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第三話 持つべきものは
Act.4
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◆◇◆◇◆◇
夕飯をごちそうになったあとは暇を告げるはずだったのに、紫織と紫織の母親に引き止められ、結局一晩お世話になることとなった。しかも、一家の大黒柱を差し置いて一番風呂を勧められたものだから、それはさすがに辞退しようとしたのだが、やはり、紫織の母親に『入ってらっしゃい』と半ば強引に押し進められ、甘える結果となってしまった。
それにしても、一軒家の浴室は入り心地が良い。特に加藤宅は家族が少ないのにわりと広い造りになっているので、なお快適だと思う。
全身を伸ばして湯船に浸かっていると、日頃の疲れが湯の中に溶け込んでゆくようだった。柚子の香りの入浴剤がまた、心身ともにリラックスさせてくれる。
「りょーかー」
浴室の外側から、紫織の声が聴こえてきた。
「脱衣カゴの中に着替え入れとくよー」
「おう、悪いねえ!」
つい、オヤジ臭い口調で返してしまう。
案の定、紫織はガラス張りの引き戸の向こうから、「涼香、オッサン入ってるよ?」と突っ込んできた。
涼香は口元を歪める。
「まあ、オッサンになっちゃうってことは、それだけお風呂最高ってことだから勘弁してやってよ」
「なにそれ」
紫織は笑いを含みながら返し、それから少しばかり間を置いて、「涼香」と神妙な声音で涼香の名前を呼んだ。
「無理に引き止めちゃってごめん……」
急に謝罪され、さすがに面食らった。
「別に謝ることじゃないでしょうが。てか、そうゆう遠慮し合う関係じゃないんだし」
「まあ、そうだけど……」
紫織はそこまで言うと、口を噤んでしまった。もしかしたら、涼香を急に家に来るように誘ってきたのには理由があったのだろうか。
「――何かあったの?」
涼香は問いかけてから、引き戸の向こうに意識を集中させる。紫織の気配は感じる。だが、微かな物音でさえ聴こえない。
しばらく、黙ったままで辛抱強く反応を待つ。すると、意を決したように、「――うん」と小さく返答が戻ってきた。
「何かあった、とゆうのとも違うけど……、ちょっと、上手く説明出来ないってゆうか……」
多分、伝えたいことが伝えられないことに、本人が一番もどかしさを覚えているに違いない。
紫織の気持ちを何となくでも察した涼香は、「今はいいよ」と穏やかな口調で告げた。
「まだ夜は長いんだしさ。あとでゆっくり話そう? 私も紫織に話したいことがあったし」
「うん」
短い返事だったが、安堵していると涼香も分かった。
「ごめんね。それじゃ、ごゆっくり」
「はいよ。またあとで」
そう言うと、パタン、とドアの閉まる音が聴こえた。今度こそ、紫織の気配は完全に消えた。
涼香は引き戸から湯に視線を移し、両手でそれを掬い上げては、ゆっくり傾けながら少しずつ戻してゆく。
(紫織の悩みどころは、彼だろうな……)
涼香は朋也と、顔を見たことがないもうひとりの男性の背中を同時に思い浮かべる。朋也と年の離れた兄であるその男性は、今は紫織の恋人だ。もう、事実上は婚約者と呼んでもいいぐらいかもしれない。
「板挟み、ってやつか……」
涼香はひとりごちると、両手で掬った湯を今度は自分の顔にかけ、そのまま手で拭った。これこそオヤジ臭い仕草だな、と思わず自分で自分に苦笑いしてしまう。
「馬鹿みたい……」
不意に出た言葉は、自分に向けたものだったのか、それとも違うのか。涼香自身も分からなかった。
夕飯をごちそうになったあとは暇を告げるはずだったのに、紫織と紫織の母親に引き止められ、結局一晩お世話になることとなった。しかも、一家の大黒柱を差し置いて一番風呂を勧められたものだから、それはさすがに辞退しようとしたのだが、やはり、紫織の母親に『入ってらっしゃい』と半ば強引に押し進められ、甘える結果となってしまった。
それにしても、一軒家の浴室は入り心地が良い。特に加藤宅は家族が少ないのにわりと広い造りになっているので、なお快適だと思う。
全身を伸ばして湯船に浸かっていると、日頃の疲れが湯の中に溶け込んでゆくようだった。柚子の香りの入浴剤がまた、心身ともにリラックスさせてくれる。
「りょーかー」
浴室の外側から、紫織の声が聴こえてきた。
「脱衣カゴの中に着替え入れとくよー」
「おう、悪いねえ!」
つい、オヤジ臭い口調で返してしまう。
案の定、紫織はガラス張りの引き戸の向こうから、「涼香、オッサン入ってるよ?」と突っ込んできた。
涼香は口元を歪める。
「まあ、オッサンになっちゃうってことは、それだけお風呂最高ってことだから勘弁してやってよ」
「なにそれ」
紫織は笑いを含みながら返し、それから少しばかり間を置いて、「涼香」と神妙な声音で涼香の名前を呼んだ。
「無理に引き止めちゃってごめん……」
急に謝罪され、さすがに面食らった。
「別に謝ることじゃないでしょうが。てか、そうゆう遠慮し合う関係じゃないんだし」
「まあ、そうだけど……」
紫織はそこまで言うと、口を噤んでしまった。もしかしたら、涼香を急に家に来るように誘ってきたのには理由があったのだろうか。
「――何かあったの?」
涼香は問いかけてから、引き戸の向こうに意識を集中させる。紫織の気配は感じる。だが、微かな物音でさえ聴こえない。
しばらく、黙ったままで辛抱強く反応を待つ。すると、意を決したように、「――うん」と小さく返答が戻ってきた。
「何かあった、とゆうのとも違うけど……、ちょっと、上手く説明出来ないってゆうか……」
多分、伝えたいことが伝えられないことに、本人が一番もどかしさを覚えているに違いない。
紫織の気持ちを何となくでも察した涼香は、「今はいいよ」と穏やかな口調で告げた。
「まだ夜は長いんだしさ。あとでゆっくり話そう? 私も紫織に話したいことがあったし」
「うん」
短い返事だったが、安堵していると涼香も分かった。
「ごめんね。それじゃ、ごゆっくり」
「はいよ。またあとで」
そう言うと、パタン、とドアの閉まる音が聴こえた。今度こそ、紫織の気配は完全に消えた。
涼香は引き戸から湯に視線を移し、両手でそれを掬い上げては、ゆっくり傾けながら少しずつ戻してゆく。
(紫織の悩みどころは、彼だろうな……)
涼香は朋也と、顔を見たことがないもうひとりの男性の背中を同時に思い浮かべる。朋也と年の離れた兄であるその男性は、今は紫織の恋人だ。もう、事実上は婚約者と呼んでもいいぐらいかもしれない。
「板挟み、ってやつか……」
涼香はひとりごちると、両手で掬った湯を今度は自分の顔にかけ、そのまま手で拭った。これこそオヤジ臭い仕草だな、と思わず自分で自分に苦笑いしてしまう。
「馬鹿みたい……」
不意に出た言葉は、自分に向けたものだったのか、それとも違うのか。涼香自身も分からなかった。
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