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第20話
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何とか父を説得し隣国ヤーブラルド帝国に逃げてきたのは良かったが、根本的な解決になっていないことは、まだ十三歳のアルバートも理解していた。
グリン子爵は父を友人として接しているが、父が彼をそう思っていないのは、アルバートへの発言から充分すぎるほど分かっている。このままだとグリン子爵に言われるがまま、アルバートとレナータを結婚させるだろう。
(このまま、隣国で行方をくらませようか……)
そんなことを考えながら、帝都を歩いていた時だ。
人々の往来が激しい大通りに、突然甲高い悲鳴が響き渡ったのだ。今までゆっくりと進んでいた人の流れが止まり、
「も、猛獣だっ‼ 猛獣がこの先に現れたぞっ‼」
「避難だっ‼ 避難しろっ‼」
という叫び声によって、 人々が蜘蛛の子を散らすように逃げて行く。
状況が理解できず唖然としていたアルバートだったが、逃げる人々に押され、気づけば通りから外れたところまで流されていた。
あれだけいた人間たちの姿が、どこにもない。皆どこに消えたのかと周囲を見回していると、
「おい、兄ちゃんっ‼ そんなところにいると猛獣に食わっぞっ‼」
地面から顔を出した中年男性が手招きしているのが見え、地下室の存在に気づいた。消えた人々は、地下に逃げたのだ。
アルバートも慌てて避難しようとした。
が、
「おかあさぁぁーーーんっ‼」
自分よりももっと幼い子どもの泣き声が聞こえ、咄嗟に足を止めてしまう。振り返ると人がいなくなった大通りに、五歳ぐらいの少年が一人取り残されていたのだ。避難途中に親とはぐれたのだろう。
考える前に体が動いていた。
泣きじゃくっている少年に駆け寄り、抱き上げる。このまま先ほどの地下室に避難しようと足を一歩踏み出した時、アルバートたちの上に大きな影が落ちた。
人間にしてはあまりにも異質で、大きすぎる影が――
恐る恐る顔を上げるとそこには、アルバートが今まで見たことのない巨大な獣がいた。上半身は猛禽類、下半身は四足の獣、さらに背中には鳥の翼が生えている。
本能的に察した。
この獣からは逃げられない、と。
頭の中が恐怖で真っ白になる。逃げ出そうにも、足がまるで別の意思をもったかのように、アルバートの言うことを聞いてくれない。
気づけば少年を抱きしめながら、地面にうずくまっていた。
自分の腕の中にいる小さな命だけは、何としても守りたかった。
ずっとレナータに弱いと言われ続け、自分に価値などないと思い続けてきたが、もし少年の命を救えたのなら、そんな自分を少しだけ認められる気がした。
猛獣が首を高く上げる。
逆光に照らされて黒くなったくちばしが、勢いよく振り下ろされるのを視界にとらえたアルバートは、強く双眸を閉じ、最期の時を待った。
――が、聞こえてきたのは、猛獣の甲高い鳴き声と、大きな何かが地面に倒れる音。
顔を上げた先に、猛獣の姿はなかった。
代わりにあったのは、
「もう大丈夫ですよ。グリュプスは私たちが退治しましたから」
そう言って手を差し出す、アルバートとさほど変わりのない年頃の少女だった。艶やかな髪が、肩の辺りで揺れている。
次の瞬間、隠れていた人々が地下室から飛び出し、歓声をあげた。
「ギルダス族だっ‼」
「助かったぞっ‼」
「ありがとうございます! ありがとうございます‼」
ギルダス族という存在を、アルバートは知らなかった。
だが目の前の少女と、血を流して倒れた猛獣の傍にいる厳つい黒髪の男たちが、人々が称賛しているギルダス族であることは理解できた。
少女が差し出した反対の手には、不釣り合いなほど大きな剣が握られ、血で赤く染まっていた。
彼女も戦ったのだろう。
アルバートが恐怖で動くことすらできなかった、猛獣と――
そう思うと恥ずかしくて、少女の手を素直にとることが出来なかった。
アルバートが守った少年が突然立ち上がり、駆け出して行った。少年が走る方向から、同じように走り寄ってくる女性の姿が見える。少年の母親だろう。二人は抱きしめ合い、涙を流している。
無事、母子の再会を見届けたアルバートが大きく息を吐き出したとき、
