと移す。すると、そこには超興奮状態の真由美が両目を極限まで見開いて奇妙な笑顔を浮かべていた。

「やばぃですやばぃですぅ! この事件をきっかけにヒロ子は報復を決意するんですけど、これがまた残酷で……具体的にはカッターナイフで朱美の背中をぱっくりと! いやぁぁ!! でもでも、そこから始まる逃亡劇もまたいいんですよぉ~!」

 早口で捲し立てる真由美。さらっとネタバレしていることはさて置き、その形相はまさに狂人。太一の中にある真由美お花畑像を駆逐するには、この一撃で充分すぎた。

「あ、あの……もしかして、病んでる?」
「はっ? なに言ってるんですか!? え? もしかして椎名さん、この名シーンを見て気持ち悪いとか思ってるんですか? それは流石に頂けないですよ!!」
「い、いや……どっちかっていうと、残酷描写より今の真由美ちゃんにドン引きというか……」
「なっ!? これが冷静で入られますか!! 感受性豊かな人かと期待していたんですけど、どうやら私の見当違いだったみたいですね!」
「ちょっ、辛辣すぎない!?」

 いつになく饒舌な真由美にたじたじの太一。ネタバレや真由美の特殊な性癖は流すとしても、ストレートな罵倒に太一のメンタルは限界寸前だ。これ以上、真由美の作品愛に付き合っていては身が持たない。
 そう分かってはいるのだが、真由美の声は止まらない。ほぼ息継ぎなしで、ひたすら作品への愛とそれを理解出来ない太一の無能さを語り続ける。

「だぁぁぁぁ、分かったよ!! 分かったから、もう許してっ」
「いいや、分かってません! 椎名さんはなにも分かっていません! 愛を感じません!!」
「愛してるからっ! めさくさ愛してるから! この漫画も、これを見せてくれた真由美ちゃんも、みんな引っくるめて愛してますからっ!」
「っ!?」

 真由美は息を飲んだ。
 太一にとっては、投げやりで、適当で、その場凌ぎに発した言葉に違いない。が、冷静さを欠いていた真由美がそれに気付くはずはない。
 また、太一も太一で真由美の変化に気を配れる心のゆとりは持ち合わせていなかった。
 ことごとく噛み合わない二人だ。

「あ、あの……その、言葉は……本気ですか?」
「お、おう」
「ほ、ほほほ本気の本当の本心ですか?」
「マジのリアルのトゥルーハートです」

 今の今まで心を満たしていた熱気は何処へやら、太一の発した言葉――の中にある一部分が真由美の脳内で反響し続ける。
 いつしか真由美の頬は紅色に染まり、和らいでいたはずの胸痛が活動を再開。痛みに耐えかねた真由美は、下唇を強く噛み締めながら俯く。
 事の原因である太一はというと、突然変わった空気に気まずさを感じ、真由美から目を逸らす。故に、せっかく訪れた真由美のデレリアクションを見事に見逃し、損したことにすら知らずにいた。

(また地雷踏んじまったか……)

 胸中でそんなことを呟き、太一は今回の敗因を探る。
 正直いって、真由美の少女漫画への食いつきぶりは異常の一言に尽きる。ストーリー解説は勿論のこと、軽い気持ちで読んでいた太一を叱咤するまでのハマりようだ。
 それに対して、自分の返答はどうだろうか。薄っぺらで、投げやりな言葉だったかもしれない。そして、それは作品を愛する真由美にとっては侮辱の類として受け取られてもおかしくはないだろう。
 ゆっくりと思考のピースが噛み合っていく。同時に太一の中にはバツの悪さが芽を出し、成長した芽はやがて罪悪感へと変貌を遂げる。

「あ、あのさ。俺……よく知りもしないのに、あんなこといって、その……ごめん」
「そ、そうですね……本音をいえば、もっとお互いに知ってから言って貰いたかったです……」
「お互いに……? あ、あぁ、うん。お互いどこに魅力を感じるかって重要だもんな」 

 大切な話をするときに互いの目を見て話すというのは、子供でも知っている常識だろう。しかし、部屋を取り巻く妙な気まずさからか、二人は互いを直視できない。そのせいで、言葉の真意は着実にボタンを掛け違えていく。
 太一は漫画への愛を、真由美は胸につっかえるわだかまりを。それぞれの感慨を乗せ、声は届き、想いは届かない。

「でも、嬉しかったです……」

 真由美の胸は再び熱を持つ。激しく込み上げる空気に押し出され、ぼやけていた気持ちは明確な形を作り出す。そして、真由美は大きく息を吸い込み、思いの丈を現実へ変換する。

「椎名さんの言葉……凄く嬉しくて……だ、だから、私っ――」
「おぉっ?」

 が、太一は真由美の決意を遮った。

「真由美ちゃん、これ見てよ!!」
「うっ、あふっ?」

 大量に吸い込んだ空気は行き場を失い、真由美の舌はつんのめったように異音を放つ。
 いらんところでは無駄に空気を読むくせに、大切な場面ではどこぞの鈍感主人公も裸足で逃げ出すような透かし方をする。そんな太一を真由美は恨めしげに睨む。
 しかし、太一の表情にまったく悪びれた様子はなく、漫画本を掲げている。

「ほら、この帯見て!! 三月七日に池袋でアニメ化の記念イベントあるんだってさ!!」

 漫画本から帯を外し、嬉しそうな顔で真由美に見せびらかせる太一。このイベントが可愛い妹の好きな物を理解する良いきっかけになればと思っての提案だ。
 当然、真由美の気持ちなど微塵も知らず。

「ぶっちゃけ、どこまでハマるかはわかんねぇけど、まぁ続きが気になるくらいには俺も面白いと思うよ! それに、感謝の意味も込めてグッズの一つくらいはプレゼントすんぜ?」
「あ、い、いえ……」
「そんな心配すんなって! 三月までには浄土での生活にも馴染んどくかさら! お兄ちゃんに任せなさい!!」

 ハイテンションで捲し立てる太一に、今度は真由美の方がたじろんでしまう。
 決死の覚悟を踏みにじったことに対して一言物申したいところではあるが、それよりも先に真由美は言わねばならないことがあった。この残念すぎる少年に真実を――

「それ、三年前に買った本ですよ……」
「えっ?」
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