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1巻

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 そのかん、数秒ほどだっただろうか。

「君は……」

 あらまあ。寡黙かもくを通り越してほぼ無言なヴォルク様から、珍しい音が飛び出しました。
 普段は定型文の挨拶あいさつがほとんどなのに。今日はどうやら違うらしい。いつもとちょっと異なる状況に、思わず、ん? と首を傾げる。

「はい?」

 もしかして、この『頬っぺたぺたり』の意味を教えてくれる気になったのだろうか。それだったらありがたい。いつも反応に困っていたし。
 そう思って続く言葉を待っていたのに、頬に添えられた手がすっと離れるのと同時に、予想と違う声が降ってきた。

「……いや、なんでもない」

 それだけポツリと呟くと、ヴォルク様はじっと私を見つめてからふいと視線をらす。
 って、またか。
 初対面の時と同じく、目を合わせてきたかと思えばものの数秒でプイされる。これも結婚してから三か月、時々見られるヴォルク様の習性だった。
 ほんとに一体なんなんだ。
 そんな文句めいた感想を抱いていたら、屋敷の玄関口からだかだかと、大きな足音が響いてきた。
 ……あ、今日もおでなすったねー。
 つい先ほどの旦那様の態度は横に置き、私は得意の貼り付け笑顔で来訪者へと声をかけた。

「おはようございます。ハージェス様」
「おはようございますレオノーラ殿! ついでにヴォルクも!」

 明るい声で返事をしてくれた男性は、ヴォルク様と同じくあおの騎士隊服を身にまとっている。彼は少々大袈裟おおげさにぶんぶん片手を振って、満面の笑みで私達の傍までやって来た。
 燃えるような赤い髪と、げ茶色の瞳が印象的な、ヴォルク様の同僚ハージェス=トレント様である。
 騎士学校時代からの友人だとかで、私が知る中では唯一ヴォルク様と仲のいい騎士様だ。ちなみに、ヴォルク様が所属するあおの士隊で副隊長を務められている。友人にして部下ってやつらしい。
 オールバック銀髪のヴォルク様とは違い、ハージェス様はふわふわ系の赤髪さわやか青年で、騎士様というよりは鍛冶屋かじやの兄ちゃんといった風体ふうていだ。そして、こちらも細マッチョ系。
 おかしいな。騎士様ってマッチョ率が高いはずじゃなかったのか。それとも私の偏見か。
 そうじゃないと思いたい。どっちも美形だから眼福がんぷくではあるんだけども。

「……どうして俺がついでなんだ」

 ハージェス様の余分な一言に、ヴォルク様が不機嫌そうな声をらす。
 友人の前では、ヴォルク様の表情も少しは理解出来るのにな。
 無表情が基本のヴォルク様は、ごくまれに、先ほどのようにたわむれに私に触れる時にだけ感情らしいものを見せてくれる。
 騎士様は表情筋まできたえているのかと最初は思ったもんだけど、ハージェス様を見る限りはそんなことはなさそうだ。
 いいなあハージェス様。友人ポジションうらやましいわ。

うるわしいご婦人を優先するのは、騎士としての礼儀だろう?」
「それはお前だけだ」

 ハージェス様の軽口に、ヴォルク様がブリザード全開で返していた。
 的確な突っ込み素晴らしいです、ヴォルク様。
 出来るなら、私ともこのくらい打ち解けてほしいものだけど。
 ないものねだりとわかっていても、やはり身近な人に必要とされないのはちと辛い。

「ハージェス様。今日もお迎えいただきありがとうございます」

 終始テンションの低いヴォルク様と、朝から笑顔全開のハージェス様。対照的な二人を眺めつつ、今日もいつもと同じ礼の言葉を口にする。ほぼ定型文みたいになっているけど、自分の夫を迎えに来てくれている人へ何も言わないのもいただけない。

「いやあ、これも俺の仕事ですからね。腐れ縁の上司を迎えに来るのは面倒ですが、レオノーラ殿のお美しいお姿を拝見出来るのなら、むしろ役得というものですよ」

 私の礼に、ハージェス様がお世辞とウインクを交えて返してくれる。一見するとさわやかな騎士様なのに、ギャップがある。それがハージェス様だ。
 うん。やっぱりチャラいですねハージェス様。言動の端々はしばしにチャラさが垣間見かいまみえています。
 この口調と容姿のせいで、どうしても軽薄に見られてしまうのが悩みなのだと以前聞いた覚えがあるが、たぶん理由はそれだけではないだろう。

