捨てられた地味な王宮修復師(実は有能)、強面辺境伯の栄養管理で溺愛され、辺境を改革する ~王都の貴重な物が失われても知りませんよ?~

水上

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第3話:聖女の涙の謎

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 辺境での生活が始まって数日。
 リディアの朝は、騒々しい鐘の音と共に始まった。

「不吉だ! 祟りだ!」

「聖女様が血の涙を流しておられるぞ!」

 屋敷の外から、悲鳴にも似た領民たちの声が響いてくる。
 何事かと窓に駆け寄ったリディアの背後で、重い扉が開いた。

「……朝からうるさい。肺活量の無駄遣いだ」

 軍服を崩して着たジェラルドが入ってきた。
 その表情はいつにも増して険しい。
 彼はリディアに向き直ると、短く告げた。

「出動だ、リディア。領内の教会でパニックが起きている。絵画が血を流したそうだ」

「絵画が……、血を、ですか?」

「ああ。民衆は疫病の前兆だと騒いでいる。だが、私はオカルトなど信じない。そこにあるのは物理現象だけだ。――君の目で、正体を暴いてくれ」

 教会は、異様な熱気に包まれていた。
 恐怖に駆られた人々が祭壇の前に押し寄せ、祈りを捧げたり、泣き叫んだりしている。

 湿った空気。
 人々の体臭と、蠟燭の燃える匂い。
 そして、鼻をつく微かなカビの臭気。

「道を開けろ!」

 ジェラルドの一喝――というより、その強面が視界に入った瞬間、海を割るように人波が左右に分かれた。
 恐怖の対象が祟りから領主様に移っただけのような気もするが、おかげで祭壇への道が開いた。

 リディアは祭壇画を見上げた。
 それは百年ほど前に描かれた聖女の肖像画だった。

 慈愛に満ちたその顔の、両目から――確かに、鮮やかな赤が、頬を伝って滴り落ちていた。

「ひぃっ……! ま、また血が……!」

「お許しください、お許しください!」

 民衆が動揺する中、リディアは眼鏡の位置を直し、冷静に絵画へ歩み寄った。

 怖い、とは思わなかった。
 彼女の脳内では、すでに鑑定が始まっていたからだ。

(……血液特有の鉄錆の匂いはしません。それに、この粘度……)

 リディアは懐からルーペを取り出し、絵の表面、そして額縁の裏側の壁を観察した。
 教会の壁は石造りで、換気が悪く、至る所に黒い染みが浮いている。

「ジェラルド様、少し高いところを見たいのですが」

「わかった」

 ジェラルドは何も聞かず、リディアの腰を両手で掴むと、軽々と高く持ち上げた。

 突然の浮遊感に心底驚きつつも、リディアは絵の上部、額縁と壁の隙間を確認する。
 そこには、びっしりと青黒いカビが繁殖していた。

「……やはり、そういうことですか」

「何かわかったか?」

「はい。……とりあえず、降ろしてください」

 地面に足を着けたリディアは、不安そうに見つめる民衆に向かって、努めてはっきりとした声で言った。

「皆さん、安心してください。これは聖女様の呪いではありません」

「で、でも、実際に血が!」

「これは、単なる化学反応です」

 リディアは指先についた赤い液体をハンカチで拭き取りながら解説を始めた。

「この絵画の肌色に使われている顔料には、微量の辰砂――硫化水銀が含まれています。これは古くから赤色の顔料として使われてきましたが、特定の条件下で液状化する性質があります」

 彼女は壁の黒ずみを指差した。

「この教会は湿気が多すぎます。壁に繁殖したカビが硫黄を含んだガスを発生させ、それが絵画の顔料と反応して、赤い結露となって溶け出したのです。つまり、聖女様が泣いているのではなく、絵が湿気で汗をかいているだけです」

 静まり返る教会内。
 難しい化学用語は伝わらなかったかもしれないが、湿気とカビという身近な言葉に、人々はぽかんとした顔を見合わせた。

「……つまり、祟りじゃねぇのか?」

「はい。壁の掃除をして、換気を良くすれば、涙は止まります」

 リディアが断言すると、ジェラルドが前に出た。

「聞いたな! これは神の怒りではない、ただの衛生の問題だ!」

 その声は、教会全体を震わせるほど響き渡った。

「直ちに南側の壁をぶち抜いて窓を増やせ! 床下の通気口も拡張だ! 資材は屋敷から出す。工事が終わるまで、この湿っぽい場所での集会は禁止とする!」

 あまりに即物的な解決策。
 しかし、領主の迷いのない指示は、見えない恐怖に怯えていた民衆に劇的な安心感を与えた。

「窓を作るぞ!」

「カビ退治だ!」

 先ほどまでの悲壮感はどこへやら、男たちは鍬やハンマーを取りに走り出し、女たちは掃除用具を手に取り始めた。

 騒動が一段落し、帰りの馬車の中。
 リディアは少し疲れてシートに背を預けていた。

 人前で大声を出すのは苦手だ。
 けれど、自分の知識が役に立ったという事実は、じんわりと胸を温かくした。

「……見事だった」

 向かいに座るジェラルドが、水筒を差し出してきた。
 中身は、疲労回復用の蜂蜜レモン水だ。

「感情論でパニックに陥った集団を鎮めるのは、軍隊でも骨が折れる。だが君は、論理という一本の針で、膨れ上がった恐怖の風船を割って見せた」

「そんな……、私はただ、絵の具の性質を説明しただけです」

「それが重要なんだ」

 ジェラルドは真剣な眼差しでリディアを見た。

「王都の連中は、君を地味だと言ったそうだが、彼らは節穴もいいところだ。君の知識は、どんな宝石よりも実用的で、美しい」

「――っ」

 美しい。
 王太子からは一度も言われたことのない言葉。

 それが外見のことではなく、自分の積み重ねてきた知識や技術に向けられたものだとわかるからこそ、リディアは顔が熱くなるのを止められなかった。

「……こ、このレモン水、美味しいです」

「当然だ。クエン酸回路を活性化させる濃度にしてある」

 照れ隠しに話題を逸らすと、ジェラルドはいつもの調子で胸を張った。

 リディアは口元を緩めた。
 窓の外には、工事を始めた領民たちの活気ある声が響いている。
 「カビ臭い」と言って捨てられた自分だが、ここではその知識がカビを一掃し、人々の笑顔を守ることができた。

 それが、何よりも誇らしかった。
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