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しおりを挟むプロローグ 忘れ去られた家の娘
秋盛りのアルディアン王国郊外。小さな森の奥へ続く小道は、鮮やかに色づいた広葉樹に飾られていた。
その美しい彩りを割いて走る黒い馬車がある。
「この古い書状が正確ならば、この家がそうか……停めろ」
馬車の座席で黙り込んでいたオルフェーゼは突然、声を上げて馬を停止させた。それは、小さな屋敷――というより、ただの古い家の前だ。
馬車の窓から見えた建物は想像以上に慎ましい佇まいで、オルフェーゼを驚かせる。
彼は髪をかき上げて自分の服装を見下ろした。
刺繍が施された濃い紫の上着をはおり、首には白絹を巻いている。地味な服装を選んだつもりだったが、こんな簡素な家を訪ねるのには、これでも場違いかもしれない。
――今さら、この家に何を期待されるのだか、あのお方は。
そう考えながら帽子を被り、辺りの様子を探りつつ馬車を降りた。御者には動かないように指示を出す。
馬車の音を聞いたからか、中年の女性と少女が二人、家から飛び出してきた。最後に年老いた女まで出てくる。皆、そろって驚いた顔をしていた。
顔立ちが似ているので、親子に違いない。全員、これといって何も特徴のない容貌だった。
――こんな平凡な者達が、あの一族だというのか? 今の当主は女だというが誰がそうなのだ。本当にこの中に俺の「婚約者」がいるのか?
オルフェーゼはしばし愕然としたが、努めて冷静な声で名乗った。
「……前触れない訪問を失礼する。私はオルフェーゼ・テオ・ディッキンソン。伯爵だ。こちらのご当主はどなたかな?」
目を丸くしている子ども達を驚かせないように、できるだけ穏やかに話した。
そこに突然何かが舞い下りる。
「……っ! なんだ!?」
彼は咄嗟に腰を落とし、上着の下に帯びている剣に手をかけた。
不自然なほど多くの木の葉が降ってくる。まるで金色の吹雪のようだ。
不意に木の葉の中心に人のような形が現れる。
「……どなたですか?」
落ち着いた声が、その人影から発せられた。どうやら女のようだ。
「お前……お前がそうなのか?」
「あなたはどなたですか?」
オルフェーゼのつぶやきに、影が再び問いかけた。
それは、男のような革の服を纏った、平凡な若い娘だ。だが、身に纏う雰囲気が明らかに普通と違う。
彼女は短刀を逆手に構え家族を背に守りながら、一分の隙なく自分を見つめていた。
***
時は数時間前に遡る。私――リースルは森の中にいた。
朝の森が好きだ。
ひんやりした空気と緑の匂い。一日の活動を始めようとする様々な生き物の気配が、そこら中で感じられる。
特にこの時期の森は豊かで、樹々は色づき、動物は冬に備えて毛皮を厚くする。
私は秋の森を動き回りながら、ささやかな喜びを味わっていた。
今ここで最も見栄えがしないのは、茶色い革の服に身を包んだ私だろう。
けれど革の服は粗末でも丈夫だ。すっかり柔らかくなったそれは体に馴染んでいて動きやすい。
「この辺りで兎でも獲ろう」
朝の獣は腹を空かせてよく動くため、労せずして見つけられる。鍛錬を兼ねた早朝の食料調達は、私の日課だった。
私は手近な木の枝によじ上り獲物を待つ。
ほどなく、丸々肥えた灰色の兎が姿を見せた。周囲を警戒しているが、頭上にまでは気が回らないようだ。
私は軽く腕を振って、小さな刃を投げた。兎がどっと倒れる。
「無駄なくいただくから許してね」
私は兎の耳を掴んで跳び、大きな枝の上でその喉を割いた。地面で血抜きをすると、野犬などの獣が集まってしまうのだ。血抜きを終えると、手早く油紙に包んで背中の袋に入れる。
肉は二日ほど置いてから食べるのがいい。残りは燻製にして冬の備蓄にするのはどうか。
あとは野生の果実や薬草を採集しながら帰ることにしよう。今朝はかなり遠くまで来てしまった。
そんなことを考えつつ、家路を急ぐ。
「何あれ?」
家の前の空き地に黒い馬車が停まっていた。
二頭立ての小さな箱馬車だ。御者は一人。
地味ではあるが立派なので、おそらく貴族のものだ。しかし、普通なら馬飾りや扉に印されているはずの紋章がない。
悪意や殺気は感じられないが、得体が知れないのは不気味だ。
――あ、誰か出てきた。
自ら扉を開けて降り立ったのは、濃い色の服を着た長身の男である。仕立てのいい上着、つば広の帽子。目立たないようにしているつもりなのかもしれないが、派手な容姿のせいで完全に失敗していた。
彼の優雅な所作から見て、間違いなく貴族だろう。命じることに慣れた尊大さも感じ取れた。
