宵月桜舞

雪原歌乃

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第二章 恋情と真実

第二節

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 ◆◇◆◇

 瞼の奥に眩い光を感じ、南條はゆっくりと目を開いた。
 真っ先に飛び込んだのは見慣れた天井。それを暫し睨みながら、南條は、先ほどまで見ていた夢を思い浮かべる。
 初めて夢の中で鬼王に逢ったのは十年前、ちょうど今と同じぐらいの時季だったと記憶している。何故、鬼王の世界に入り込めたのかは未だに分からないが、見えない〈何か〉に導かれる感覚はあった。そして、何となく辿っていたら、鬼王と逢ってしまったというわけだ。
 鬼王と初めて対峙した時の戦慄は、未だに鮮明に残っている。だが、あの頃は南條もまだ若かったから、弱味を見せまいと、必死で強気に振る舞っていた。
 鬼王の力は圧倒的だった。まともに力を受けたとたん、全身が引き千切られるような激痛が走り、自分はこのまま死んでしまうのではないかと、半ば本気で考えたほどだった。
 先ほどの夢では、鬼王は霊力を発動させなかったものの、あの頃と変わらない強い気に、またしても生命の危機を感じた。
 普通の人間であれば、鬼王に睨まれただけで命を落とすかもしれない。鬼王とは、ヒトの恨みの塊と言っても過言ではないから、呪い殺すことなど容易いだろう。
 対して、南條の持つ力は、〈鬼〉と呼ばれる魂を消滅させる。
 鬼王が生きている人間に〈鬼〉を憑依させただけならば、器となっている人間をあまり傷付けずに消すことが出来る。しかし、肉体が滅んだのち、鬼王から魂そのものを与えられて命を吹き返した者は、魂の消滅だけでは済まなくなる。
(俺は……、この手で愛していた者を殺した……)
 南條自身の記憶にはっきり残っているわけではないが、彼の中に眠る魂は、確かに桜姫を手にかけたことを憶えている。幾度となく夢で見た桜姫の断末魔の叫びは、いつまでも耳にこびり付いて離れない。
 今度こそ、美咲を守りたい。鬼王の手に落として堪るか。そう思う半面で、いつか、過去の自分と同じように殺してしまうのではないかという恐怖心にも苛まれる。
「でも、あいつを幸せにしたいと想う気持ちは本物だ……」
 自分に、そして、自分の中に眠る魂に言い聞かせるように口にする。こうして暗示をかけないと負けてしまいそうな、そんな気がした。