「しっかしなあー……ヴォルクが結婚したなんていまだに信じられないんですよ、俺は。コイツ愛想ないでしょう? 一体どうやって貴女あなた口説くどいたんだか」

 ハージェス様がそう言いながら、うりゃうりゃとヴォルク様の横腹を突っついた。
 うわあ、大人の男性がじゃれ付く姿って見ててなんかいいですね。ヴォルク様は迷惑そうに眉間にしわを寄せただけだけど。って、それにしてもハージェス様、誤解です。一度も口説くどかれたりとかしてないですし。
 まあ、信じられないのも無理はないですが。
 私なんてヴォルク様の周囲からすれば、急に湧いて出てきたようなもんでしょう。それで結婚なんて、よっぽどの大恋愛と思っても不思議はない。
 たとえ政略でも、本来なら何か月も前から婚約するもんですからねー。

「俺でさえ、コイツが貴女あなたのような女神と婚約してたなんて、式を挙げるまで全く知りませんでしたからね。結構な付き合いだっていうのに、つれないもんです」
「……」

 やれやれ、と首をすくめてみせるハージェス様に、ヴォルク様は無言ながらするどい眼光でこたえていた。
 美形がにらむのは結構恐いので、控えてほしいなと固まりつつ思う。無駄に被弾するこっちの身にもなってほしい。

「……ま、コイツが隠したくなる気持ちもわかりますけどね。何しろレオノーラ=ローゼル嬢といえば、社交界では『まぼろし淑女レディ』と称されていたほどでしたから」
「……え?」

 ハージェス様の言葉に、思わずぽかんとほうけてしまった。あ、まずい今のだった。
 慌てて笑顔の仮面をかぶり直し、初めて聞く話を伺いたくて視線を投げる。
 するとハージェス様は綺麗な赤い髪を揺らして得意気に、ニヤリと笑った。

「ああ、ご存知ぞんじなかったんですか? レオノーラ殿は一時をさかいにあまり夜会にはお見えにならなくなったので、皆その美しさを披露ひろうされないのは勿体もったいないと口にしていたんですよ。そうしたら突然このヴォルクが婚約にこぎつけたものだから、それはそれは驚いたものです」
「そう、なんですか……」

 初耳だった。
 夜会に出なくなったのは実家の事情があったせいだったけれど、まさか自分がそんなレア物扱いされていたなどとは、正直つゆほども思っていなかった。
 へー……私ってそんな風に言われてたんだ。初めて聞いた。まぼろし淑女レディって……
 いやいや、私存在してるし生きてるし。んな大層なもんじゃないですし。
 ああそういえば、三年前のセデル子爵の夜会が独身時代最後に出たものだったかも。
 あの後すぐに、お父様の名代みょうだいとしての務めが忙しくなって、夜会に出るのはやめたから。
 しっかし「その美しさを披露ひろうされないのは勿体もったいない」って、毎度のことではあるけれど、ハージェス様は女性への美辞麗句が本当にすらすら湧いて出てくる人だ。私にさえ毎回こうやって言ってくれるんだから。
 社交辞令なのはわかっているけど、それでもやはり、言われると嬉しいものは嬉しい。
 気の利いた言葉は返せませんが、とりあえず笑顔を向けさせていただきますね、ありがとう。と、感謝の気持ちでハージェス様へ微笑みかけた。すると――
 がっしゃんっ! と、派手な音が辺りに木霊こだました。
 ……なんだ今の音。
 って、あれま。
 どうしたことでしょう。ヴォルク様がこちらをじっと見つめています。視線が何やら痛いです。刺さってます。刺さってますよヴォルク様。なんですか。
 しかし、それよりも気になるのは、普段ならその腰元のベルトにあるはずの剣が、今は絨毯じゅうたんに落ちていることです。って、さっき貴方あなたそれ自分で着けてませんでしたか。なぜに外れているんでしょう。
 よく見れば、それは腰のとは違う小剣――騎士服の上衣内に仕込んでいる、作業用の細剣だった。
 いずれにせよ剣って、騎士様にとっては命とも言える存在だったような気がするのですが。
 ……はて。
 命、落としましたよ旦那様。大丈夫ですか。
 私だったら縁起悪えんぎわるぅとか思ってしまうところなんですが。
 それにしても珍しい光景だな、と思っていると、私よりも先にハージェス様が口を開く。