馬車の気配を察して、家族が飛び出す。
男が家族に向かって一歩踏み出したので、私は慌てて近くの枝を短剣で薙ぎ払った。葉を散らして即席の目くらましにしたのだ。そして、木の葉に紛れて男の前に立った。
男が驚いたように翠色の目を見開いている。
私は家族を背にして短剣を斜に構えた。
男もしっかり間合いを測り、いつでも攻撃に転じられるように腰を落としている。その動きを見ただけで相当な使い手であることがわかった。ただでさえ彼の持つ剣は長い。戦闘になれば男のほうが有利だ。短剣を囮に目を狙えば、勝てないことはないが、どうしよう。
そこまで考えた時、男が剣にかけていた手をゆっくりと下ろした。敵意がないということか。
彼は帽子のつばに指先をかけ、いかにも上等なそれを脱いだ。露わになった男の容貌に、私は人生で初めてと言っていいほど驚いた。
その男は見たこともないような美男子だったのだ。
――うわぁ……この人、生粋の貴族だ。纏う空気が私達とは全然違う。
後ろで軽く結わえられた豊かに波打つ髪は、周りの樹々よりも眩しい黄金色。そして髪と対比をなす翠の瞳。春の苔みたいに鮮やかなその翠の中に、金色が混じり、希少な宝石のようだ。不愉快そうに歪められている形のよい唇に加え、均整のとれた長身に似合う趣味のよい服装。
――なんて素敵……って、いやいやいや! 知らない男に見蕩れてどうする。彼が何者かすらわからないのに。
男は私をじっと見つめていた。私達は、しばらく黙りこくったまま互いの姿に見入る。
それが、私とオルフェーゼ様の出会いだった。
私の生国、アルディアン王国は豊かな国だ。
国土は広くはないものの、技術力が高く、特に繊維業と木工、金属加工に優れている。
立地もよく、各国の商人達が行き交っていた。
商都と言われる王都アルディアでは、王城を中心によく手入れされた建物が美しい街並みを作っている。
かつては隣国との戦争もあったが、それも今は昔。治安もよく、王家の跡目争いもない。
王国は平和を誇っていた。
……我が家以外は。
現在私が家長のヨルギア家は、アルディアン王室のエスピオンを務めている家だ。
エスピオンとは、諜報活動をする者のこと。
下っ端なので、尊い王族の方々から直々に命を受けるわけではない。王室の「懐刀」と呼ばれる一族に命じられ、暗躍していたと、父からは聞かされていた。
間諜として敵国に潜り込み、人や物の探索や情報操作、破壊活動などを請け負ってきたのだ。国内でも、王家に禍をなそうとする輩を密かに葬ったらしいが、今となっては見る影もない。
我が家が華やかに活動していたのは、曽祖父の代までだ。
曽祖父はエスピオンとしての功績が認められ、准男爵という一代限りの爵位と、王都郊外の森に小さな土地をもらった。その頃が我がヨルギア家、最後の栄光の時代だったらしい。
やがて、国内外の争いが収まり始めてしまう。祖父の時代にはまだ年に幾度か仕事をもらえたヨルギア家も、父の代になってからはほぼ御用を仰せつからなくなった。
それでも父は、命を捨てる覚悟で、王家とそれに準ずる方々を守らなくてはならないと、常々私に言って聞かせたのだ。
どんどん衰退していくヨルギア家の苦しい家計をしのぐために、父自身は身分を隠して民間の仕事を引き受けるようになっていた。
もっとも父は、この家の仕事がなくなることは平和の証であり、よいことだと思っていたらしい。特に不満を漏らすことなく、貧しいまま世を去った。
私は父に教えられた技術を、食卓に上る肉を獲ることに活かしている。気楽だし、暗殺なんて私には向いていないから、それで一向に構わない。
唯一残っている王家との繋がりは、年に一度のわずかな手当だけだ。王家からの御用命を賜る機会などあるはずもない。
そう。ヨルギア家は、国からも、主からも忘れ去られているのだ。
多分、私の代でエスピオンとしてのヨルギア家は終わる。わずかに残された家の誇りが心の片隅で疼かないでもないが、時代の流れに逆らう気はない。
そう思っていた――今日までは。
突然現れた男は、おもむろに口を開いた。
「――お前がヨルギアの後継なのか?」
どうやら私はしばらく言葉を失っていたらしい。長身の男は嫌そうに眉根を寄せた。
美男子はそんな表情も様になる。
「は?」
「同じことを二度言わせるな。お前がヨルギアの後継か?」
「は、はい。私は現ヨルギア家当主、リースル・ヨルギアです……と申します、閣下」
男の顔に見蕩れていた私は、間抜けな返事をしてしまった。
――ああ、めちゃくちゃ恥ずかしい!
