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「いやあ、ご隠居。相変わらず素晴らしい眺めですね」
タワーマンションの四十五階。
夫婦でご隠居の部屋を訪れた夫の修平(50)は、リビングのガラス越しに広がる大都会の街並みを感嘆の溜息とともに見下ろした。
修平夫婦も同じタワマンの三十階を買ったばかりで、どこか誇らしげでもあった。
「どうです? 高額なローンを組んでまで手に入れた価値があったでしょう。まるで天下でも取ったような気分になれますよ」
そう熱っぽく語る妻の美智子(52)に対し、ご隠居は淹れたてのお茶を差し出しながら、くすくすと穏やかに笑った。
「修平さん、美智子さん。天下を取るなんて大層なことを言いますがね、古くからこんな言葉があるでしょう。『起きて半畳、寝て一畳。天下取っても二合半』ってね」
ご隠居は手元のお茶を一口すすると、広々としたリビングを見渡した。
「どんなに広い大豪邸を買ったところで、人が起きて座るのに必要なのは半畳、横になって寝るのに必要なのはせいぜい一畳です。どれほど大金持ちになって贅沢を極めたって、胃袋に入る米の量は一日にせいぜい二合半。それ以上食えばお腹を壊すだけだ」
修平と美智子は顔を見合わせた。修平は苦笑いを浮かべる。
「たしかに……。この広いリビングも、結局夫婦ふたりでソファの決まった位置にちょこんと座っているだけですね」
「でしょう? 部屋がどれほど広くても、人間が占める面積なんて昔から変わらんのですよ」
ご隠居はベランダの方へ目をやり、穏やかな声で続けた。
「何より、このタワマンという場所はどうですかね。エレベーターで一歩外に出れば、顔を合わせる住人同士で釈然としない挨拶を交わし、上下左右の足音や物音にちょっと気を遣いながら身を縮めて暮らしている。それに、困ったことがあっても隣がどんな人かもよく分からない……」
ご隠居の言葉に、美智子はハッとしたように深く頷いた。
「本当にその通りですわ。高いお金を出して『特別な暮らし』を買ったつもりでしたけれど、何だか窮屈で……」
「そうでしょう」とご隠居は茶目っ気たっぷりに微笑んだ。
「要するにだね、高層階で風が強くて窓も開けられず、隣近所に気を使いながら一畳で寝て二合半の飯を食う……。ここは高い金を払って縦に積み上げた、江戸時代の長屋と何も変わらんのですよ」
文字数 1,013
最終更新日 2026.10.22
登録日 2026.10.22
夕暮れ時の公園で、ミキオ、タケシ、エリの3人はベンチに腰掛けていた。手元にあるのは、山奥の湧き水「杜の水」を沸かし、丁寧に淹れた缶マグカップのコーヒー。
「うわ、なにこれ。めちゃくちゃスッキリして美味い!」
タケシが目を輝かせると、エリも一口飲んでふっと表情を緩めた。
「本当。なんだか、少し優しくなれる味だね」
3人は先週、ちょっとした不注意で小さな喧嘩をしたばかりだった。気まずい空気を払拭したくて、ミキオがわざわざ自転車で往復3時間かけて汲んできたのが、この杜の水だったのだ。
そこへ、犬の散歩をしていた近所のメイジさんが通りかかった。
「おや、いい香りがするねぇ」
ミキオが「一杯どうぞ」と手渡すと、メイジさんは一口含み、遠くを見るような目で言った。
「……うん。若い頃の失敗も、こんな風に美味しくろ過できたらいいんだがな」
それだけ言うと、メイジさんは寂しげでいて温かい笑顔を残し、去っていった。
西の空が真っ赤に染まり、綺麗な夕陽が街を包み込む。温かいコーヒーが、じんわりと身体と心に染み渡っていた。
「仲直りできてよかったよ。杜の水に感謝だな」とタケシ。
エリも「ミキオ、汲んできてくれてありがとう」と微笑んだ。
しんみりした良い雰囲気の中、ミキオは夕陽を背に力強く頷いた。
「おう!……まあ実はこれ、ただの水道水なんだけどな!」
「おい!!」
2人のツッコミと爆笑が、夕暮れの公園に高く響き渡った。
文字数 5,015
最終更新日 2026.10.17
登録日 2026.10.17
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