上 下
57 / 147
そろそろ10歳

17

しおりを挟む
 
「おやすみなさいませ、カーラ様」
「おやすみなさい、チェリ」

 いつの通りベッドの上に上半身を起こした姿勢で、隣室へさがるチェリを見送ります。さあ寝ようとしたら、普段はすでに枕もとで寝そべっているオニキスが、座ったままこちらを見降ろしていました。

『カーラ、お前の闇を見せて欲しい』

 言葉の意味が分からなくて、思わず首を傾げてしまいました。すでに明かりを消してしまった寝室は暗く、カーテンの隙間から差し込む月明かりが僅かにオニキスの輪郭を浮き上がらせています。

『先日、父君が覗きかけた闇だ。それを我に明かして欲しい』

 意味を理解するとともに、全身の毛穴が開くかのような焦燥感と、息苦しさに襲われました。バクバクとうるさく聞こえる心臓の音と、強張った顔をごまかすように深くため息をついて、震えないように気をつけながら声を出しました。

「何のことですか?」

 嫌だ。嫌われたくない。オニキスがいなくなるなんて、耐えられない。
 無意識にぎゅっとシーツを握ってしまったようで、オニキスはちらりとそちらに視線を向けた後、再び私と目を合わせました。

『それを我が知ることで、お前から離れてしまうかもというのは杞憂だ。何があってもそれはあり得ない』
「そんなこと! なぜ言い切れるの?!」

 かっとして、つい声を荒げてしまいました。

 知らないくせに。知らないくせに。知らないくせに!
 私が前世に何をしたのか、何をしてしまったのかを!

『知っている』
「え・・・?」

 思ってもみなかった言葉に、シーツを握りしめていた拳の力が抜けました。
 知っている? 嘘。そこまで覗かせた覚えはありません。浮かんでは消えるような表層の思考や記憶を、勝手にオニキスが読んでいるのは知っていますし、咎めたこともありません。でも深層の、私の芯の部分は読めていないはず。私でさえ思い出さないように、深く、奥底に閉じ込めてあるのだから。

『カーラの夢を見た。お前が泣いて目を覚ます、あの悪夢だ』
「私の・・・悪夢?」

 悪夢と言って思い浮かぶのは、一つしかありません。あの前世から続く夢です。あの日を、何度もやり直したいと願った、あの時を延々と繰り返す夢。あれを見られてしまったというのですか?
 どんなに記憶を深く沈めても、無意識に見てしまう夢ばかりはどうにもできませんでした。最近は見なくなったのでほっとしていたのですが、まさかオニキスがそれを覗いていたとは。
 どうしていいかわからず、ただオニキスを見つめ続ける私をどう思ったのか、彼はふっと息を吐くと柔らかく目を細めました。

『あぁ。カーラだけ明かすのは不公平だな。先に我の闇を見せよう。心地いいものではないが』

 茫然としたままの私に、オニキスが前足を差し出しました。見たければ触れろ、という意味でしょう。
 オニキスの闇。気にならないと言えば嘘になります。オニキスが語りたがらない、オニキスの元の世界での話です。迷いつつも好奇心によってわずかに差し出しかけた私の手に、オニキスが前足を乗せました。



 途端に頭の中にあふれる記憶。
 暗く、何もない世界で、時々過ぎ去る鮮やかな色彩。

 彼らがぶつけてくる、不愉快な感情たち。拒絶。侮蔑。忌避。恐怖。嫌悪。それは様々な言葉で、態度で、一方的に与えられる痛みだった。

 そして後に残るのは、ただひたすらに、永く、深く、暗い・・・孤独。自ら終わらせることもできず、終わりも見えない、延々と続く、孤独。



『我の為に泣いてくれるのか。カーラ』

 喜色が含まれたオニキスの声に、現実へ引き戻されました。
 私はいつの間にかベッドに横たわっていて、いつの間にかオニキスにのしかかられていました。オニキスは私の肩に前足を乗せた状態で、ペロペロと目じりを伝う涙を舐めとっています。

「好きよ。オニキス。大好き」

 少しでもあの虚無感を埋められるならと、普段あまり口にしない本心を告げました。同時にオニキスの首に手を回し、ぎゅっと抱きしめます。

「私はここにいて、ずっとあなたと共にいます」

 くつくつと笑いながら、オニキスが頭を摺り寄せてきました。

『カーラ。言ったろう? お前が望むならばもちろん死ぬまで共にあるが、例え拒んだとしても我がお前から離れることはない。お前に拒否権はないよ』

 なぜそう言い切れるのだろう。オニキスは私の精霊で、離れることなんて不可能だからだろうか。

『そうではない。もちろん物理的にも共にあるつもりだが・・・我が言いたいのは、精神的な意味合いだ』

 オニキスが頭をもたげ、わずかな月明かりを反射する瞳で、私を見下ろしてきました。彼の首元へ回したままの手に、その毛並みが少し逆立っているのを感じます。
 興奮している?

