偽りの聖者と泥の国

篠雨

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第3章:崩壊のその先

最終話:最悪の勇者の叙事詩

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 聖王国アドレアンは、歴史から消えた。

 かつて地脈の恩恵に浴し、大陸で最も豊かだった国は、今や草一本生えない死の荒野、「絶望の灰土(はいど)」と呼ばれている。

 帝國ヴォルガルドの北方に位置する、人跡未踏の険しい山脈。その最奥、深い森に呑み込まれた断崖に、古びた一棟の塔があった。かつては王族の静養に使われたというその場所は、今や世界から隔絶された「檻」であり、同時に二人の「聖域」でもあった。

 その塔の最上階で、レオはエルヴィンの膝に頭を預け、バルコニーから夜の闇を眺めていた。

「……ねえ、エルヴィン。見て。今日も月が、あんなに綺麗だよ」

 レオの瞳に映るのは、かつて夢見た緑豊かな平原ではない。白く乾燥し、死に絶えた灰色の世界だ。レオが呼吸を重ねるたびに、周囲の生命力は吸い取られ、世界の「死」は一歩ずつ更新されていく。

 レオは、かつて自分が願ったことを思い出していた。

 ――異世界に召喚されたあの日、自分は誰かに必要とされ、誰かを救う「物語の主人公」になりたかった。正義の剣を振るい、皆に愛される、光り輝く勇者に。

(……あんなの、最初からいらなかったんだ)

 レオは、エルヴィンの無骨な手を自分の頬に寄せた。

 この男は、レオが国を枯らしても、民を見捨てても、ただ沈黙して隣にいてくれた。レオが「怖い、逃げたい」と泣いたとき、騎士としての誇りも家名も捨てて、血まみれの手で抱き上げてくれた。

「ねえ、エルヴィン。僕のしたことは、きっと全部、間違ってるんだよね」

 レオの唇が、狂気と自覚の混じった笑みに歪む。

 国を滅ぼし、地脈を殺し、エルヴィンの魂を「真理の枷」で繋ぎ、二度と自分から逃げられないように呪った。これが正義でないことなど、子供でもわかる。

「……それが正しくとも、あるいは過ちであろうとも。私は貴方の傍にいると誓いました」

 エルヴィンの返答は、どこまでも平坦で、揺るぎない。

 彼の胸には、常に淡い光を放つ契約の紋章が刻まれている。レオが動けばエルヴィンも動き、レオが眠ればエルヴィンの意識もまた暗闇へ落ちる。意志さえもレオの魔力に依存し、レオという巨大な災厄をこの世に繋ぎ止めるためだけの「錨」。それが、今の彼のすべてだった。

「……うん。正解なんて、どうでもいい。君が僕を離さないなら、それだけでいいんだ」

 かつて多くの人々に愛されたいと願った少年は、今、たった一人の「所有物」に執着し、それ以外のすべてを切り捨てた。

 この塔で、レオがエルヴィンの隣で微笑むたびに、外の世界では呪いが広がり、人々は死にゆく。その対価が「一人の騎士」であるという残酷な均衡。

 後世の歴史家たちは、この少年のことをこう記すだろう。

『セシル・アドレアンが救った世界を、たった一度のわがままで灰に変えた、歴史上最悪の悪者』だと。

 けれど、レオにとっては、そんな評価すらも風に舞う砂に等しい。

 月光に照らされた塔の中で、レオは目を閉じた。エルヴィンの体温と、魂を繋ぐ鎖の感触。

 世界を犠牲にして買い取った、静寂で永遠の二人だけの時間。

 
 その歪な幸福の中に、二人の姿は永遠に閉じ込められた。
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