「ありがとうございます。あの子を助けてくださって。あなたがいなければ、グリュプスは迷いなく、あの子を連れ去っていたでしょう」
目の前の少女から突然礼を言われ、アルバートは目を見開いた。慌てて首を横に振り、項垂れる。こみ上げてくる無力感のせいで、言葉尻がしぼんでいく。
「い、いや……逆に情けない。私は弱いから、あの猛獣を前にして何もできなかった……」
弱い男だと嘲笑うレナータの声が耳の奥で蘇り、頭の中を一杯にした。
だが、
「力だけが強さではありません」
強く芯のある少女の声を聞いた瞬間、頭の中で鳴り響いていたレナータの笑い声が、ピタリと止まった。
顔をあげると、すぐ傍に少女の赤い瞳があった。
どんな宝石も敵わない力強さを宿した輝きが、アルバートを真っ直ぐ見据え――優しく細められる。
「見知らぬ子どもを守ろうとしたあなたは、とても強いです」
アルバートの手が少女のぬくもりに包まれたとき、闇の中に沈んでいた自分の心に、一筋の光が差した気がした。
*
「彼女とはその後別れたが、かけられた言葉と微笑みが忘れられなかった。もう一度会いたかったが、ギルダス族の住まう地域は猛獣が多く生息していて、普通の人間は立ち入りが禁止されていた。だから強くなろうと決意したんだ」
努力の結果、アルバートは無事、ナディアと再会することができた。
そしてギルダス族と生活をし、猛獣狩りをともにし、ナディアとの距離を縮めていった。
彼女には幼い頃に親が決めた婚約者がいたが、形式上だったこと、そしてアルバートの気持ちを受け入れたナディアの希望により、双方が納得した上で白紙になったのだという。
そして、レナータと結婚させるために、最後までナディアとの結婚を反対していた父を王命でねじふせ、今に至る。
ナディアとの馴れ初めを語るアルバートは、終始穏やかな表情だった。恋愛話に縁のないレナータですら、彼がこの思い出を心の底から大切にしていることが分かった。
しかしアルバートの青い瞳が、突如鋭さを取り戻した。レナータを真っ直ぐ見据えながら、低い声で告げる。
「私が強くなったのはナディアと再会するため、そして彼女と並び立つに相応しい人間になるためだ。争いが苦手だった私が、王宮騎士団に入り上を目指したのも、次期族長の座を捨てて私に付いてきてくれると言ったナディアの決断に、報いたかったからだ」
「全部、あの女のため……」
「そうだ」
両足から力が抜け、レナータは地面にへたり込んだ。濡れた地面から水が染み込んでくるが、そんなことを気にする心の余裕はない。
アルバートが語った自分への鬱積が、頭の中で回り続けている。
ただ地面を見つめているレナータに、アルバートは淡々と告げた。
「私は先日、国王から直々に第十三部隊の隊長に任命された」
「……はっ?」
地面を見つめていたレナータは、勢いよく顔を上げた。詳しい説明を求めようとしたが、アルバートの有無を言わせぬ冷たい視線に思わず口を閉じる。
「それにともない第五部隊の部下たちも皆、十三部隊への移動を希望し、許可された。結果、第五部隊は消滅、君は隊長を解任されることが決定した」
「う、うそ……だ……」
「昔の君は強く、騎士団にも貢献したと聞いている。しかし隊長になった君はその立場を利用し、自分本位に振る舞った。私やムゥト、その他の部下たちが、どれだけ君の尻拭いをさせられたか、分かっているのか?」
「あ、あたしは、あんたたちの為を思って……っ‼」
「そう判断されなかったから、君は解任されたんだ。今回の騒動のことを正直に話してくれれば、君の解任を考え直してもらうよう上に掛け合おうと思っていた。しかし君は最後まで保身に走った。そんな人間に、一人の女性が気に食わないからと危害を加えようとした君に、部下の命や国の安全を任せられない」
これ以上、聞きたくない。
レナータが耳を塞ごうとするよりも早く、アルバートが告げる。
「レナータ・グリン子爵令嬢。大人しく騎士団を去るなら、今回の一件の真実は私の中に留めておく。これが正真正銘、最後の情けだ」
それだけ言うと、アルバートはレナータの返答を待たずに立ち去って行った。
一人残されたレナータは、呆然とアルバートの後ろ姿を見つめていた。
ここにやってきた部下の一人がアルバートを、ウォルレイン隊長と呼んでいたことを思い出した瞬間、何も感じなかった感情が突然動き出した。
