「身分が違う」って言ったのはそっちでしょ?今さら泣いても遅いです

ほーみ

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 リリアの部屋に残された、たった一輪の薔薇。
 ──それは、彼が狂気に堕ちた証だった。

 アランが兵を呼び寄せ、屋敷全体に結界を張る。
 「外からの侵入は防げるはずだ。君は今夜から、私の部屋で休め」
 「でも、殿下……」
 「アランでいい」
 その声に、リリアの胸がわずかに熱くなる。
 「……アラン」
 彼の名を呼んだ瞬間、アランの瞳が柔らかく細められた。

 「怖い思いをさせてすまない。必ず守る」
 その言葉に、リリアは小さく頷いた。

 けれど──
 窓の外で、誰かが笑ったような気がした。
 風に乗って、どこか懐かしい低い声が響く。

 「守る? 君を守れるのは、俺だけだろう」

 リリアは無意識に身を震わせた。

 

 その頃、王都の地下街。
 湿った石壁の奥、ひとつの燭台の炎が揺れる。

 レオン・ハイゼルは、闇商人と呼ばれる男と向かい合っていた。
 「……これが、殿下の屋敷の結界図だ。王城から流出した正規の写しだぞ。金貨百枚で譲ろう」
 「百枚だと?」
 レオンは冷笑を浮かべる。
 「そんなもの、いくらでも払える。必要なのは“彼女”だけだ」

 懐から取り出した袋が机に落ちる。
 じゃらりと音を立て、黄金がこぼれた。
 「……王国一の貴族も、墜ちたものだな」
 商人の目がぎらりと光る。

 レオンは微笑んだ。
 「愛のためなら、地獄でも構わない」

 

 その夜。
 リリアはアランの部屋の隣室に用意された簡素な寝台にいた。
 外は雨。窓を叩く音が、やけに胸をざわつかせる。

 ──昔もこんな夜があった。
 学園の図書室で、外が嵐になった日。
 怖くて帰れなかった私に、レオンが小さく笑って「大丈夫だ、俺がいる」と囁いた。
 その優しい声が、頭の奥で蘇る。

 (……どうして、あんなにも変わってしまったの)

 きっと、誰よりも優しかった。
 誰よりも、真っ直ぐに人を想っていたのに。
 だからこそ、彼の壊れ方は残酷だった。

 リリアは静かに目を閉じる。
 でも、眠りは浅い。
 心の奥で、何かが近づいてくる気配を感じていた。

 


 深夜。
 ふと、窓辺に影が差す。
 次の瞬間、ガラスがわずかに軋み──音もなく開いた。

 「……リリア」
 かすかな囁き。
 眠りの浅いリリアは目を開け、その声に凍りついた。

 そこにいたのは、レオン。
 雨に濡れた金の髪。狂気を孕んだ瞳。
 かつて愛したその顔が、まるで別人のように歪んでいた。

 「どうして……ここに……!?」
 リリアが叫ぶより早く、彼は彼女の口を手で塞ぐ。
 「静かに。誰にも気づかせたくない」
 「レオン、離して……っ」
 「違うんだ、リリア……俺は、君を取り戻しに来ただけだ」

 彼の指先が震えている。
怒りでも、欲でもない。
 ──哀しみと、執着。

 「君はあの男に囚われてる。違うか?」
 「アラン様は……私を助けてくれたのよ」
 「違う! あいつは君を利用してるんだ! 君の魔力が欲しいだけだ!」
 レオンの声が荒れる。
 「君がどれだけ優しくても、あいつは王族だ。身分が違うんだ! そんなの、間違ってる!」

 その言葉に、リリアの瞳が鋭く光る。
 「“身分が違う”って言ったのは、あなたじゃない」

 一瞬、沈黙。
 そして、レオンの顔が苦悶に歪んだ。
 「俺は……間違っていた。だが、あの時の俺はどうしようもなかったんだ。父も母も、婚約者を決めて……!」
 「それでも、あなたが選んだのは“私を捨てること”だった」