「何やってるんだヴォルク。……ってお前どうしてそんなに俺をにらむんだよ。朝っぱらから機嫌悪いな。せっかくの新妻にいづまの見送りなのに。独身の俺からすれば爆発しろとしか言えんぞこの野郎」
「……阿呆あほなお前には関係ない」
「ひっでえ」

 最早もはや取り付く島もないヴォルク様に、ハージェス様が赤い髪をだらんと下げて項垂うなだれた。
 あらあら。いくら腐れ縁の同期と言えど、ちょっと扱いが酷くないですかヴォルク様。
 なんだかハージェス様が可哀想な気がします。

「……はあ。今日もお前と一日一緒とか、なんだもう。出来れば綺麗なご令嬢の護衛とかにしてほしかったよ。っと、あー……ごほんっ。お名残なごり惜しいですがレオノーラ殿、そろそろ出勤の時間なので、これにて失礼させていただきますね」

 なんだかぼろぼろと本音がダダれていましたが、ハージェス様色々と大丈夫ですか。
 騎士様なのに口が軽いとは残念な。貴方あなたの今後が心配です。頑張れ独身、きっと未来は明るいぞ。

「お二人共、お仕事頑張って下さいね。いってらっしゃいませ」

 色々思うところはあるものの、微塵みじんも口に出さずに決まり文句を告げた。
 我ながら無難な対応だと思う。
 すると、ありがとうございます、と笑顔で返事をしてくれたハージェス様が、ついと私の右手を取ってその口元へと近付けた。
 おお。騎士様の挨拶あいさつというヤツですね。
 式の時にヴォルク様に一度やってもらったけど、他の人からされるのは初めてだなあ。でもこれはこれで悪くないなあ、なんてひたっていたら……
 すっぱーーんっ! 
 なんだかとても軽快な衝撃音が、目の前で弾けた。

ってえっ!」

 私の手を取っていたハージェス様の手が、横から伸びたあおい騎士隊服の腕にものすごい速さで叩き落とされていた。もちろん悲鳴を上げたのは、叩き落とされた当人のハージェス様である。
 うん。今ものすごい速度と強さで、ヴォルク様が手刀しゅとうを繰り出しましたね。
 あれは痛そうだ。
 ……けど、なんで? 

「ヴォルクお前っ! 何するんだ急にっ!」
「やかましい。無駄口を叩く暇があるなら仕事しろハージェス」
「いや、ちょっと待て。お前俺が毎朝何しに来てると思って……って、なんで置いて行くんだよ!? 俺お前のこと迎えに来たんだけど!?」

 やっぱり痛かったのか、涙目で抗議しているハージェス様。しかしそんな彼を一瞥いちべつしたヴォルク様は、すっと背を向け玄関扉へと歩いて行った。えええ、どうフォローすればいいの、この状況。
 突然起こった事態に呆気に取られていると、「てて……っ」と片手を振りふり、ふーふー息を吹きかけているハージェス様が目に入った。あらやだ可愛い。
 と、ついつい状況を忘れて思っていたら、とある方向から冷気が発せられているのに気が付いた。
 あれ、どうしてそんなに吹雪ふぶいてるんでしょうかヴォルク様。って、なぜに立ち止まってこちらを振り返ってらっしゃるんですか。顔は恐いし視線が痛いし。
 なんだか妙な圧を感じて、ハージェス様を放置で彼の出方をうかがう。すると、あおい瞳をじっとこちらに向けたまま、ヴォルク様が口を開いた。

「……いってくる」
「い、いってらっしゃいませ……?」

 その言葉を合図に、いつの間にか復活していたハージェス様が、ヴォルク様の隣まで移動し、私に向かって頭を下げた。それに対して私も軽く礼をする。
 銀色の髪をした騎士と、赤い髪をした騎士が同時に背中を向けて、何やら小さな攻防を繰り返しつつ遠ざかるのを見ながら、私は頭に浮かんだ疑問符を顔に出さないよう努力した。
 ……なんだったんだ。今のは。


 さて、ヴォルク様のお見送りも終わったし、今日のやることをさっさとやってしまうかな。
 そう考えていたら、コツリコツリと静かな、それでいて優雅な足音が私のもとへ近付いた。