驕りと慢心により全てを失った後悔が、心に激しい痛みをもたらし、叫び声となって森の中に木霊する。
しかし、彼女の叫びに応えるものは誰もいなかった。
グリン子爵は父を友人として接しているが、父が彼をそう思っていないのは、アルバートへの発言から充分すぎるほど分かっている。このままだとグリン子爵に言われるがまま、アルバートとレナータを結婚させるだろう。
(このまま、隣国で行方をくらませようか……)
そんなことを考えながら、帝都を歩いていた時だ。
人々の往来が激しい大通りに、突然甲高い悲鳴が響き渡ったのだ。今までゆっくりと進んでいた人の流れが止まり、
「も、猛獣だっ‼ 猛獣がこの先に現れたぞっ‼」
「避難だっ‼ 避難しろっ‼」
という叫び声によって、 人々が蜘蛛の子を散らすように逃げて行く。
状況が理解できず唖然としていたアルバートだったが、逃げる人々に押され、気づけば通りから外れたところまで流されていた。
あれだけいた人間たちの姿が、どこにもない。皆どこに消えたのかと周囲を見回していると、
「おい、兄ちゃんっ‼ そんなところにいると猛獣に食わっぞっ‼」
地面から顔を出した中年男性が手招きしているのが見え、地下室の存在に気づいた。消えた人々は、地下に逃げたのだ。
アルバートも慌てて避難しようとした。
が、
「おかあさぁぁーーーんっ‼」
自分よりももっと幼い子どもの泣き声が聞こえ、咄嗟に足を止めてしまう。振り返ると人がいなくなった大通りに、五歳ぐらいの少年が一人取り残されていたのだ。避難途中に親とはぐれたのだろう。
考える前に体が動いていた。
泣きじゃくっている少年に駆け寄り、抱き上げる。このまま先ほどの地下室に避難しようと足を一歩踏み出した時、アルバートたちの上に大きな影が落ちた。
人間にしてはあまりにも異質で、大きすぎる影が――
恐る恐る顔を上げるとそこには、アルバートが今まで見たことのない巨大な獣がいた。上半身は猛禽類、下半身は四足の獣、さらに背中には鳥の翼が生えている。
本能的に察した。
この獣からは逃げられない、と。
頭の中が恐怖で真っ白になる。逃げ出そうにも、足がまるで別の意思をもったかのように、アルバートの言うことを聞いてくれない。
気づけば少年を抱きしめながら、地面にうずくまっていた。
自分の腕の中にいる小さな命だけは、何としても守りたかった。
ずっとレナータに弱いと言われ続け、自分に価値などないと思い続けてきたが、もし少年の命を救えたのなら、そんな自分を少しだけ認められる気がした。
猛獣が首を高く上げる。
逆光に照らされて黒くなったくちばしが、勢いよく振り下ろされるのを視界にとらえたアルバートは、強く双眸を閉じ、最期の時を待った。
――が、聞こえてきたのは、猛獣の甲高い鳴き声と、大きな何かが地面に倒れる音。
顔を上げた先に、猛獣の姿はなかった。
代わりにあったのは、
「もう大丈夫ですよ。グリュプスは私たちが退治しましたから」
そう言って手を差し出す、アルバートとさほど変わりのない年頃の少女だった。艶やかな髪が、肩の辺りで揺れている。
次の瞬間、隠れていた人々が地下室から飛び出し、歓声をあげた。
「ギルダス族だっ‼」
「助かったぞっ‼」
「ありがとうございます! ありがとうございます‼」
ギルダス族という存在を、アルバートは知らなかった。
だが目の前の少女と、血を流して倒れた猛獣の傍にいる厳つい黒髪の男たちが、人々が称賛しているギルダス族であることは理解できた。
少女が差し出した反対の手には、不釣り合いなほど大きな剣が握られ、血で赤く染まっていた。
彼女も戦ったのだろう。
アルバートが恐怖で動くことすらできなかった、猛獣と――
そう思うと恥ずかしくて、少女の手を素直にとることが出来なかった。
アルバートが守った少年が突然立ち上がり、駆け出して行った。少年が走る方向から、同じように走り寄ってくる女性の姿が見える。少年の母親だろう。二人は抱きしめ合い、涙を流している。
無事、母子の再会を見届けたアルバートが大きく息を吐き出したとき、
「ありがとうございます。あの子を助けてくださって。あなたがいなければ、グリュプスは迷いなく、あの子を連れ去っていたでしょう」
目の前の少女から突然礼を言われ、アルバートは目を見開いた。慌てて首を横に振り、項垂れる。こみ上げてくる無力感のせいで、言葉尻がしぼんでいく。
