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夜明け前の王都は、静かだった。
薄い霧が石畳を覆い、冷たい空気の中に鐘の音が響く。
──レオン・ハイゼルはその音を聞きながら、酒に溺れていた。
机の上には乱雑に積まれた報告書。
その中央には、一枚の肖像画。
淡い栗色の髪、澄んだ碧の瞳。
その微笑みは、三年前も今も、彼の心を締めつける。
「……リリア」
掠れた声で名前を呼ぶ。
あの時、あの一言を言わなければ。
『身分が違う』なんて、吐き捨てなければ。
──きっと、彼女はいまだに自分の隣にいたはずだ。
けれど現実は、残酷なほど遠い。
今のリリアは、リューネ王弟殿下の婚約者。
庶民の娘が王族の隣に立つなど、かつての彼なら想像すらしなかっただろう。
(どうしてだ……どうして俺を見てくれない)
彼は拳で机を叩く。
手の甲が裂け、血が滲んでも気にも留めない。
「リリア……お前は俺のものだった」
その呟きは、もう狂気に近い執着だった。
一方その頃、リリアはアランの執務室で報告書を整理していた。
「王都での会議、思ったより穏やかに終わりましたね」
「君のおかげだ」
アランが穏やかに微笑む。
その笑顔に胸が温かくなった瞬間、窓の外で不穏な影が動いた。
護衛の騎士が即座に外へ出る。
「アラン様、外に不審な馬車が──!」
「……やはり来たか」
アランの声が低くなった。
──その夜、王都を離れたはずのレオンが、リューネ邸の門前に現れた。
「彼女に、話がある」
血走った瞳でそう告げる彼を、門番たちは固く拒む。
「現在、リリア様は執務中です。お引き取りを」
「リリア“様”、だと?」
レオンの口元が歪んだ。
「いつから平民風情が“様”付けで呼ばれるようになった?」
その言葉に、門番の一人が憤る。
だが次の瞬間、アランが姿を現した。
「夜分に来るとは、随分と礼儀を知らない貴族だな」
「リューネ殿下……!」
レオンは慌てて頭を下げるが、その視線はアランの後ろ、屋敷の奥に釘づけだった。
──リリアがいた。
彼女は青い外套を羽織り、夜気に少しだけ頬を赤く染めている。
「……どうしてここに」
レオンの声は震えていた。
「お前に、謝りたかった。すべてを──あの日のことを」
リリアは静かに彼を見つめた。
「もう、終わった話です。レオン様」
「終わっていない!」
彼の声が荒ぶる。
「俺はまだ……君を愛しているんだ!」
その叫びに、周囲の空気が凍った。
アランが前に出て、レオンを睨む。
「その言葉、二度と口にするな。彼女は今、私の婚約者だ」
「婚約者……? 冗談だろう……」
レオンは乾いた笑いを漏らした。
「王族が平民を娶るなんて、許されるはずがない! そんなの──」
「許すのは、私自身だ」
アランの瞳が冷たく光る。
「彼女の身分を理由に拒む者がいるなら、私がすべてを排除する。それだけの話だ」
レオンの顔が青ざめた。
その瞳に宿るのは、嫉妬と絶望。
「……あの頃、俺があんなに苦しんで……家の圧力のせいで……! なのに、お前は簡単に手に入れて……!」
「“お前”ではない。私を呼ぶときは“殿下”だ」
アランの声が低く響く。
その圧に、レオンは一瞬ひるんだ。
リリアは、そんな二人の間に小さく息を吐いた。
「レオン様。どうか、もう私を探さないでください」
「リリア……」
「あなたが私を捨てたあの日、私は泣きました。でも今はもう、涙も枯れました。あなたの言葉で、全部終わったんです」
レオンの瞳が揺れる。
その表情は、怒りと悲しみと後悔の混じった複雑なものだった。
「俺は──君を守るために手放したんだ……」
「いいえ。守るためなんかじゃない。自分の地位を守るために、私を捨てたのよ」
冷たい声でそう告げると、リリアは背を向けた。
彼女の背中を、レオンはただ見送るしかなかった。
それから数日後。
王都では奇妙な噂が広がっていた。
──リューネ殿下の婚約者に、脅迫状が届いたらしい。
──その差出人は、どうやら元恋人だとか。
「……レオン・ハイゼル、か」
アランが報告書を読みながら眉をひそめる。
「まさか、そこまで落ちるとはな」
「放っておいてください」
リリアは小さく首を振った。
「もう、彼に関わる時間がもったいないです」
そう言いながらも、指先は少し震えていた。
アランはそれを見逃さなかった。
「……リリア。もし彼がまた近づいてきたら、必ず俺に言え」
「……はい」
だがその夜。
彼女の部屋の窓辺に、ひとひらの花弁が落ちていた。
──赤い薔薇の花弁。
かつてレオンが、彼女の誕生日に贈ってくれたものと同じ花。
「……どうして」
リリアの胸に、ざわりとした不安が広がる。
翌朝、王都の外れの路地裏で、一人の男が倒れているのが発見された。
レオン・ハイゼル。
酒と薬に溺れ、虚ろな目で呟く。
「リリア……リリア……俺を見てくれ……」
彼はもう、貴族としての威厳を失っていた。
それでも、その執着だけは消えない。
「彼女は俺のものだ……誰にも渡さない……」
そしてその呟きを聞いた男がいた。
黒衣の影──裏社会で暗躍する情報屋だ。
「リューネ領の殿下の婚約者、ねぇ……。なるほど、利用できそうだ」
レオンの瞳に、微かな光が戻った。
「……彼女を……取り戻す方法があるのか」
「代償は、高いですよ。ですが──愛のためなら、払えるんでしょう?」
その言葉に、レオンは微笑んだ。
壊れたような、狂おしい笑みだった。
数日後。
リリアが王立研究所へ向かう途中、馬車の中で窓を開けた瞬間、かすかに香る花の匂いに気づいた。
──薔薇。
振り向いたとき、通りの影から誰かの視線を感じた。
冷たい、けれど確かに懐かしい視線。
その奥に宿るのは、愛でも後悔でもない。
──狂気。
(レオン……?)