「奥様、本日は如何いかがなさいますか」

 夜のしじまがごとく、んだ声音で問いかけられる。が、その顔には館の主人と同じく表情らしきものがまるでない。ヴォルク様とハージェス様が出ていかれるまでの間、ずっとホールのすみで控えていた彼女は、レグナガルド家メイド頭、エレニー=フォルクロス。
 私付きのメイドであり、この屋敷の全てのメイドをたばねる立場にある女性である。
 執事のロータスという男性が使用人の総責任者なのだが、彼女はその次点の地位にあり、私が屋敷に来てからは何かとお世話になっている人でもある。
 紫紺しこんの髪を綺麗にまとめ上げた、すらりとした長身のキツめ美人で、童顔の私としてはうらやましくなるほどの妖艶ようえんさがあった。聞いたことはないけれど、年齢は二十代後半か三十前半といったところだろうか。
 その色気はどうやったら身につくんですかと問いたいものの、今の私と彼女の関係ではそんなこと聞けるはずもなく。それに色気を付けたところでヴォルク様が手を出してくるわけもなし、聞くだけ無駄だろうなとも思う。

「今日は弟への手紙の返事を書いて……そうね、読書でもしようかしら」

 茶会の予定も入っていないし、結婚して三か月も経った今は、婚家であるレグナガルド家についての学びも既に終了している。
 となれば、貴族の奥方と言っても、付き合いがなければ暇なのが公然の事実というもので。
 少し前に届いた弟オルファからの手紙へ返事を書いてやるのは、用事のうちに入らないし。
 普通の貴族令嬢ならば、刺繍ししゅうしたり、本を読んだりするんだろうけど、正直性に合わない。それでも一応読書すると言ったのは、たとえ部屋でだらだら過ごすにしても、読書だと告げていればしばらく放置しておいてくれるからでもあった。
 これが実家なら、馬で駆けたりオルファの剣の練習に付き合ったり、色々やりたいことはあるけれど。
 あー……馬に乗りたい。愛馬のアルスちゃんにまたがって、オルファと一緒に実家近くの丘まで駆け上がりたい。
 果たしてあのは元気にしているかしら……
 将来は神の家に、なんて思っていたのは、元々動き回るのが好きだからという理由もあった。
 神の家は孤児院も併設されているところが多いから、入っていれば子供の相手などで毎日が慌ただしく過ぎていたことだろう。
 つい先日まで実家の雑事に追われていたので、この静かすぎる毎日は、私にとっては退屈で、持て余している状況だった。
 そう感慨にふけっていると、すぐ傍からほんの小さな溜息が聞こえた気がして、はっと我に返る。

「かしこまりました。それでは、お部屋に紙とインクを用意しておきます……何かございましたら、何なりとお申し付け下さいませ」

 美麗なメイドは、そう言ってうやうやしく頭を下げた。
 あれ……今、溜息が聞こえた気がしたけど、気のせい? 
 彼女のつややかな紫紺しこんの髪を見つめつつ、考えたけれど、やはり彼女ではなさそうだ。
 たぶん私の気のせいだろう。

「あ、ええ。わかったわ。ありがとう」

 浮かんだ疑問を掻き消しながら応答すると、彼女は静かにきびすを返した。
「何なりとお申し付け下さい」のところに妙に気合が入ってた気がしたけれど、それも気のせいかな。
 まあ、エレニーも旦那様と同じく感情を表に出さないタイプなので、多分違うだろうな、と一人納得した。
 彼女と別れてから、私は自室に戻る前に中庭へ足を向ける。オルファへの手紙に添える花を見繕みつくろいに行くのだ。
 さて、今日は何の花にしようかな。オルファは白い薔薇ばらが好きだから、丁度いいのがあればいいんだけど。
 実家なら走り出すところを、優雅に見えるよう気を付け、屋敷の長い通路を歩き外に出る。
 時折すれ違う使用人に声をかけつつ、目的の場所へ辿り着いた私は、そこにいた目当ての人物に声をかけた。

「おはようアルフォンス。花を一輪いただいてもいいかしら」
「これはレオノーラ様、おはようございます。今日は白薔薇ばらの咲きがよろしいので、そちらをお取りしましょう」
「ありがとう」

 庭にしゃがんでいた男性が、ゆっくり立ち上がり私に向かって会釈えしゃくした。格子柄こうしがらのシャツに上下のつながった薄茶の作業着を着ていて、口周りをおおう白いひげは、さながらどこかの牧場主みたいに見える。
 あー。アルフォンスに会うといやされるわぁ。
 庭師のアルフォンスは、ふんわりと空気をやわらげてくれるような雰囲気がある。
 そういえば、王都で流行はやってた鶏の揚物あげものを売る店の看板の絵の人に似てるわね。
 まあ、持っているのは鶏肉じゃなく、剪定鋏せんていばさみとバケツだけど。
 そんなことを思いながら、光に照らされた美しい庭園をぐるりと見回す。

