ここから1年の動きを知る事が出来た徳川家康。舞台は会津へ向かう途中。天下取り目前の1600年。あとは知らされた史実をなぞれば天下統一と思ったその時。彼の目の前に現れたのは来るはずの無い大谷吉継。
そう。ここから1年の動きを知っている人物は徳川家康独りでは無い。
登録日 2022.09.04
旅行先で目を覚ましたら武田勝頼になった私。
武田家の当主として歴史を覆すべく、父信玄時代の同僚と共に生き残りを図る物語。
登録日 2023.03.18
時代:慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)
場所:美濃国不破郡関ヶ原(今の岐阜県不破郡関ヶ原町)
合戦名:関ヶ原の戦い。
布陣:明治時代に陸軍の参謀本部が推測したものを使用。
この物語で追加する事項
1,当日、いくさに参加した者は1年後の未来を知っている。
2,ただし1年以内に逝去した者は、1年以内に自身が亡くなる事実を知らない。
3,生き残った者も何故そうなったのかまではわからない。
4,(生き残った。残る事が出来なかったを問わず)未来を変える事は可能。
登録日 2024.01.20
織田信長より
「厚遇で迎え入れる。」
との誘いを保留し続けた結果、討伐の対象となってしまった依田信蕃。
この報を受け、急ぎ行動に移した徳川家康により助けられた依田信蕃が
その後勃発する本能寺の変から端を発した信濃争奪戦での活躍ぶりと
依田信蕃の最期を綴っていきます。
登録日 2024.03.02
武田家滅亡に伴い、赴任先から故郷川中島に戻った春日信達。
新たな上司と揉め事を起こす国人衆を宥めすかし、
やっと落ち着きを取り戻した矢先。
本能寺の変の報せが。
弔い合戦を試みる森長可に恨みを晴らそうと不穏な動きを見せる国人衆。
そこに付け入る上杉景勝からの甘い誘い。
判断に困った春日信達は……。
登録日 2024.04.14
高天神城攻略の祝宴が開かれた翌朝。武田勝頼が採った行動により、これまで疎遠となっていた武田四天王との関係が修復。一致団結し向かった先は長篠城。
台本形式で綴っていきます。
登録日 2024.06.04
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2023年。地元のハーフマラソンに初めて出場し、同大会2回目の完走を果たすまでを綴っていきます。
登録日 2024.06.16
長篠の戦いに勝利を収め、三河北東部の安定化に成功した武田勝頼。
一方、不安定な状況にあるのが二俣城以北と高天神城しか押さえる事が出来ていない遠江。とりわけ連絡路が細いのが高天神城。彼の地の安定化と遠江における権益拡大目指します。
台本形式で綴っていきます。
『高天神攻略の祝宴でしこたま飲まされた武田勝頼。翌朝、事の顛末を聞いた勝頼が採った行動とは?』
の続きです。
登録日 2024.07.09
武田家滅亡に伴い、赴任先から故郷川中島に戻った春日信達。
新たな上司と揉め事を起こす国人衆を宥めすかし、
やっと落ち着きを取り戻した矢先。
本能寺の変の報せが。
弔い合戦を試みる森長可に恨みを晴らそうと不穏な動きを見せる国人衆。
そこに付け入る上杉景勝からの甘い誘い。
判断に困った春日信達は……。
「もし春日信達が本能寺の変の報せを聞いた直後。真田昌幸に相談を持ち掛けていたら……。」
の冒頭をベースに、話を展開していきます。
「台本形式」で綴っていきます。
登録日 2024.07.27
武田家滅亡後、信濃国川中島に入った森長可に待ち受けていたもの。それは、越後国の上杉景勝に調略された武田旧臣による反乱。これを打ち破り、上杉討伐に乗り出した所。本能寺の変が勃発。急ぎ美濃に戻ろうとする森長可の前に立ちはだかったのが、従う事を誓ったはずの川中島の国衆。そんな森長可の姿を見た真田昌幸が採った行動。それは……。
登録日 2024.08.04
旅先で目を覚ましたら森長可になっていた私。場面は本能寺直後の越後。急ぎ美濃に戻ろうと試みると周りは敵だらけ。唯一協力を申し出てくれた出浦盛清に助けられ、美濃を目指す途中。出浦盛清に紹介されたのが真田昌幸。
登録日 2024.08.24
栃木県宇都宮市にある旧家に眠る「門外不出」の巻物が。
その冒頭に認められた文言。それは……
「私は家康を尾張に売ってはいない。」
この巻物を手に取った少年に問い掛けて来たのは
500年前にのちの徳川家康を織田家に売り払った張本人。
戸田康光その人であった。
本編は第10話。
1546年
「今橋城明け渡し要求」
の場面から始まります。
登録日 2024.10.12
慶長5年。関ヶ原の戦いで父石田三成が敗れ、居城佐和山も陥落。
その時、大坂城で豊臣秀頼に近侍していたのが次男の石田重成。
「このままでは助からない。」
絶望的な状況を見兼ね、手を差し伸べたのが同僚津軽信建。
登録日 2025.02.01
1563年。徳川家康が三河国内の一向宗が持つ「不入の権」を侵害。
両者の対立はエスカレートし紛争に発展。双方共に関係を持つ徳川の家臣は分裂。
そんな中、岡崎に身を寄せていた戸田忠次は……。
登録日 2025.02.23
休日。何気に身体のケアをしたはずが、気が付いたら石田三成になっていた私(仮空)。目の前にいた島左近と名乗る人物に日付を尋ねたら慶長5年の9月14日で場所は大垣城。
……と言う事は今日は関ヶ原の戦いの前日。
このままでは……。
登録日 2025.03.08
武田信玄が急逝。上洛戦の継続は困難と判断するも、周囲は敵ばかり。3年も内を固める余裕は無い。
この困難な事態に武田四天王が協議。その結果、
「陣代」
武田勝頼に当主になるよう進言。勝頼はこれを受諾。武田家中が1つとなり、織田徳川との戦いに臨むのでありました。
登録日 2025.04.06