鼓動が早くなる。
けれど次の瞬間、護衛が叫んだ。
「危ない!」
何かが閃いた。
ガラスが割れ、煙が立ち上る。
リリアは咄嗟に魔力障壁を展開し、衝撃を防いだ。
「リリア!」
駆け寄ったアランが、彼女を抱き寄せる。
「無事か!?」
「だ、大丈夫……でも、今のは──」
王都の通りの向こう、崩れた屋根の上で、一瞬だけ金色の髪が揺れた気がした。
「……リリアは、俺のものだ」
風に紛れて届いたその声は、確かに彼のものだった。
夜。
アランは兵を集め、王都の警備を強化した。
リリアは部屋で静かに紅茶を飲みながら、窓の外を見つめる。
──あの時、あの人が泣きながら謝っていたら。
もし一度でも、心から「ごめん」と言ってくれていたら。
きっと、こんな風に壊れなかったのに。
けれどもう、遅い。
彼は自分で選んだ。身分も、名誉も、そして理性も。
(……さようなら、レオン)
そう心で呟いたその瞬間。
──窓の外に、赤い薔薇がひとつ、置かれていた。
血のように深い赤。
その花弁には、震えるような筆跡で一言。
>「今度こそ、君を手に入れる」
リリアの指先から、カップが落ちた。
アランが部屋に飛び込んできた時、彼女の顔は蒼白だった。
「……彼が、戻ってきたわ」
その声は、震えていた。
──そして夜は、静かに崩れていく。
かつての恋が、狂気へと変わりながら。
薄い霧が石畳を覆い、冷たい空気の中に鐘の音が響く。
──レオン・ハイゼルはその音を聞きながら、酒に溺れていた。
机の上には乱雑に積まれた報告書。
その中央には、一枚の肖像画。
淡い栗色の髪、澄んだ碧の瞳。
その微笑みは、三年前も今も、彼の心を締めつける。
「……リリア」
掠れた声で名前を呼ぶ。
あの時、あの一言を言わなければ。
『身分が違う』なんて、吐き捨てなければ。
──きっと、彼女はいまだに自分の隣にいたはずだ。
けれど現実は、残酷なほど遠い。
今のリリアは、リューネ王弟殿下の婚約者。
庶民の娘が王族の隣に立つなど、かつての彼なら想像すらしなかっただろう。
(どうしてだ……どうして俺を見てくれない)
彼は拳で机を叩く。
手の甲が裂け、血が滲んでも気にも留めない。
「リリア……お前は俺のものだった」
その呟きは、もう狂気に近い執着だった。
一方その頃、リリアはアランの執務室で報告書を整理していた。
「王都での会議、思ったより穏やかに終わりましたね」
「君のおかげだ」
アランが穏やかに微笑む。
その笑顔に胸が温かくなった瞬間、窓の外で不穏な影が動いた。
護衛の騎士が即座に外へ出る。
「アラン様、外に不審な馬車が──!」
「……やはり来たか」
アランの声が低くなった。
──その夜、王都を離れたはずのレオンが、リューネ邸の門前に現れた。
「彼女に、話がある」
血走った瞳でそう告げる彼を、門番たちは固く拒む。
「現在、リリア様は執務中です。お引き取りを」
「リリア“様”、だと?」
レオンの口元が歪んだ。
「いつから平民風情が“様”付けで呼ばれるようになった?」
その言葉に、門番の一人が憤る。
だが次の瞬間、アランが姿を現した。
「夜分に来るとは、随分と礼儀を知らない貴族だな」
「リューネ殿下……!」
レオンは慌てて頭を下げるが、その視線はアランの後ろ、屋敷の奥に釘づけだった。
──リリアがいた。
彼女は青い外套を羽織り、夜気に少しだけ頬を赤く染めている。
「……どうしてここに」
レオンの声は震えていた。
「お前に、謝りたかった。すべてを──あの日のことを」
リリアは静かに彼を見つめた。
「もう、終わった話です。レオン様」
「終わっていない!」
彼の声が荒ぶる。
「俺はまだ……君を愛しているんだ!」
その叫びに、周囲の空気が凍った。
アランが前に出て、レオンを睨む。
「その言葉、二度と口にするな。彼女は今、私の婚約者だ」
「婚約者……? 冗談だろう……」
レオンは乾いた笑いを漏らした。
「王族が平民を娶るなんて、許されるはずがない! そんなの──」
「許すのは、私自身だ」
アランの瞳が冷たく光る。
「彼女の身分を理由に拒む者がいるなら、私がすべてを排除する。それだけの話だ」
レオンの顔が青ざめた。
その瞳に宿るのは、嫉妬と絶望。