「そうか、地味な女だな」
私は二の句が継げない。のっけから失礼な美男子だ。
彼は我が家に用があるらしい。
私は尊大なこの男を我が家の古ぼけた客間に通した。あまり気乗りはしなかったのだが、母に命じられたため仕方ない。御者は外で待つと言うので無理には勧めなかった。
案内した客間で男は物珍しそうに室内を眺めた。
部屋は窓が小さく、昼間でもあまり明るくない。そんな中でも、彼の金髪は見事に輝いている。上着についている金属の飾りもきらめいていた。全身金ぴか。
そう、この金ぴか男はまだ名乗りもしない内から、私の外見を評価したのだ。
――地味な女。
確かに私は地味だ。平均的な身長と体つき。髪と瞳の色はこの国で最も多い茶色。顔立ちはヨルギア家の遺伝で美人でも不美人でもない。おまけに、丈夫だけが取り柄の茶色の革の上着をはおり穿いているのは男物のトラウザーズ。ついでに長靴も同じ色だ。
対してその男は、煤けた居間に不釣り合いなほど輝いていた。
刺繍を施された紫の上着の裾は後ろで跳ね上がり、そこから長剣の先が覗いている。胸もとにさらりと巻いたレースつきの布は、私の持っている服をすべて売っても買えないくらい上等なものに違いない。見た目だけでなく所作も優雅で、要するに絵に描いたような貴公子だ。
しばらく周囲を見ていた男は、やがて私に視線を向けた。
「こんなのを婚約者にせねばならんとはな。まったく」
彼は心の底から嫌そうにため息をついた。
「は? コンヤクシャ?」
聞き慣れない言葉に、私はまたも間抜けに返してしまう。
「やれやれ、どうやら頭も弱いと見える。リースル・ヨルギア、私はディッキンソン。オルフェーゼ・テオ・ディッキンソン。伯爵だ。この家、いやお前に命を下すために王都から出向いた」
今までで一番長くしゃべったその声は、外見と同じように美しかった。心を滑らかに撫でるように低く、深い。
「おい、聞いてるのか?」
せっかく感じ入っていたというのに、ぞんざいな言葉が投げつけられる。
「あっ、はい。聞いております。命とおっしゃられましたか?」
「やっとまともな返事をしたな。そう、命、命令だ。いいか、謹んで受けよ、リースル・ヨルギア」
「は!」
突然威厳を増した男の声と態度に応え、私は父から教えられた通りに片膝をついた。
我が家に命を下すことができるのは、王家と、それに忠誠を尽くす「懐刀」の二つ名を持つ家――ディッキンソン家のみ。つまりこれは、十数年振りにヨルギア家が賜る主命だった。
私は緊張しながら首を垂れ、次の言葉を待つ。
「リースル・ヨルギア。お前は私の婚約者となって社交界に潜入し、不徳の輩、内大臣、デ・シャロンジュ公爵の不正の証拠を掴め」
あまりにも予想外の内容に驚いて倒れそうになるのを、私は必死で堪えた。
1 伯爵とエスピオンの娘
『私の婚約者となって社交界に潜入し、不徳の輩、内大臣、デ・シャロンジュ公爵の不正の証拠を掴め』
何十年振りかで我がヨルギア家にもたらされた命令は、耳を疑うものだった。
――すっかり庶民のこの私に、見るからに貴族のこの人の婚約者になれって言ったの?