 プルルルル……プルルルル……

 突然、ローテーブルに置いていた携帯電話が鳴った。
 南條はゆっくりと身を起こすと、布団から這い出て携帯を手に取る。
「樋口さん……?」
 開いたディスプレイに表示された名前を呟き、通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『おう、南條かおはよう!』
 控えめな南條とは対照的に、電話の向こうの主――樋口泰明ひぐちやすあきは、朝から耳障りな大声で挨拶してくる。もっとも、相手にしてみたら普通の地声らしいのだが。
 南條は眉をひそめ、携帯を耳からわずかに離してから、「何の用です?」と、いつもの調子で淡々と訊ねた。
『なんだ南條、テンション低いなあ。もしかしてまだ寝てたのか? いい若者がそれじゃあイカンぞ!』
「――樋口さんが高過ぎるんでしょう……。それより何の用です?」
 ノリの悪い南條に、樋口は『やれやれ』と大袈裟な溜め息を吐いていたが、諦めたように用件を話し出した。
『お前、今夜ウチに来ないか? 今日はチビの誕生日なんだけど、せっかくだから南條も呼べって江梨子えりこがな。それにチビも、お前が来てくれれば喜ぶし。どうだ?』
「ええ、俺は別にいいですけど……。それにしても珍しいですね。江梨子さん自ら俺を呼ぶなんて」
『さすがに鋭いな、南條君は』
 わざとらしく君付けされ、南條は頬を引き攣らせた。
「で、江梨子さんの真の目的は何ですか?」
 南條が問うと、樋口は一呼吸置いてから、『例の子だよ』と言った。
『お前、一週間ぐらい前にその子の家に行っただろ? 江梨子はどうやら、その時のことが気になってしょうがないらしい。いや、実際はその子の話よりもその子本人も一緒に連れて来いって言い張ってるほどだ』
「――そんなことだろうと思いました」
 南條はこめかみを押さえながら、小さく息を漏らした。
「分かりました。どうせ今夜は予定がないですからいいですよ。ただ、彼女を連れて行くのはまた別です。あまり期待しないように、と江梨子さんにしっかり伝えて下さい」
『そりゃあもちろんだ。いきなりじゃ、彼女もビックリしちまうだろうしな。けど、大丈夫だって言ってたら連れて来てくれ』
「――樋口さん、あなたも期待してませんか……?」
 南條が冷ややかに突っ込むと、樋口は電話の向こうで、あははと豪快な笑い声を上げた。ただでさえ地声が大きいのにと思いながら、南條はさらに携帯を耳から遠ざけた。
『そんなわけだ。あ、瀧村たきむらにもこれから声をかけとく。あいつのことだからバイクで行くって言うだろう』
「でしょうね。なら、俺は彼女が大丈夫そうならば彼女を迎えに行きますよ」
『おう、悪いな。じゃ、またあとで。あ、時間は七時だからな? 遅れないようにしろよ?』
「分かってますよ。――俺だって江梨子さんが怖いですから……」
『あっははは……! 確かに江梨子に敵う奴なんてそうそういないな! そんじゃ、今度こそ切るからな?』
「ええ、またのちほど」
 通話を切ると、部屋は再び静けさを取り戻す。同時に、窓の外からは小鳥のさえずりが、耳に心地良く聴こえてきた。
「お陰で目が覚めたけど……」
 ひとりごちると、南條は携帯電話をローテーブルに置いて立ち上がる。そして、布団を一気に丸めると、それを押し入れに詰め込んだ。面倒そうだからと、ベッドを買えと周りから推し進められたことが何度もあったが、南條自身は特に不便はしていないし、何より、ベッドは邪魔なだけだと思っているから、どんなに言われようとも右から左に聞き流していた。
 布団をしまうと、八畳間が無駄に広く感じる。元々、南條は必要最低限の物しか置かない主義だからというのもあるのだが。
 布団が片付けられた部屋の中で、南條はローテーブルの前に胡座をかいた。また、一度置いた携帯を手に取ると、電話帳登録を開く。
 藍田貴雄の家に招待された翌朝、南條は美咲からも携帯番号を教えてもらっていた。美咲曰く、『南條さんに教えてもらうだけじゃ不公平だから』らしいが、意外な律儀さに、南條は自然と顔が綻んだ。
「怒ってみたり、急に真面目になったり、忙しないな……」
 あの時のことを想い出すと、心が和らぐ心地がする。だが、すぐにその笑いを引っ込め、携帯のデジタル時計で時間を改めて確認する。現在、八時五十分。普段だったら仕事や学校に行っている時間だが、休日の今日は、美咲はもしかしたら寝ているかもしれない。
 携帯を睨みながら、南條はしばらく悩む。しかし、その間にも時間は刻々と過ぎる。
「迷惑覚悟で……」
 そう前置きし、登録していた美咲の携帯番号にカーソルを合わせて通話ボタンを押す。電話の向こうで、二回、三回、とコール音が鳴り続ける。
 と、五回目で音が途切れた。