「……あの頃、俺があんなに苦しんで……家の圧力のせいで……! なのに、お前は簡単に手に入れて……!」
「“お前”ではない。私を呼ぶときは“殿下”だ」
アランの声が低く響く。
その圧に、レオンは一瞬ひるんだ。
リリアは、そんな二人の間に小さく息を吐いた。
「レオン様。どうか、もう私を探さないでください」
「リリア……」
「あなたが私を捨てたあの日、私は泣きました。でも今はもう、涙も枯れました。あなたの言葉で、全部終わったんです」
レオンの瞳が揺れる。
その表情は、怒りと悲しみと後悔の混じった複雑なものだった。
「俺は──君を守るために手放したんだ……」
「いいえ。守るためなんかじゃない。自分の地位を守るために、私を捨てたのよ」
冷たい声でそう告げると、リリアは背を向けた。
彼女の背中を、レオンはただ見送るしかなかった。
それから数日後。
王都では奇妙な噂が広がっていた。
──リューネ殿下の婚約者に、脅迫状が届いたらしい。
──その差出人は、どうやら元恋人だとか。
「……レオン・ハイゼル、か」
アランが報告書を読みながら眉をひそめる。
「まさか、そこまで落ちるとはな」
「放っておいてください」
リリアは小さく首を振った。
「もう、彼に関わる時間がもったいないです」
そう言いながらも、指先は少し震えていた。
アランはそれを見逃さなかった。
「……リリア。もし彼がまた近づいてきたら、必ず俺に言え」
「……はい」
だがその夜。
彼女の部屋の窓辺に、ひとひらの花弁が落ちていた。
──赤い薔薇の花弁。
かつてレオンが、彼女の誕生日に贈ってくれたものと同じ花。
「……どうして」
リリアの胸に、ざわりとした不安が広がる。
翌朝、王都の外れの路地裏で、一人の男が倒れているのが発見された。
レオン・ハイゼル。
酒と薬に溺れ、虚ろな目で呟く。
「リリア……リリア……俺を見てくれ……」
彼はもう、貴族としての威厳を失っていた。
それでも、その執着だけは消えない。
「彼女は俺のものだ……誰にも渡さない……」
そしてその呟きを聞いた男がいた。
黒衣の影──裏社会で暗躍する情報屋だ。
「リューネ領の殿下の婚約者、ねぇ……。なるほど、利用できそうだ」
レオンの瞳に、微かな光が戻った。
「……彼女を……取り戻す方法があるのか」
「代償は、高いですよ。ですが──愛のためなら、払えるんでしょう?」
その言葉に、レオンは微笑んだ。
壊れたような、狂おしい笑みだった。
数日後。
リリアが王立研究所へ向かう途中、馬車の中で窓を開けた瞬間、かすかに香る花の匂いに気づいた。
──薔薇。
振り向いたとき、通りの影から誰かの視線を感じた。
冷たい、けれど確かに懐かしい視線。
その奥に宿るのは、愛でも後悔でもない。
──狂気。
(レオン……?)
鼓動が早くなる。
けれど次の瞬間、護衛が叫んだ。
「危ない!」
何かが閃いた。
ガラスが割れ、煙が立ち上る。
リリアは咄嗟に魔力障壁を展開し、衝撃を防いだ。
「リリア!」
駆け寄ったアランが、彼女を抱き寄せる。
「無事か!?」
「だ、大丈夫……でも、今のは──」
王都の通りの向こう、崩れた屋根の上で、一瞬だけ金色の髪が揺れた気がした。
「……リリアは、俺のものだ」
風に紛れて届いたその声は、確かに彼のものだった。
夜。
アランは兵を集め、王都の警備を強化した。
リリアは部屋で静かに紅茶を飲みながら、窓の外を見つめる。
──あの時、あの人が泣きながら謝っていたら。
もし一度でも、心から「ごめん」と言ってくれていたら。
きっと、こんな風に壊れなかったのに。
けれどもう、遅い。
彼は自分で選んだ。身分も、名誉も、そして理性も。
(……さようなら、レオン)
そう心で呟いたその瞬間。
──窓の外に、赤い薔薇がひとつ、置かれていた。
血のように深い赤。
その花弁には、震えるような筆跡で一言。
>「今度こそ、君を手に入れる」
リリアの指先から、カップが落ちた。
アランが部屋に飛び込んできた時、彼女の顔は蒼白だった。
「……彼が、戻ってきたわ」
その声は、震えていた。
──そして夜は、静かに崩れていく。
かつての恋が、狂気へと変わりながら。
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