跪いたまま固まっていると、ディッキンソン伯爵は私を猫のように摘み上げ、我が家の古ぼけた長椅子の上にぽいっと放り投げた。
難なく受け身を取って椅子に収まった私の前に、彼はどっかりと腰を下ろす。その重みで、ばねの弱くなっている椅子がめきめきと悲鳴を上げた。
「一応の体術は身についているようだな。それに、突然訪問した私にお前の母御と婆様はあまり驚いていない。さすがヨルギア家と申し上げておこう」
扉の近くに立っている母と祖母を見ると、緊張してはいるものの、彼の言葉通り困惑した様子はなかった。自分の夫を任務に送り出したことがある彼女達は、静かに伯爵の言葉を待っていた。
「よく聞け。我がディッキンソン伯爵家は、古くからアルディアン王室の忠実な僕である。古くは『王家の懐刀』という二つ名で呼ばれたこともあったものだが、今では知らぬ者のほうが多い。それでも国や王室のために、密かに働いている。一応」
「……ご立派なことでございます」
――一応? 一応ってどういう意味だ?
もっとも私は、ディッキンソン伯爵家の名前をよく知っていた。
戦乱の時代に王室と我が家を繋ぐ役割を果たしていた家で、曽祖父はその当主と轡を並べて戦ったことがあるらしい。
――それなのになんで一応? 確かに、懐に忍ばせておくには少し派手すぎる刀だけれど。
私は向かいに座った男の次の言葉を待った。
「王国も王室も、ここ数十年は天下泰平だ。それはお前も承知していると思うが、実は最近、少々不穏な動きをする者が出始めたのだ」
「不穏な動き……それがさっきおっしゃっていた、デ・シャロンジュ公爵という方ですか?」
「存外物覚えがいいではないか。そうだ」
デ・シャロンジュ公爵とは、王家のご親戚でもある大貴族だ。この数年は内大臣を務めている。最近の王宮事情に疎い私でも名前くらいは知っていた。
「その方が不正を働いている、と?」
「まぁ簡単に言うとそうなる」
「名誉ある公爵家であらせられますのに?」
「家柄は関係ない。爵位とは確かに、名誉な行いに対して与えられるものだが、公爵家はそうではない。デ・シャロンジュ公爵家は王家の親戚というだけの家名だ」
「差し出たことを申しました。それでは、婚約とはどういう意味でしょうか?」
はっきり言って、そこが一番気になっている。
あまりに直球な質問に一瞬怯んだようだが、すぐに気を取り直したディッキンソン伯爵は嫌々という態度丸出しで語り始めた。
「……これはまだ確証を掴んではいないことだが、デ・シャロンジュは内大臣という立場を利用して三年前から不正を働いているようだ。商業組合に便宜を図る代わりに賄賂を要求したり、御用達品の入札時に談合をしたりしている。それだけではない。王家に献上された様々な分野の最新技術を秘密裏に外国へ売ろうとしているという。聞いたことはあるか?」
「恥ずかしながらございません。ですが、お伺いした限りですと……つまり、デ・シャロンジュ公爵は汚職をなさっているという理解でよろしいでしょうか?」
「そう考えて構わない」
「では、どうかお話の続きを」
なんだかディッキンソン伯爵は苦手だが、とりあえず話を全部聞かないことには始まらなかった。それに彼の話自体は、要領よく纏められていてわかりやすい。
「私はある人物に公爵を調べるように言われている。奴はとても用心深くてなかなか尻尾を出さない。それで思い切って正面から探ることにしたのだ。私ほどの有名人が婚約をすれば社交界では大騒ぎになり、夜会や茶会に引っ張りだこになる。つまり、デ・シャロンジュと顔を合わせ、話をする機会が必然的に増えるということだ。うまくすれば屋敷に招かれて内部を調べられる。お前の出番だ」
「なるほど」
「屋敷に潜入することもあるかもしれない。長年王家から援助を受けていながら、まさか本来の生業を忘れたとは言わせん。できるな?」
――強引だな、この人。
「……それでどうして私が閣下と婚約をするのですか?」
「嫌なことだが仕方がない。派手好きで抜け目のない公爵は、この手の話が大好物だ。奴からこちらに近づいてこさせるには、これが一番の手と思われる」
「どうして婚約者が私でなくてはならないのですか?」
