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番外編・二 幸福の条件

Act.2

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 宏樹君の運転する車に揺られること、三十分。私達は目的の場所に到着した。
「予定よりも十分早いな」
 車から降りるなり、宏樹君は自らの腕時計に視線を落としながら言った。
 ちなみに私達が今いる場所は、市内でも屈指のホテル。実は、私と宏樹君は三カ月後に正式に結婚することとなっている。ドレス選びも、言うまでもなく式や披露宴のためのだ。
「なんかドキドキしちゃう」
 ホテルの入り口に向かいながら、私は胸の辺りに手を添えながら何度も呼吸を繰り返す。
 その様子を、宏樹君は「大袈裟だな」と苦笑いしながら眺めていた。
「それに、ドレス選びだけで緊張してたら本番はどうなる? 限界に達して、そのまま大勢の前で失神しちゃうんじゃないか?」
「――宏樹君、今、私をからかってすっごく楽しんでるでしょ?」
「さあ、どうかな?」
 悪びれる様子が全くない宏樹君を、私は恨めしく思いながら睨んだ。
 朋也が家を出てからというもの、宏樹君は以前に増して私に意地悪をするようになっている。私がいちいちムキになるのも悪いのだけど。
 宏樹君曰く、『朋也と紫織は同類だからな』とも。
 多少、性格に問題がある宏樹君。けれども、人一倍優しくて、人一倍思い遣りがある人だというのを、私はちゃんと知っている。伊達に、長いこと片想いしていたわけじゃない。

 ◆◇◆◇

 ホテル内に入っているブライダルサロンに行くと、私達はスタイリストさんの明るい笑顔に迎えられた。
 それにしても、ドレスの種類の多さには目を瞠る。定番の白いウェディングドレスから、色彩豊かなカクテルドレス。どれも綺麗で、ついつい目移りしてしまう。出来ることなら全部着てみたい。でも、ここにあるものを全て着るとなったら、いったいどれだけの時間を要するだろう。間違いなく、一日だけでは絶対に足りない。
 ――どうしよう……
 私は悩んだ揚げ句、少し離れた場所に佇んでいた宏樹君に視線を送る。宏樹君にセンスがあるかどうかは分からないけど、ひとりでグダグダ悩むよりはまだいいかもしれない。
 私の視線に気付いた宏樹君は、困ったように苦笑いを浮かべてから、私に近付いて来た。
「あんまり露出が高過ぎるのもどうかと思うし……」
 宏樹君はブツブツとひとり言を言いながら、ドレスを物色する。案の定、とても悩んだらしく、結局、スタイリストさんに助言を求めた。
「どういうのがいいんでしょうか?」
「そうですねえ……」
 スタイリストさんは私をジッと見つめてから、即座に一着のドレスを引っ張り出した。
「これなんかいかがですか?」
 スタイリストさんが選んでくれたドレスを、私は凝視する。そして、思わず口に出してしまった。
「なんか、首回りが空き過ぎじゃないですか? 袖もないですし……」
 私の言葉に、スタイリストさんは目を丸くさせ、しかしすぐに、「大丈夫ですよ」と笑った。
「思ったほど気にならないはずですよ。それに、とても肌がお綺麗なんですから、全部隠してしまうのはもったいないです」
「そ、そうですか……?」
「ええ」
 満面の笑みで頷かれると、私も何も返せなくなる。
「じゃあ、ちょっと着てみていいですか?」
「はい。では、こちらにどうぞ」
 私はスタイリストさんに言われるがまま、裏の方へと案内された。
 しばしの間、私は着せ替え人形と化した。見た目通り、ドレスはひとりではとても着られず、スタイリストさんのお世話になりつつ、何とか着替えた。
「少し大きいみたいですね」
 私の感覚ではちょうど良いと思ったのだけど、スタイリストさんからの見た目は違ったらしい。
「今は余っている分を仮止めしますね。当日までには詰めておきますので」
 そう言って、余っているという部分を器用に詰める。少々きついような気がしたものの、もしかしたら、ちょっときついぐらいがいいのだろうと思い、スタイリストさんにはいっさい口出ししなかった。

 ◆◇◆◇

 全ての準備――と言うのは大袈裟かもしれないけど――が整ってから、私は宏樹君にドレス姿をお披露目した。
 緊張と期待、半々の気持ちを抱えながら、宏樹君の反応を待つ。
 宏樹君は、わずかに目を見開いた。少しばかり私を凝視したあと、「いいんじゃない」と呟いた。
 私の体温は一気に上昇した。胸の鼓動も高鳴りを増し、隣にいたスタイリストさんにまで聴こえてしまうんじゃないかと思ってしまったほどだった。
「本当に可愛らしい花嫁さんですよ。旦那さんはお幸せですね」
 客相手のお世辞とは重々分かっていても、スタイリストさんの台詞は私をさらにドキドキさせる。
 そんな私とは対照的に、宏樹君は相変わらず穏やかに微笑んでいるだけだった。この人のポーカーフェイスは滅多に崩れないから、本心では何を考えているのか、さっぱりと言っていいほど分からない。
「旦那さん、すっかり見惚れていらっしゃいますね」
 屈託なく言うスタイリストさんに、私はただ、曖昧に笑うのが精いっぱいだった。
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