「地味な眼鏡女」と婚約破棄されましたが、この国は私の技術で保たれていたようです

水上

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第3話:改革の幕開け

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 北の辺境、オブシディアン辺境伯領。

 王都から馬車で数日かけて到着したその地は、厳しい寒さと、それゆえの研ぎ澄まされた空気の透明度が印象的な場所でした。

 領主館に到着した初日。

 私は、ギルバート様に拾っていただいた恩を返そうと、意気込んで厨房に立ちました。

 私か普段手掛けているガラス加工には温度管理が不可欠。
 ならば、料理という熱化学反応の制御など造作もないはずです。

 ――数十分後。

「……おかしいですね。有機物の炭化プロセスが想定より早く進行しました」

 食卓の上には、黒々とした物体が鎮座していました。

 かつて肉と野菜だったそれらは、私の完璧な(はずの)火力計算により、見事なカーボン一歩手前へと昇華されています。

 ギルバート様は、食卓の向かいで眉間の皺を深め、真剣な眼差しでその物体を凝視していました。

「あ、あの、ギルバート様。無理をなさらないでください」

 彼が無言で口に運んだので、私は慌てて止めようとしました。
 しかし、彼は首を横に振ります。

「いや……、なるほど。これは料理というより加熱実験の失敗作に近い。炭化の度合いが見事だ」

「すみません、すぐに廃棄して作り直します」

「ならん。お前が俺のために時間を割いたという事実だけで、栄養価は満点だ」

「……胃薬、お持ちしましょうか?」
   
 翌日の午後。

 工房の設置準備をしていた私の元に、ギルバート様が訪れました。
 手にはお皿を持っています。

「休憩だ。これを食え」

 差し出されたのは、宝石のように美しいベリーのタルトでした。
 生地はサクサク、カスタードは艶やかで、上に乗ったブルーベリーとラズベリーが照明を弾いて輝いています。

「こ、これは……? 王都の有名パティシエでも雇っているのですか?」

「俺が作った」

「はい?」

「お前はレンズの研磨作業で目を酷使するだろう。アントシアニンとビタミンAを極限まで高め、血糖値が急上昇して眠くならないよう甘さを控えた特製品だ」

 一口食べて、私は目を見開きました。

 美味しい。
 甘酸っぱさが口いっぱいに広がり、疲れた視神経に染み渡るようです。

「お前が作り出すレンズは素晴らしいが、そのためにお前自身の眼球というレンズが割れてしまっては元も子もないからな」

 ぶっきらぼうに顔を背ける彼。

 どうやら私は、料理というフィールドでは彼に完敗したようです。
 ならば、私は私の得意分野で貢献するしかありません。

 私は気分転換も兼ねて、領主館の執務エリアを見学することにしました。
 しかし、その扉を開けた瞬間、漂ってきたのは淀んだ空気でした。

「はぁ……、終わらない……」

「インクが滲んだ……。書き直しだ……」

「このペン、もう先が割れてるぞ。新しい羽ペンはないか?」

「予算不足で、削って使うしかありません……」

 そこは、死屍累々の地獄絵図でした。
 目の下にクマを作った文官たちが、羊皮紙と格闘しています。

 原因は一目瞭然でした。
 彼らが使っている道具があまりにも劣悪なのです。

 ガリガリと紙を引っ掻くような質の悪い羽ペン。
 すぐにインク切れを起こし、何度もインク壺にペンを運ぶ無駄な動作。

(……許せません)

 効率を愛する私の美学に反します。
 私は彼らの上司である執務官に声をかけました。

「あの、少し手を止めていただけますか?」

「は? なんだ、君は……、あぁ、閣下が連れてきたお客さんか。悪いが今は忙しくて」

「忙しい原因を取り除きに来ました」

 私はポケットから、昨日試作したばかりのガラスペンを取り出しました。
 透明なガラス棒の先端に、螺旋状の溝が刻まれた美しい筆記具です。

「これは……、ガラス細工? 綺麗だが、おもちゃに構っている暇は」

「見ていてください」

 私はインク壺にペン先を一度だけ浸し、手近な紙に文字を書き始めました。

 滑らかに、どこまでも滑らかに。
 インクは途切れることなく続き、紙への引っかかりも皆無。

 一行、二行、三行……。
 一度もインクを付け直すことなく、書類一枚分の文字を書ききりました。

「なっ……!?」

「毛細管現象を利用しています。この螺旋状の溝がインクを吸い上げ、保持し、適切な量だけを紙に流し込むのです。羽ペンのように削る必要もなく、インク持ちも十倍以上」

 私が説明を終えるより早く、文官たちが目の色を変えて詰め寄ってきました。

「か、貸してください!」

「すごい! なんだこの書き味は! 手が疲れない!」

「おい、これなら今日のノルマ、あと一時間で終わるぞ!」

「家に……、帰れるのか? 明るいうちに?」

 大の大人たちが、ガラスペンを握りしめて涙ぐんでいます。
 それほどまでに、彼らは非効率な労働環境に苦しめられていたのでしょう。

「当面必要な本数は私が用意します。これで、残業時間を削減してください」

 私が告げると、文官たちは一斉に私に向かって深々と頭を下げました。

 その眼差しは、先日のギルバート様の視線に負けないほど熱烈な崇拝の色を帯びていました。

「お嬢様……、いや、女神様! 一生ついていきます!」

「早く帰って子供の顔が見れます! ありがとうございます!」

 騒ぎを聞きつけたギルバート様がやってきて、活気に満ちた――そして早くも帰宅準備を始めた――部下たちの姿に目を丸くしています。

「……リル、お前は何をしたんだ?」

「ただ、道具の変えて、効率を少し修正しただけですよ」

 私は眼鏡の位置を直し、誇らしげに胸を張りました。

 料理は彼に任せるとして、領地経営の効率化は私の仕事になりそうです。

 こうしてオブシディアン領の改革は、一本のガラスペンから静かに幕を開けたのでした。
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