「……ここのお庭は、いつも美しくていやされるわね。貴方あなたの腕と努力のおかげだわ。ありがとう」
「いえいえ。めっそうもございません」

 朝摘みの白い薔薇ばらを一輪受け取り、柔和な笑顔の庭師をねぎらう。
 ただ綺麗なだけの庭だったならば、腕はよくてもつまらないと感じていただろう。
 けれどここは違う。子供が喜びそうな動物の形をした寄せ植えや、色とりどりの花で作られた花時計があったり、東屋あずまやの前にはアーチが作られていたりと、遊び心があって微笑ましい。
 こういったことが出来る人は、本当にすごいと思う。技術だけではなく、センスがあるのだ。私は自分の性格が大雑把おおざっぱなのを自覚しているので、こういった細やかなことが出来る人を尊敬している。
 すると、アルフォンスが問いかけてきた。

「ですがこちらのお庭も、奥の方はまだまだ改良の余地があります。……奥様は、何かご要望などございませんか?」
「私?」
「はい。……広さがありますので、あちら一面を芝生しばふにするなども出来ますが」
「……へ?」

 予想していなかった質問に、思わず頓狂とんきょうな声を出してしまった。
 ん? なぜにここで芝生しばふ? 
 そりゃ、実家にいた時みたいに、庭の芝生しばふで走り回ったり剣の稽古けいこをしたり……出来たらいいなとは思ってたけど。
 でも貴族の奥方が、んなことやっていいわけないし。
 それに確か、レグナガルド家の屋敷の庭にあまりきスペースがないのは、ヴォルク様のお母様である亡きレグナガルド夫人のためだったと聞いている。花や草木をでるのが好きな方で、なるべく多くの種類のものを育てたかったのだとか。
 私には特にこだわりはないので、母の記憶がないというヴォルク様のためにも、ここには口出しをしないつもりでいた。
 それにしてもアルフォンスからこうやって、面と向かって意見を求められることなど初めてだ。「ご要望がありましたらなんなりと」みたいな声かけは以前にもしてもらった覚えがあるけれど、こうやって直接聞かれるというのは……うん、思い返してみてもやっぱりなかったな。
 それでも聞かれたのだから何か提案した方がいいのかなと、一応思案する。が、アルフォンスのセンスに任せていて十分という気持ちもあるし、芝生しばふの広場があったら素敵だけど、実際私が使えるかと言えばそうじゃないと思うので、いいかという結論に至った。

「広場ね……確かに素敵だけど、子供がいたりするならともかく、そうではないから今は貴方あなたに任せることにするわ」

 もしかして、将来子供が出来た時のために言ってくれているのかもしれない。でもなぁ、子供が出来る以前の問題だから、気を使ってもらっちゃあ、むしろ申し訳ないんですが。そんなことを彼に言えるわけもなく。

「左様でございますか……かしこまりました。しかし、もしお望みの際はどうぞお申し付け下さい。その時は腕によりをかけさせていただきます」

 いやアルフォンス、どうしてそんなに芝生しばふこだわる。もしかして広い芝生しばふが好きなのかな……。それなら作っていいよって言えばよかったかもしれない。ちょっとだけ罪悪感が湧いた。
 なんだか微妙な感じになってしまったアルフォンスとの会話を終えた後、私は受け取った白薔薇ばらを手に、屋敷の南側にある調理場へと向かう。
 レグナガルド家には料理人が一人と、その助手が二人の、合計三人の調理場担当がいる。
 突き当たりにある調理場への入り口をくぐると、そこでは料理長のコラッドと、その助手であるデュバルとロットが歓談していた。
 三人とも男性で、料理長コラッドはこの屋敷では庭師のアルフォンスに次ぐ年配者。デュバルとロットは共に二十代の若者で、助手兼料理人見習いといったところだ。

「おはようコラッド。デュバルとロットも」
「おはようございますレオノーラ様! 本日の朝食は如何いかがでしたでしょうか」

 彼らの会話の頃合いを見て声をかけると、三人が振り向き笑顔で返してくれた。そして白いコックコートに身を包んだ料理長のコラッドが、感想を問いかけてくる。垂れ目がちの優し気な目は、深い笑いじわに囲まれていた。
 うん。私が話したかったのはそれなんですよ。