「他に誰がいる?」
「何も私が婚約者にならなくても……と思うのです。閣下はご身分の釣り合うご令嬢と婚約し、私はその方の侍女になりすます、ではいけませんか?」
エスピオンは目立つことを避けるものだ。それに、どうも私はこの貴公子とうまくやれる自信がない。
「お前わかってないな。私が本当のご令嬢と婚約するわけがないじゃないか」
ディッキンソン伯爵に憎たらしいほど綺麗な微笑を向けられ苛立つが、顔には出さない。
「どうして、でしょうか?」
「私を慕ってくれているご令嬢と婚約破棄するのは忍びないからな」
「そのままご結婚してしまえばよろしいのでは?」
「そんなことをする気になれない。縛られるのは家だけで十分だ」
なるほど、まだ遊び足りないということらしい。彼は自分の魅力を十分承知していて、それを楽しんでいるようだ。
「エスピオンは陰の役割。表に出るのは、少し荷が重いと正直感じます。私自身、伯爵家の婚約者なんて畏れ多くて」
「お前の気持ちなど関係ないし、興味もない。これは命令なのだ。お前も、お前の家にも断る権利はない」
「……おっしゃる通りでした。ご下命、感謝いたします」
「わかればいい」
おとなしく引き下がった私に、ディッキンソン伯爵は答えた。
上背があるせいで、座っているのに常に見下ろされる形になるのが癪だ。それに、こんな男が我が家に命令を下す立場にあることにも腹が立つ。
わかっている。どんなに嫌な相手であろうと、主は主、王家から遣わされた貴人なのだ。
彼の来訪が意味するのは我が家が忘れられていたわけではなかったということ。そして今、任務が下された。
感謝こそすれど、不平不満を言える立場ではない。それに少なくとも、報酬を得られれば、家族に今より楽をさせることができる。
「婚約といっても、デ・シャロンジュの悪事の証拠を掴むまでのことだ。仕事が終わったら円満に解消してやるから心配するな。後払いになるが、報酬もたっぷりはずむ。悪い話ではないはずだ。家族が大事だろう? もとよりお前に選択権などないがな」
「……それは脅しでしょうか?」
悔しくなって、私はほんのわずかに反抗してみた。
確かに彼にとって私など単なる道具にすぎないだろう。それでも少しは言い返したかったのだ。けれど、ディッキンソン伯爵は私の放った小さな嫌味の矢を平然と受け止めた。
「いや、ただの説明だ。何度も言っているが、これは命令なのだ。私にしてもお前のような、ぱっとしない女を婚約者に据えるなど、大いに不名誉で不本意である。しかし、主家のためには多少のことなら目を瞑らなくてはならん。それが貴族に生まれた者の務めであるのでな。うん」
そう言って伯爵はきらきらしい、けれど禍々しい一瞥を私に向けた。
「さぞ社交界は大騒ぎになるだろう」
「大騒ぎはエスピオンの本意ではないのですが」
私は社交界の大騒ぎとやらを想像し、げんなりした。伯爵家の婚約者、……一体どんな任務になるというのか? 面倒なことになるのは絶対に間違いない。
「まぁ、そのちんけな様子では、しばらく我が家で教育を受けてもらわなければ。私は恥をかく気はないからな」
「しばらくって、閣下はこの仕事にどのくらいの期間を見ておいでですか?」
この家の稼ぎ頭は私だ。報酬が後払いになるなら、あまり長い時間をかけるのは憚られた。
「そうだな、ざっと半年というところか?」
「半年!」
「貴族の婚約期間は最短それくらいなのでな。手始めにお前の教育をし、諸々の段取りをつけたのち、証拠を掴む」
「……今は秋ですから春を過ぎるということでしょうか?」
「春の社交期が終わった頃結婚する貴族は多いので、そうなるな。ああ、その間、こちらの家族が不自由しないように取り計らっておく。再度言うが、この家にとって悪い話ではないはずだ」
「……感謝いたします」
確かに悪い話ではない。それに裕福な平民が増え貴族達が身近になったとはいえ、王家は別格、ディッキンソン伯爵はその別格に遣わされた人間だ。断ることなどできるはずもない。
応援ありがとうございます!
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