 ちゅっ

 微かに鳴ったリップ音に、現実逃避しかけた頭が、オオカミ犬の姿でどうやって鳴らしたのだろうと考えていました。無反応の私の唇にオニキスがまた、今度は触れる程度のキスを落とします。

『愛しているよ、カーラ。私の身も、心も、力も、すべてお前のものだ。だから今、お前のすべてをよこせとは言わない。だが・・・どうか私に、お前のすべてを見せておくれ』

 いつもと違う口調のオニキスが、すごく優しい目で私を見下ろしています。

 なんだろう。なんて言えばいいのかな。
 この心の中に何かが溢れていくような初めての感覚。オニキスに闇を見せろと言われた先程とは違う、胸がいっぱいの息苦しさと、心臓がもどかし気に動くのを感じます。無性にオニキスに触れたくなって、私を見下ろしていた頭を抱き寄せました。

「オニキスはずるいです」

 心が軽い。
 それにオニキスのあの耐え難い孤独を垣間見たあとでは、私の罪悪感がちっぽけに思えました。今なら恐怖に捕らわれることなく、私の闇を話してしまうことができそうです。
 オニキスの頭を抱えたまま、その耳元に囁きました。

「私のどうしようもない話を、聞いてくれますか?」
『ああ』



 前世の私が歯科衛生士として十分経験を積んだころ、院長先生の後輩の子供だという新卒歯科医師が就職してきました。

 その人は何故人と接する職業を選んでしまったのかと、非リアの私が心配になってしまうほど不器用な人でした。人間的にね。手先は器用で、治療の腕はよかったんですよ。

 すごく一生懸命で、いつも夜遅くまでカルテを読んでいたり、練習をしていたりしていました。わからないことがあれば、職種的には下の立場にある歯科衛生士の私にも、とても丁寧に質問をしてくる人でした。
 淡い恋心を抱くのに時間はかかりませんでした。でもずっと非リアだった私に、これといったアクションを起こす勇気はなく、たまに共通の勉強会に一緒に行って、ついでに一緒に食事をする程度でした。私はそれで満足だったのです。

 ある日、恥ずかしそうに告げられました。いつの間にか私の後輩と、そういう仲になっていたと。職場内での交際は、禁じられていたわけではありませんが、秘密にしたいと彼女に言われたそうです。でも友達だからと、私に教えてくれたのです。それでもよかった。友達で十分だった。彼の隣に立つのが私でなくても、彼が幸せなのならと、そう思っていました。

 二人の交際は順調だと思っていたある休みの日、しばらく来ることがなかった彼からのメールに気付きました。件名は無し。開くまで内容のわからないそれを、私は開きませんでした。
 どうせ惚気か、近付いていた非リアには縁のない恋人たちのイベントの相談か何かだと思ったからです。そしてそれを見たくなかった。ようやく落ち着いていた恋心を、再びざわつかせたくなかったのです。

 休み明けの仕事に、彼は現れませんでした。

 暗い顔の院長先生に、彼が行方不明だと知らされました。ちょうどメールがあったその日の夜から、姿が見えないと。彼は父子家庭で、院長先生の後輩である彼のお父様から、今朝連絡があったそうです。

 私は慌てて、メールを確認しました。そこには一言「既婚者だった」と書かれていました。

 そこからは断片的にしか記憶がありません。気付いたら後輩を罵っていて、気付いたら院長先生に今日は帰るよう、諭されていました。

 そうして手に入った休みを、私は彼を探すことに費やしました。とはいっても彼が行きそうな場所なんて、見当もつきません。ただやみくもに、焦る心のままに、探し回りました。
 だってそうでもしないと怖かったから。

 後輩が既婚者だったなんて、私も知りませんでした。院長先生は知っていたと思いますが、隠されていた彼らの関係には気付かず、そして後輩は意図的に皆に黙っていたのです。その後輩の理由なんて、どうだっていい。
 彼が知らなかったとはいえ、既婚者と付き合ってしまったのが問題なのです。彼の大嫌いな母親と同じことをしてしまったことが。