 リリアの声は静かで、しかし強かった。
 「だから今さら、私を“取り戻す”なんて言わないで」
 「……俺は君を失って、生きる意味をなくしたんだ」
 レオンの手が震え、頬に触れようと伸びる。

 「もう一度、やり直そう。君のために、全部捨てる。地位も、名も、王国さえも」
 「……それは、あなたのためよ。私のためじゃない」

 その瞬間、外の扉が激しく開いた。
 「リリア!」
 アランが駆け込んでくる。
 次の瞬間、剣の切っ先がレオンの喉元に突きつけられた。

 「その手を離せ、ハイゼル」
 「殿下……!」
 リリアの腕を掴んだまま、レオンはゆっくりと顔を上げた。

 「……やはり来たな。君はいつも、俺の邪魔をする」
 「邪魔ではない。彼女は俺の婚約者だ」
 「違う! 彼女は俺の……!」

 刹那、レオンが短剣を抜く。
 アランの剣が火花を散らし、鋼の音が室内に響いた。
 リリアはとっさに魔力障壁を展開し、壁際に退く。

 「リリア、下がれ!」
 「やめて、二人とも──!」
 叫ぶ声は届かない。
 レオンの瞳には、理性の光がもう残っていなかった。

 「君さえいれば、他はどうでもいい……!」
 「狂ってる……レオン、もうやめて!」
 「狂わせたのは君だよ、リリア!」

 怒号とともに剣が交錯する。
 アランの一撃がレオンの短剣を弾き、彼の頬をかすめた。血が飛び散る。
 それでもレオンは笑った。
 「痛くないさ。君に会えたんだから」

 ──その笑みが、哀しいほどに壊れていた。

 アランが剣を突きつけ、低く言い放つ。
 「これ以上彼女を苦しめるなら、容赦はしない」
 「苦しめる? 違う、俺は救おうとしてるんだ……あいつの呪縛から」
 「その“呪縛”とやらが、君の妄想だ」

 沈黙が落ちる。
 次の瞬間、レオンは窓へと跳び出した。
 ガラスが砕け、夜風が吹き込む。
 外には、闇に紛れた黒衣の男たちが待っていた。
 ──裏商人の傭兵。

 「追え!」
 アランの声が響く。
 だが、リリアはその場で立ち尽くしていた。

 雨の中、遠ざかるレオンの姿。
 その背中が、どこか悲しげに見えた。

 

 翌日。
 レオンは地下教会に身を潜めていた。
 手に持つのは、血で汚れた懐中時計。
 かつてリリアが贈ったものだ。

 「リリア……」
 狂気の中にも、かすかな人間の痛みがある。
 「君が望むなら、俺は罪人でも構わない。だが……君をあの男から取り返す」

 その背後で、黒衣の影が微笑んだ。
 「殿下の婚約式の日程が決まりました」
 「……婚約式、だと?」
 「はい。三日後、王宮にて。……その時こそ、奪い返す時ですよ」

 レオンの目に、炎が灯った。
 「そうだな。誰にも邪魔はさせない……あの夜のように、もう一度君を抱きしめてみせる」

 ──その言葉が、運命を大きく狂わせる引き金となる。

 

 一方、リリアの元にも婚約式の準備の報せが届いていた。
 王族との婚約。
 本来なら夢のような話なのに、心はなぜか重かった。

 「……アラン様」
 「どうした?」
 「レオンのこと、捕まったんでしょうか」
 「捜索は続けている。心配するな」

 けれど、その目の奥にかすかな影が宿っていた。
 アランは知っている。
 ──レオンが、ただの男ではないことを。
 彼はかつて、王国最強の魔導士の一人だった。
 そして今、狂気の中でその力を取り戻しつつある。

 (婚約式の日……必ず、奴は来る)

 アランの拳が静かに握られた。
 リリアを守るために。
 彼女を、再び過去に囚わせないために。

 ──だがその時、遠く離れた教会の鐘が鳴った。
 音は風に乗り、王都全体に響き渡る。
 まるで、何かの始まりを告げるように。

 「リリア……今度こそ、君を手に入れる」
 その声が、どこかで確かに響いた気がした。
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