『――もしもし……?』
 警戒しているのか、電話越しでも身構えている感じがありありと伝わってくる。
(俺はそんなに信用ないか……)
 南條は苦笑しながら、「おはよう」と、声をかけた。
『おはようございます……。えっと、誰です……?』
 どうやら、南條のことを綺麗さっぱり忘れてしまったらしい。南條は少しばかり考えてから、ゆったりと口を開いた。
「すまない。まずは名乗らないといけなかったな。この間、家にお邪魔させてもらった南條だ」
『この間……? ――ああっ!』
 どうやら、ようやく想い出したらしい。南條がホッとしていると、電話の向こうの美咲は、『ごめんなさい!』と必死で謝罪してきた。
『私てっきり悪戯電話だと思って……。それと、南條さんの携帯番号とメアド……、まだ登録してなかったんです……』
「そうか」
 あっさりと返答しつつ、内心では、美咲が南條の存在を忘れていなかったことにホッとする。
『ほんとにごめんなさい……。今度こそちゃんと登録しますから……』
「そんなことは気にしなくていい。いきなり『おはよう』だけじゃ、ビックリしてしまって当然だ」
『――ごめんなさい……』
 しつこいぐらいに謝る様子から、よほど気にしているのが伝わってくる。南條は小さく笑みを浮かべながら、「もういいから」と美咲を宥めた。
「それより、折り入って訊きたいことがある」
『訊きたいこと、ですか……?』
「ああ。急で悪いんだが、今夜、ちょっと付き合ってくれないか? 実は俺の知り合いの子供の誕生日なんだが、藍田も招待してくれと頼まれてしまって」
『――どうしてですか?』
 美咲の疑問はもっともだ。南條が美咲の立場であっても、きっと同じように首を傾げていただろう。
 南條は少し間を置いてから、「実は」と切り出した。
「その知り合いというのが、まあ、簡単にいえば俺と同じような力を持つ仲間なんだ。藍田のことは、その人達も間接的にだが知っている。――こんな言い方をしたら気分を悪くするかも知れないが……、どうやら、藍田に興味があるようだから……」
 南條が言い終えると、二人の間に沈黙が流れた。ついつい正直に言ってしまったが、やはり、『興味がある』は拙かっただろうか。
(もう少し言葉を選ぶべきだったか……)
 後悔の念に囚われていた時だった。
『何時ですか?』
 これまで黙っていた美咲が口を開いた。
『日中は友達と予定があるので無理ですけど、夜なら空いてます。あ、ただ、親に訊いてからになりますけど……』
「――いいのか……?」
 恐る恐る訊ねる南條に、美咲は『はい』と頷く。むろん、電話越しでは見えるはずもないが、何となく、同時に首を縦に振ったように思えた。
『ちょっと引っかからなくはないですけど……、でも、いずれは関わるかもしれない人達なんですよね?』
「まあ、そうなるな」
『だったら逢います。でも、まずは親に今すぐ訊いてきます。――それとも、一度電話切った方がいいですか?』
「いや、構わない。お前からかけ直すのは手間だろう?」
『手間じゃないですけど……。分かりました。ちょっと待ってて下さい』
 美咲に言われた通り、南條は携帯を耳に当てたまま待機した。どれぐらい待つことになるのかと思ったが、わりと早くに、『お待たせしました』と返答が戻ってきた。
『大丈夫だそうです』
「そうか、分かった。じゃあ、六時半ぐらいに迎えに行くが大丈夫か?」
『六時半ですね? はい、その頃には確実に家に戻ってますから大丈夫です』
「バタバタさせて悪いな」
『いえ、そんなことは気にしないで下さい』
 高校生にずいぶんと気を遣わせてしまっている。南條は自らに呆れながら、思わず苦笑いを浮かべた。
「それじゃあ、またあとで。あまり慌てなくていいからな?」
『はい、ありがとうございます。ではまた』
「ああ」
 最後は、ほぼ同時に通話を切った。
 それにしても、朝から電話ばかりすることになろうとは考えてもみなかった。そもそも、樋口と樋口の妻の江梨子が美咲に逢いたいなどと言わなければ、美咲にまで電話することもなかった。だからと言って、美咲への電話が面倒だったわけでもなく、むしろ、美咲の声を聴けたことで、自分でも驚くほど安らぎを覚えた。
(やはり、あいつは俺にとってかけがえのない存在、ってことか……)
 南條はいつまでも、携帯のディスプレイを眺め続ける。美咲の番号にカーソルを合わせたまま、画面が暗くなると適当なボタンを押して明るくする。我ながら女々しい行為だ、と南條は自らを嘲り笑った。
「『〈愛〉を知らぬ者は、決して強くはなれぬ』か……」
 夢の中で鬼王が最後に言っていたことを反芻し、南條は携帯を閉じた。
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