 探して、探して、探し回って、ふと気付いた着信。相手は期待していた彼ではなく、院長先生でした。そして告げられました。怖れていたことが、現実になってしまったことを。

 彼が見つかったよ。今は警察署にいる。



「葬儀の日時が決まったら、また連絡するね。しばらく君は休むといい・・・って」

 流れる涙をそのままに、嗚咽交じりに語り終えると、オニキスがゆっくりと体を起こしました。

『ずっと気に病んでいるのか?』
「だって、私が彼のメールを開いていれば・・・気付いていれば! きっと止められた! 私が彼を殺してしまったんです!」

 ものすごくみっともない顔で泣いている自信があったので、私は両手で顔を覆います。えぐえぐと泣き続ける私を、オニキスは見下ろしているようでしたが、ふとその気配が遠のきました。

『そのままでいろ。こちらを見るな。まだ完璧ではないからな。この姿を見られるのは都合が悪い』

 不審に思いながらも言われたとおりに顔を覆ったままでいると、そっと抱き上げられ、後ろから抱きしめられました。予想外の感覚に驚いて手を下ろして見ると、私の後ろから回っている人の腕があってぎょっとしました。しかも私が座っているのは、誰かの膝の上です。慌てて離れようとすると、私を抱きしめる腕に力がこもり、拘束されました。

『落ち着け。我だ。いつもの姿では慰めにくいから、この形をとっただけだ。カーラ! 見るなと言ったろう!』

 私が振り向こうとしたのをオニキスらしい人が、私を拘束したまま、さらに私の肩に顎を乗せて、顔をかえりみることができないようにしてきました。

「えっと・・・オニキスなのですか?」
『そうだ。落ち着いたか?』

 確かに、落ち着きました。涙も、状況的にも。

『それにしても腹立たしい。その「しんそつしかいし」というやつが、未だにカーラの芯に巣くっているのが我慢ならない』
「私の悩みには触れないのですか・・・」

 ため息交じりに言うと、オニキスが私の肩にチュッと口づけてから言いました。

『結論はもう、カーラの中で出ているだろう? 過去は変えられない』

 ぐっと言葉に詰まりました。何度も考え、何度も導きだした結論です。
 沈黙を肯定ととったのでしょう。私の首筋へ頬を摺り寄せるように、オニキスが軽く頷いたのがわかりました。

『カーラが自身の後悔と向き合うほかないのだよ。それに我は自死についてどうこう言う気はない。その是非を決めるのは死を選んだ本人の事情ではなく、残された者たちだと思うからな』

 私は・・・どうだろう。ずっと、ずっと、今も、止められなかったことを悔やんでいます。でも、彼を恨む気持ちはない。残念だとは思うし、死を選んだことを正解だとは思わないけれど。・・・彼がもう、苦しんでいなければ、それでいいかな。
 オニキスが耳元でふっと笑った気配がしました。

『しかし自死できない我ら精神生命体からすると、その選択肢があることが少しうらやましい』
「どういうことです・・・かっ?!」

 オニキスが首筋に口づけてきたので、肩越しにその頭をわし掴みました。彼は不満そうに息を吐いてから答えます。

『我らには明確な寿命というものがない。お前たち人に寄り添うことで、終わりを延ばすことができるからな。それに肉体を持たないため老いもなく、肉体的な終わりもない』

 人の姿になっても癖は変わらないようで、首筋を諦め、肩に鼻を押し付けくんかくんかするオニキス。

『精神生命体が死ぬということはつまり、狂って霧散するか、何もかもを諦めて消滅するか、自身を認識できなくなって消えていくかのどれかだ』

 あの痛いほどの虚無感を思い出して、ぎゅっと両手でオニキスの腕にしがみつきます。それに気をよくしたのか、オニキスが肩から順に首筋にかけてキスをし始めました。 

「んっ・・・約束! 約束したでしょう?! オニキス!」
『舐めてはいない』

 また頭を掴んで止めようとしましたが、両手はすでにオニキスによって拘束されていました。首筋まで口づけてきたオニキスは、そのまま耳元まで続けるつもりのようです。

「ちょっ・・・待って! 真面目に話をしてください!」
『む。すまない。深く精神を共有し合えたことが嬉しくて、つい・・・』

 意外と素直にやめるオニキス。しかし名残惜しそうに、耳元で吐息を漏らすので、何かが私の腰のあたりから背中を駆け上がりました。

『精神を深く共有するということはつまり、我ら精神生命体にとっては性行為に等しいのだよ』
「・・・そんな恥ずかしい事実は共有しなくて結構です」

 最後に私のつむじ辺りへキスをしてから、オニキスは腕の拘束を解いてくれました。うまく力が入らない腰を叱咤しながら、彼の膝の上からずり降ります。
 そして我に返ってからずっと気になっていた、疑問を口にしました。

「ところで・・・なぜ服を着ていないのですか?」
『・・・作り忘れた。次は気を付ける』

 振り返ったそこにいたのは、いつものオオカミ犬の姿のオニキスでした。


しおりを挟む

処理中です...