「い、いや……逆に情けない。私は弱いから、あの猛獣を前にして何もできなかった……」
弱い男だと嘲笑うレナータの声が耳の奥で蘇り、頭の中を一杯にした。
だが、
「力だけが強さではありません」
強く芯のある少女の声を聞いた瞬間、頭の中で鳴り響いていたレナータの笑い声が、ピタリと止まった。
顔をあげると、すぐ傍に少女の赤い瞳があった。
どんな宝石も敵わない力強さを宿した輝きが、アルバートを真っ直ぐ見据え――優しく細められる。
「見知らぬ子どもを守ろうとしたあなたは、とても強いです」
アルバートの手が少女のぬくもりに包まれたとき、闇の中に沈んでいた自分の心に、一筋の光が差した気がした。
*
「彼女とはその後別れたが、かけられた言葉と微笑みが忘れられなかった。もう一度会いたかったが、ギルダス族の住まう地域は猛獣が多く生息していて、普通の人間は立ち入りが禁止されていた。だから強くなろうと決意したんだ」
努力の結果、アルバートは無事、ナディアと再会することができた。
そしてギルダス族と生活をし、猛獣狩りをともにし、ナディアとの距離を縮めていった。
彼女には幼い頃に親が決めた婚約者がいたが、形式上だったこと、そしてアルバートの気持ちを受け入れたナディアの希望により、双方が納得した上で白紙になったのだという。
そして、レナータと結婚させるために、最後までナディアとの結婚を反対していた父を王命でねじふせ、今に至る。
ナディアとの馴れ初めを語るアルバートは、終始穏やかな表情だった。恋愛話に縁のないレナータですら、彼がこの思い出を心の底から大切にしていることが分かった。
しかしアルバートの青い瞳が、突如鋭さを取り戻した。レナータを真っ直ぐ見据えながら、低い声で告げる。
「私が強くなったのはナディアと再会するため、そして彼女と並び立つに相応しい人間になるためだ。争いが苦手だった私が、王宮騎士団に入り上を目指したのも、次期族長の座を捨てて私に付いてきてくれると言ったナディアの決断に、報いたかったからだ」
「全部、あの女のため……」
「そうだ」
両足から力が抜け、レナータは地面にへたり込んだ。濡れた地面から水が染み込んでくるが、そんなことを気にする心の余裕はない。
アルバートが語った自分への鬱積が、頭の中で回り続けている。
ただ地面を見つめているレナータに、アルバートは淡々と告げた。
「私は先日、国王から直々に第十三部隊の隊長に任命された」
「……はっ?」
地面を見つめていたレナータは、勢いよく顔を上げた。詳しい説明を求めようとしたが、アルバートの有無を言わせぬ冷たい視線に思わず口を閉じる。
「それにともない第五部隊の部下たちも皆、十三部隊への移動を希望し、許可された。結果、第五部隊は消滅、君は隊長を解任されることが決定した」
「う、うそ……だ……」
「昔の君は強く、騎士団にも貢献したと聞いている。しかし隊長になった君はその立場を利用し、自分本位に振る舞った。私やムゥト、その他の部下たちが、どれだけ君の尻拭いをさせられたか、分かっているのか?」
「あ、あたしは、あんたたちの為を思って……っ‼」
「そう判断されなかったから、君は解任されたんだ。今回の騒動のことを正直に話してくれれば、君の解任を考え直してもらうよう上に掛け合おうと思っていた。しかし君は最後まで保身に走った。そんな人間に、一人の女性が気に食わないからと危害を加えようとした君に、部下の命や国の安全を任せられない」
これ以上、聞きたくない。
レナータが耳を塞ごうとするよりも早く、アルバートが告げる。
「レナータ・グリン子爵令嬢。大人しく騎士団を去るなら、今回の一件の真実は私の中に留めておく。これが正真正銘、最後の情けだ」
それだけ言うと、アルバートはレナータの返答を待たずに立ち去って行った。
一人残されたレナータは、呆然とアルバートの後ろ姿を見つめていた。
ここにやってきた部下の一人がアルバートを、ウォルレイン隊長と呼んでいたことを思い出した瞬間、何も感じなかった感情が突然動き出した。
驕りと慢心により全てを失った後悔が、心に激しい痛みをもたらし、叫び声となって森の中に木霊する。
しかし、彼女の叫びに応えるものは誰もいなかった。
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