「とても美味おいしかったわ。特に鴨肉かもにくにトマーテのソースがかかってるものなんて絶品で」

 私がレグナガルドの屋敷に来て驚いたことの一つには、ここの料理がとんでもなく美味おいしかったことがある。実家の料理人がどうこうというわけではなく、コラッドの腕が規格外なのだ。
 今朝の朝食に出ていた鴨肉かもにくなんか、ほろほろに煮込まれた柔らかいお肉に、トマーテという酸味と甘みを持つ赤い野菜のソースが絶妙なうまさをかもし出していた。毎日の食事が楽しみというのは、かなりありがたいものがある。食は命そのものだ。私が毎日元気で過ごせるのは、彼らのおかげに他ならない。

「それはようございました。昼食にはセメディたいのバタームニエルを予定しておりますので、どうぞご期待下さい」
「ええ。楽しみにしているわね」

 にこにこと笑いながら次のメニューを教えてくれるコラッドの後ろで、デュバルとロットが「今日のは朝イチで俺らが市場で選んできたんすよ!」と得意気に語ってくれた。最近食材の目利きを任されたらしい彼らは、自分達の実力を認めてもらえたことが殊更ことさら嬉しいみたいだ。微笑ましさに、自然と笑顔がこぼれる。
 よし、お昼はお魚だ、と嬉しい情報を入手して、私は三人に声をかけ自室へときびすを返した。
 実家は伯爵家だから、屋敷は男爵家であるレグナガルド邸より大きめだったけれど、空気はこちらの方が明るい気がする。恐らくここにいる人々に明るい人が多いからだろう。感情の読みにくいヴォルク様とエレニーは別としても、他の使用人の人達は総じてほがらかだ。
 少し歩くと、自分にあてがわれた部屋の前へ辿り着く。室内からは物音がしていた。
 扉を開けると、落ち着いた配色で統一された部屋の中、作業をしていた若いメイドが目に入る。普段はエレニーが私専属のメイドとして世話をしてくれているけれど、時折こうやって、他のメイドが部屋の掃除やベッドメイクなんかをしてくれることもあった。
 エレニーは屋敷の副責任者みたいなものだから、何かと忙しいのだろう。世話を焼いてもらっている身で文句を言うつもりもないので、そこは好きにしてもらっていた。

「おはようセリア。いつもありがとう」

 お掃除をしてくれている若いメイドに声をかけると、愛嬌あいきょうのある小さな顔が振り向き、ほころんだ。
 うわー。セリアったら可愛い。ほんとに可愛い。これで十五歳とか、お姉さん色々心配になっちゃうよ。
 セリアは私と同じく、このレグナガルドの屋敷では新参者だ。三か月前に嫁入りしてきた私と、二か月前に入った彼女。新入り同士仲良くしましょうねと伝えたら、真っ赤な顔をして頷いてくれたのが記憶に新しい。今時珍しいくらいれていない貴重な子である。

「おっ、おはようございますレオノーラ様っ。すぐにお部屋を整えますのでっ」
「ああ、いいのよ大丈夫。弟のオルファに手紙を書くだけだから、気にしないで続けてね」
「は、はいっ!」

 やや緊張した面持おももちで、セリアが返事をしてくれる。私が屋敷の奥方というのと、まだ慣れていないのとで、こうやって少しあがってしまうらしい。
 それがまた可愛らしいので、セリアはアルフォンス同様、いやしキャラとして私の中で確立されている。
 セリアの作業を邪魔しないよう窓際のテーブルへ向かうと、そこには薄い蒼の装飾がほどこされた便箋びんせんと、インクと羽ペンが用意されていた。
 エレニーが、私が来る前に用意しておいてくれたのだろう。相変わらず仕事が早いなあと感心する。
 彼女は、まさしくそつがない出来るメイドって感じだものね。
 キツ目の顔立ちをした美麗なメイドを思い浮かべる。彼女はなんというか、この屋敷では色々な意味で目立っていた。
 まずヴォルク様と同じくらい表情が読めないし、ほとんど感情を表に出すことがない。正直、最初はその機械的な調子にやりにくさを感じたが、あれが本人のスタンスだと悟ってからはそれほど気にならなくなった。
 でも、たまーに何かを言いたそうにしているのは気になっているけど。
 そんなことを考えつつも、私はバルコニーに通じる窓際で明るい光を照明に、弟への手紙を書き始める。


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